由莉は感覚を研ぎ澄ませました
───1週間が経過───
「集中するにゃ。でないと由莉ちゃん……ボコボコになるにゃんよ?」
「こ、これは難し……ぐぅっ……!」
森の中、由莉は音湖に一方的に殴られていた。見え見えの攻撃でも今の由莉には容易く当たる。なんせ────
「視覚に頼りすぎると分からないにゃ」
………目隠しをしているのだから。音湖との特訓の中で1番危険で無謀ともいえるものだ。しかも、由莉は反撃を許されず、ただ避けるだけ。最初は由莉も無茶だと言ったが、音湖に実践されてしまいやるしかなかった。……それに、あの時にえりかちゃん相手に出来たのだから、と。
注意してても分からないくらいに音もなく忍び寄った音湖の攻撃が由莉を襲い思わず倒れ込んでしまう。
「立つにゃ」
「ううぅ……っ!」
そんな由莉に音湖は手を差し伸べることなく敢えて師匠として由莉に厳しくあたる。由莉も若干ふらつきながらも立ち上がる。
(だめだ……っ、焦るとすぐに分からなくなる。落ち着いて……落ち着けば、少しは見える……っ)
視覚が使えない、それは触覚、聴力、気配の察知とも呼べる第六感、それらを高いレベルで維持しなければならないのだ。
だが、見ずに攻撃を避けるなんて、事実無理ゲーにも程がある。体に痣を作っては阿久津に手当をされ、えりかから心配されていた。
それでも、由莉は心の奥底で必死に食らいつき、どんな痛みでも耐えていた。
その成果もあってか、由莉は音湖の攻撃の1~2割はなんとか避けられるようになってきた。音湖も必死に応えようとする由莉に対し、全力で相手をしていた。
もちろん、殺すつもりの本気ではないことは述べておこう。
「視覚が使えないならそれ以外の情報全てに神経を向かわせるにゃ。一瞬でも気を抜くと……痛い目を見るにゃん……よっ!」
「うっ!?」
由莉の背中に鋭い手刀がささり、目が見えない状況と極度の集中による疲れで三半規管がめちゃくちゃになった由莉はそのまま前に倒れてしまう。
広い森の中に鳥のさえずる笛の音と荒れる吐息が木霊する中、ボロボロになった少女はもう少しも動ける気がしなかった。頭もくらくらして立てそうにない。
(あれ……目の前が真っ暗だ……って、目隠ししてたんだった……うぅ、力が入らないよ…………)
「…………よし、一旦休憩にするにゃ。由莉ちゃん、じっとしてるにゃ」
音湖は力が入らずぐったりとしている由莉を軽々とお姫様抱っこすると、河辺と森の境にある大きな樹木の側に運ぶと自分の膝に由莉を横向きに座らせるようにして自身も抱えながら座った。
暫くして髪を撫でられるのを感じた由莉がうっすらと目を明けると音湖がずっと側にいてくれていた。
「ぁ、音湖さん…………」
「うちは師匠にゃ。師匠は弟子の側で弟子のためになる事をするべきだとうちは思うにゃ。それで、大丈夫かにゃ? 骨とかは折れないようにはしてるつもりだけど、違和感があったらすぐに言うにゃ」
「ええっと……痛いですけど、骨の痛みはないです」
「……それならよかったにゃ」
どこにも激痛の走る部分のないことを音湖に話すと音湖もほっとしたような表情を浮かべた。由莉も音湖に撫でられる感覚にもう少しだけと甘えるように気持ちよさそうに音湖の体に寄り添っていた。
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そのまま数十分、その状態で居続けた由莉はそろそろ音湖も苦しいだろうと名残惜しそうにしながらも立ち上がった。それに合わせて音湖も立ち上がると再び森の中に入っていった。
「さて、由莉ちゃん。この1週間、ずっとやって来て貰ってありがとうにゃ」
