3.激闘! トラトラトラ! パールハーバー!
1941年8月。アメリカ領ハワイ諸島。真珠湾。AM 11:23。
アメリカ側の日誌によれば、航空母艦「マッキンリー」の甲板上でひとりの男が――喫煙しながらシェリー酒をちびちびやり、ついでに海に放尿しつつ大あくびをかましていた多芸な中年下士官、トーマス・ジン軍曹が――地平線の果てに一群の飛行物体を発見して悪態をついたという。
「I have a pen. I have an apple. Aieeeeeeeee! APPLE-PEN!!!! (なんだって合衆国はジャパンのイカれたリンゴ頭どもを槍でぶっ殺してさっさと併合しちまわねえんだ? おれはとことんやる気だってのによ。ほらみろ、こうしてのんびりしてるから、あっちからおいでなすったぜ!)」
などと、言ったかどうかはわからない。これは歴史家の想像に過ぎない。しかし実際、彼が見たものは日本の攻撃機編隊であった。
隣で同じく放尿していた上官、気品ある老年将校ジョージ・シュトラウス中尉はその実直な報告に対して、
「I understood what you said. Your APPLE-PEN is f@@@’in B29. (お前がそう言うのはもっともだよ。実際、こちとらには爆弾がロッキー山脈みたいに積まれてるし、爆撃機に至っては市場のリンゴ並みのセール状態だ。つまり、人間も兵器も数ばかりあって退屈してやがる。無駄の極みだな。一丁、ドカンとやりたいもんだと思ってたところだ。あっちからご来訪とくりゃ、なあ、とっくり歓迎してやろうじゃないか)」
などと、言ったかどうかはわからない。これは歴史家の想像に過ぎない。しかし教養ある将校らしい、当意即妙の回答をしたことは確かだ。
かくしてアメリカ側は、日本機を目視してから迎撃の準備にとりかかった。
しかし、日本機はアメリカの将校たちが予想しているよりもずっと早く、航空散兵線へと到達し機銃の掃射を開始。このときすでに日本の航空機開発は列強のうちでもずば抜けて進んでおり、この、いわゆる「真珠湾攻撃」において投入された新型機「零式」は、のちになっても語り継がれるように飛んでは隼のごとき速度、撃っては蒙古兵のごとく殺到、その圧倒的性能をいかんなく発揮し、アメリカ兵たちを恐怖のどん底に陥れた。
まき散らされる破壊。もたらされるは混乱。潰走するにも逃げ場とてなく、もとより帝国の兵たちは死ぬる覚悟の突進、対空砲火をひらりひらりと躱しつつ、無慈悲な弾丸を「マッキンリー」他、鋼鉄の船団に叩きこむ。
PM 14:23。すべての攻撃行動は終了し、帝国海軍の上陸部隊が真珠湾海域およびハワイ諸島を制圧。大日本帝国側の先制攻撃は華々しい成功を収めた。
アメリカ側の公式声明。「大日本帝国側の攻撃は宣戦布告より前に行われた極めて不当な奇襲行動であり、国際社会はこれをとうてい容認するにたえない。しからば連合国側はかの悪逆非道の僭主国に正義の鉄槌を振るい、我が陣営に備蓄されているロッキー山脈の質量をも凌駕する量の爆薬火薬を叩きこむ決意である」。この声明の原稿は文武に優れる気品ある将校、ジョージ・シュトラウス中尉が起草したものだと考えられている。彼は真珠湾攻撃を生き残り、一説によれば、単身泳いでアメリカ西海岸へ落ち延びたという。彼は終戦後、戦没したトーマス・ジン少尉(昇進)の墓参りをした際、墓石に海水をかけて十字を切り、
「Feel the sea, heavenly. (トム。この水にはおれとお前の小便が混じってるんだぜ。七つの海はぜんぶドブ水だ)」
と下品な冗談を飛ばしたかどうかは不明だが、その頬には一筋の涙が流れていた。
大日本帝国側の公式声明。「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色。盛者必衰の理を表わす。驕れるものは久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。猛きものもついには滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらえば、アテナイ、スパルタ、テーバイ、マケドニア、いずれも精兵ぞろいの都市国家であったが、ローマの威容はその増長を許さなかった。しかしてそのローマとて、いまや武を捨て基督教に殉じ、かつての栄華は見る影もないではないか。早晩、我が大日本帝国は滅する。それが理であるがゆえに。明日にも大東亜共栄圏の夢想は潰える。それが理であるがゆえに。一切は消える。それが理であろう。一切皆苦、これのみが本当ですよ。されば衆生、苦界を脱するを求むるが道理。救われねばならぬ。衆生は救われねばならぬ。大日本帝国及びその忠実なる臣民は、万国の衆生を救うべく、とりわけ苦境に生きる亜細亜、阿弗利加の友らに手を差し伸べるべく、ここに決死の覚悟を以って宣戦を布告する」。これは国民的文豪が起草した原稿であると歴史家の間では推測されている。特に冒頭は小学校でよく音読される。
真珠湾攻撃の詳細な様子はあまり教科書に載っていないので、多分に歴史家の推測を含む記述となったことをここにお詫びする次第である。