6.東南アジア併合! 大東亜共栄圏実現の兆し!
大日本帝国陸海軍の進撃は真珠湾攻撃の成功以来留まるところを知らず、撃てば必中、斬れば必殺、といったような具合で、さくさく帝国の版図を拡大していった。
特に近隣の亜細亜諸国とは政治上経済上の都合から、また、大東亜共栄圏の理念上から、強い友好関係を結んでおく必要があったために、各種インフラの整備と関税の撤廃を実施。互いが最大の利益を得るよう、慎重に丁重に植民地を扱った日本は、まさしく亜細亜の解放者の名に恥じぬ振る舞いをしていたことになる。
さらに同時期、ゆくゆくは大東亜共栄圏の共通語となるべき日本語教育を本格的に始動。植民地の亜細亜人にとって日本語を学ぶことは、計り知れないメリットを彼らにもたらすのであった。これはあまり世で議論されない事実なので、特に記しておくべきだろう。
日本語を習得するメリット。それはすなわち、「古今東西の古典的文献へのアクセスが可能となる」ことである。日本は伝統的に文の国である。とりわけ大正時代には「大正教養主義」という、西洋の古典文献を読み漁ることが学生の間で流行し、その過程で多くの書籍が翻訳出版された。これは世界でもあまり類を見ないことである。というのも、アメリカがドイツの書物を読む、あるいは翻訳するのは難しくないのだ。英語とドイツ語は言語的に非常に似通っている。しかし、日本語にアクセスすることはなかなかできない。
そこへ来ると、日本は中国、韓国の書物はもちろんのこと、福沢諭吉ら先達の功績により西洋の文にも精通する知識人を多数有しているため、西洋の文献――言語的に近接していないものも渉猟することができる。どこかの出版社を叩けば、ぽろりと翻訳は出てくる。
日本は、日本語は、洋の東西を問わず世界中、地球すべての文献にアクセスするポータルなのだ。張り切って言えば、万国共通語にふさわしい素質を備えた言語なのだ。
そういう事情を知っていた植民地の被支配知識人たちは、喜んで日本語の習得に励んだ。
戦後、そうした人物の中から、傑出した研究者が幾人も現れてきたのは、なにも不思議なことではないのである。
ただ、イタリアおよびイタリア語と比較するのはよしてほしい。あの素晴らしい国はどんな秘密をもっているかわかったもんじゃないのだ。あまり触れないほうがよろしいのだ。もしかしたら哲学者たる国民全員が古今東西あらゆる言語を身に着けているのかもしれないし、そうではないかもしれない。これはもう、現地に足を運んでみなくてはわからない。日本語は世界共通語にふさわしいと豪語したが、歴史家の間では、イタリア語こそ世界共通語の王座を占めるべき言語であるという意見もちらほら散見される。そういう怖いもの知らずの研究者を抱える日本という国は、まこと、神の国であることよ。
1942年フィリピン併合。上海併合。
1943年インドネシア併合。ネパール併合。ティモール併合。チベット併合。アラスカ併合。グアム併合。
話は戻るが、モーツァルトのイタリア語のオペラを聴いていると、ああ、これこそ歌というものだ、言語というものだ、神の声とはこういうものを言うのだろう、という気分になることが少なくない。同様の体験をしている人間は新国立劇場にたくさんいる。あれは歌うための――そしておそらく真の存在目的は、真言の詠唱のための――言語なのだ。
イタリアのことをきょうは考えすぎた。なんだか頭がくらくらして倒れそうだ。ムッソリーニとファッショの幻覚が見える。部屋の中にローマ法王がいる。救急車のサイレンがヴェルディのメロディを紡いでいる。「行け、黄金の翼に乗って」。近所の子どもが合唱している。Cosi fan tutte.
ヒトはイタリアの夢を見始めたら、即座に休養を取るべきである。これは歴史家の一致した見解である。