15話 サリーの小さな傲慢
さらに五年が経った夏の初めの頃である。日の光が暖かく王国を照らし、穏やかな潮風が街を吹き抜けていた。
広場は人で満ち、がやがやとしていた。この日は祭りだった。人々は、親しい者どうしでことばを交わし、浮かれた感情を露わにしていた。
人々は、広場の中心を囲んでいた。サリーもそこに居て、人々と同様にそわそわとしていた。
王国の広場では、毎年の夏の初めに祭りがおこなわれる。豊穣を占う祭りである。
占いは、大人五人分ほどの長い棒の先に藁をきつくまとめて作った赤子大の人形を結びつけ、これを射るという方法でおこなう。二十の矢を射て、そのうち何本が当たるかによって、豊穣を占うのである。
この祭りには、伝統的にホティ族の者も皆参加する。商人は普段の取引で頻繁に交流があるが、それ以外の者にとっては数少ない機会の一つだ。
二十本の矢のうち、一本目をホティ族の者が放つ。一本目の矢を放った者はその近傍の民を誰ともなく捕まえ、次の矢を打たせることとなっていた。二本目以降も同様に、十九本目の矢までを射させる。二十本目の矢だけは王が射ると決まっている。
誰が射るかわからず、そのため当たるかどうかわからないという緊張感がこの祭りにはあった。ここに、人々は熱くなるのだった。
王国の民とホティ族の他に、ロメスからの旅行者も少なからずあった。六年半の間に、交易以外の目的で王国を訪れる豊かな者も増えた。だから、こうした行事を見に来る者も、多くなっていた。
王国とロメス帝国の関係は、かつての敵対が嘘であったかのように穏やかなものとなっていた。交易を中心として、民間のやりとりと統治者間のやりとりはともに盛んとなり、多くの者は互いの国と人間に友好の感情を抱いていた。このことは、アマデウスの徳だと民に思われていた。
王国の民、ホティ族、ロメスの人が広場の中心を囲んでいるなかで、サリーもまたアマデウスやリウス、ロトンらとともにそこに立っていた。囲みの中心近くであった。王族だからである。ロトンの左手をサリーが掴み、ロトンの右手をリウスが掴んでいた。ロトンは、立てるようになり、ことばを話すようになり、自分で服を着るようになり、文字を読めるようになっていた。つまり、すくすくと育っていた。ロトンは、サリーと手を繋いで広場の真ん中で起こるできごとを見ていた。サリーに似ず穏やかな性格に育ちつつあるロトンだったので、きゃっきゃとはしゃぐというわけではないが、それでもこの祭りをここ何年かと同様に楽しんでいるようだった。サリーはそのロトンを見て、柔らかい感情に包まれるのを自覚した。サリーは母として、ロトンの幸福を自らの幸福と同じくらい願っていた。サリーはロトンの手を強く握りなおす。
サリーは、ロトンを眺めながら、昔のことを思い返した。結婚するよりも前のことだ。そのころは、祭りを遠巻きに見ていた。父は前で見よと言ったが、それを拒んだ。弓を持ちたくなかったからでもあるが、主にはことばが通じなくて野性的なホティ族を、少し恐れていたからだ。
しかし、ここ何年かは、そういう感情も薄らいできていることをぼんやりと認識していた。それは、リウスやアマデウスがホティ族と話して交渉するのを見てきたからであり、戦いのなかでの全面的な支援に感謝したからでもあった。それでも、どこか馴染まない感覚が残っていた。
その意味では、この祭りも遠くから気楽に見たいような感じがした。リウス兄弟やロトンと語らいながら。気ままに。しかし、今は王族ということになってしまったから、近くで見なければならない。それは、煩わしいことだった。
人々は広場の中央を円く囲んで一つの空間を作っていた。ここに、人形が掲げられるのである。まさに、人形が結びつけられ、棒が立てられる。棒は、屈強な男に支えられ、城壁よりも高く聳えた。歓声が上がる。人形は揺れている。もし棒を倒せば、この人形は城壁の内に侵入できるなとサリーは思った。
いよいよ占いである。早速、弓を構えたホティ族の青年が棒の下に進み出て、初めの矢を射た。空気の切れる高音一瞬。矢は恐るべき速さで腹を射貫いた。おおっと観衆がどよめいた。射貫いたというのは、人形の腹に矢が命中し、背中の側から少し飛び出て停止したという意味である。珍しいことだ。祭りの矢に鏃は無い。たいてい、命中しても地に落ちるか、せいぜい浅く刺さるだけなのだ。腹から背に矢を通された人形の姿を、少し残酷だとサリーは初めて思った。ロトンと見ているからかもしれない。
ホティ族の青年は、辺りにいた民の腕をガッと掴んで引き出した。民はまんざらでも無い顔だ。祭りを前の方で見るくらいだから、自信があるのだ。しかしその民は外した。パラパラと慰めの拍手が響く。その民も、すぐに気を取りなおして次の射手を選ぶ。
そのようにして、老若男女が次々に矢を射た。当たったり外れたりした。
サリーは眺めているうちに、いつの間にかぼうっとしていた。すると、誰かがサリーの腕を掴んだ。サリーを十七人目に指名したのである。
サリーは困惑した。なぜ、二十人目がアマデウスなのに、似たような立場の自分をこの段階で前に出すのか。答えはすぐにわかった。腕を掴んだ者は、ホティ族の少年だったのだ。つまり、この少年はサリーが王の兄の妻だということを、知らないのだ。