「いえっ、強くなるためなら……このくらいの痛み大したことありません!」
「本当に芯の強い子にゃ。さて……今からやってもらうのは今までと同じにゃ。うちの攻撃を全部避けるだけにゃ」
「…………分かりました」
きついけど、頑張ろう──そんな意志を固めた由莉はポケットの中にしまっていた帯を自分の目を覆うように被せようとする…………だが、それは音湖に止められた。
「ただし、今回は目をつぶらなくてもいいにゃ」
「えっ……? いいのですか?」
「元々、ここに結びつかせるためにやってきたことにゃ。最終的には目隠ししながら出来ればいいけど、あれが役に立つのは目くらましをされた時と、暗闇だけにゃ。…………時間が惜しいからとっとと始めるにゃ。うちもちょっとだけ本気出させてもらうからついてくるにゃ」
その言葉に由莉は頷くと帯をポケットの中にしまい、音湖が来るのを待った。全神経を集中し、全ての感覚を研ぎ澄ませる。やる事は───今までと全く同じだ。
「…………っ!」
森のざわめきが、2人がもたらす異様なまでに静かな空間に支配されたように一瞬───ほんの一瞬だけ沈黙したその瞬間、音湖は風のように由莉の袂まで詰め寄ると拳を最速で、かつ二撃目、三撃目も織り込みで突き出した。
視認してからでは───音湖の動きは捉えられなかった。そして、由莉もまた…………
(…………ぁ)
突き出された右拳を寸前で右に逸れながら躱すと、振り上げながら繰り出される蹴撃を真下にしゃがんで回避する。その隙をついたとダメ出ししようと真上から拳が振り下ろされる。由莉はしゃがんでしまったせいでこれを目視は不可能だ。
だが、それを可能にしてしまうのが……由莉の意地だ。
服の擦れる音、風を切る音、僅かに感じる風圧、それらを全て感じることで由莉の目の代わりとなった。ぶつかる瞬間、立ち上がるようにして体を前に突き出す。足がその場に残ってしまうも、由莉は確信していた。絶対に避けられた、と。
音湖の拳は由莉の背中を捉えるつもりが、行き場を失い、足を掠めて地面を殴りつける直前で止められた。
「あ……れ…………? 避けられた……」
「1週間で……本当に出来るようになったにゃ……いや、びっくりはしないにゃ。さすが、あっくんの弟子でうちの可愛い初弟子にゃ」
音湖はこの1週間、自分の心を鬼にしてやってきた事が由莉の力になった事が嬉しくてたまらない様子だった。その一方で由莉も自分のした事に驚きを隠せなかった。
今まで視覚消失状態のせいでほぼ全ての攻撃が分からない、もしくは躱す前に当たってしまったのが、視覚が戻ったおかげで音湖の攻撃が躱すことの出来るギリギリのタイミングで直感的に分かるようだったのだ。由莉は自分でも信じられなかった。絶対にゾーンに入ったという気はしなかった。だからこそ、驚きで言葉を失ってしまった。
「ね、こさん……私……」
「よく頑張ったにゃ。まだしばらくは続けるけど、ここまで早く出来るようになったのは由莉ちゃんが、必死に……えりかちゃんを助けようと頑張ったからにゃ」
由莉の元まで歩いた音湖は由莉をぎゅっと抱きしめてあげた。音湖の柔らかい感触が由莉の頭に当たっていたが、それも由莉は褒められたのが嬉しくて同じように音湖に抱きついた。ちょっとはその行動に音湖は驚きつつもくっついている由莉の頭をそっと撫でてあげるのだった。
───そんな中、音湖はまた別の考えも持っていた。
(まだ……由莉ちゃんの力は引き出せるにゃ。まだ……『あれ』には遠く及ばない……そのくらいの力をこの子は秘めているにゃ。本当に……末が恐ろしくなってくるほどだにゃ。まっ、そんな可愛い子がうちの弟子になってくれたんだから、しっかりとしなくちゃだめだにゃっ)