サリーはまず、リウスの目を見やった。
「指名されてしまった以上、お前が行くしかないだろう」
なんて素っ気ない男。続いてアマデウスの方を見た。
「サリーさん、応援していますよ」
サリーはそのことばを受けて、アマデウスとロトンにだけ頬笑んだ。そして、弓を渡されながら、こっそりため息をついた。なぜ兄弟でこうも違うのか。
ロトンが期待のまなざしを向けている。当てたい。サリーは小さい頃、父に教えられた弓を思い出そうとした。将軍だった父が、いざというときには女も戦うのだといって、しつこくそれを教えてきたのだった。それが嫌だった。もともと活動的な自分が字を学んだり、王子たちと勉強しに行ったりしたのも、初めはそういう活動から逃れるためだったのだ。自分がホティ族に馴染めなかったのも、そういう経歴と関連しているかもしれない。
余計なことを思い出してしまったと、サリーははっとした。サリーは弓を構え、見上げ、高く揺れる人形に集中しようと試みた。中天は真っ青で、それを背景にすると、人形はなおさら小さく見えた。
潮風が頬を打っていた。先ほどまでは感じなかった涼風が、ずいぶん強く感じる。頬に弓を寄せると、いくつになってもなくならないそばかすに指が触れる。弦を引いた。矢の先が揺れて、狙いが定まらない。ふと、右に立つホティ族の青年が、腕を伸ばし、人形を指さしているのが目に入った。青年はその指を、わずかに右に寄せた。釣られて、弓をわずかに同じ方向に寄せた。弓の揺らぎが収まった。サリーは、これは当たると確信した。風が一瞬止んだ。人形が静止した。弦を放した。
サリーの矢は当たった。鏃のない先端が、ぼすっと緊張感の無い音を立てて人形の腹に深く刺さった。
「当たったわ」
拍手が起こった。サリーは、ホティ族の青年と目を合わせ、そして破顔した。自分でも驚いていた。確かに心が通ったのだ。ホティ族の青年と。青年もまた頬笑んでいた。ああ、こういう素朴な人たちなのだ。サリーはホティ族を知れたように感じた。
アマデウスたちが声をかけてきた。
「サリーさん、見事でした」
「ありがとう、アマデウス」
「お母さま。見事でした」
「ありがとう。ロトン」
「やるじゃないか」
「ありがとう。リウス」
拍手が続いていた。王国の民、ホティ族、ロメスの人が全て手を打っていた。近くの人のなかで、ロメスの人の笑顔がもっとも素直な笑顔に見えた。サリーはその大人の男の腕を掴み、弓を渡した。
義務を終えたサリーは恍惚として、ホティ族の青年について考えた。優しさのある青年だった。ホティ族らしく、上半身の筋肉が全て隆起していたのを、初めて愛しく感じる。ホティ族の肉体は、詩からほど遠いものだと思いつづけてきたが、案外そうでもないのかもしれないと感じた。力強いものもまた、詩になるのだ。少なくとも、夫の肥えた体よりは。ことばが無限に湧くような気がした。
考えていると、ひときわ大きな歓声が上がった。アマデウスが二十本目の矢を当てたのである。アマデウスはこのごろ武術も達者だった。
リウス兄弟も、ロトンも、王国の者たちも、ホティ族の者たちも、ロメスの者たちも、皆、豊穣を祝福していた。サリーも手を打って祝福した。この平和な幸福を満喫した。この平和が、いつまでも続いてほしいと願った。
サリーは祭りの後で、わずかな時間一人で実家に帰り、将軍である父と話した。
「ああ、楽しかった」
「珍しいじゃないか。いつも苦手そうにしていたのに」
サリーが活動的で積極的な人間となったのは、この親の影響である。
「そうね。ロトンやアマデウス様が応援してくれたから、頑張らなきゃって気持ちになったの。あんなに応援されて、祝福されるのは、悪い気分じゃないわ」
「久々に弓を使ってみて、気持ちよかったろう」
「そうかもしれないわね」
そういうことではなかった。弓を使うことが楽しかったわけではない。
「そうだろう。リウス様も弓が得意だからな。お前に弓を教えておいてよかったというものだ」
「そうかもしれないわね」
そうではない。弓を扱うからリウスが好きなわけではないし、弓を扱うからリウスに愛されたわけでもない。この人は、有能なのだろうけど、このあたりは野暮なことしか言えないので、嫌だ。暖かい応援と祝福のなかでせっかく湧いてきたホティ族やロメスの人に対する親しみも、この野暮な親と話していると衰えていくような気がした。
サリーは、即物的な考え方が嫌いだった。サリーが詩を愛し、武を嫌ったのは、この親に対する反動である。
でも、もうそんなことに悩まなくても良いのだとも思った。それにホティ族も、ロメスの人も自分に笑みを向けてくれた。親しみを向けてくれる民が居る。優しいアマデウスが居る。何よりも、愛し合う夫と子どもがそばに居る。自分の幸せを手に入れた。これをたいせつに育てていきたい。育てていこう。
地位が欲しくて結婚したわけではないけど、地位によって、自分は全ての人にとって父よりも愛される人間になった。そうサリーは感じていた。そこには暗い優越感があった。だからサリーは、父に背を向けて、昔は言えなかったことばを言うことができた。
「もう城に戻らないと。ロトンが待ってるから。私、忙しいの」




