第一話
耳元に通り抜ける一筋の風で、辺りの景色が一転する。
先程の光景とは打って変わり、視界を埋め尽くす、どこまでも冷たく、どこまでも白い真っ更な景色。
それ以外はなにもない。
どこか無機質にも感じられるこの地だけれど、
物心ついた時から過ごしてきたこの土地が好きだった。
争いや憎しみ、歪んだものとは切り離された純白の世界。
「……そろそろ戻らないと、雪代が心配するかしら」
頭の中で雪代が『あまり遅くまで出歩いては駄目だよ』とたしなめる姿が浮かぶ。
もう少しこの場所で物思いに耽けていたかったところだったけれど
私は踵を返し、その場を後にした。
「深雪おかえり。今日もまた雪景色を眺めていたのかい?」
「うん」
「そう。外は危ないから、あまり遅くまで出歩いては駄目だよ」
雪代がたしなめるように言う。
予想通りの対応に、にわかに微笑ましい気持ちになる。
「そういえば今日は何が食べたい? 少し山から降りて、材料を調達してくるけれど」
「じゃあ前作ってくれた……なんだったかしら。野菜がごろごろ入っていて、とろみのある煮込み料理」
「ああ、シチューかな? 丁度村まで降りた時に、通りがかった店の引き札で見かけたんだ。何が入っている料理か簡単に書かれていたから、完全に自己流で作ったんだけど、おいしかった?」
「うん、とても。今まで食べたことがない料理だったからすごく印象的だったの」
私の目の前に、ふわっと湯気が立ち昇るシチューの映像が浮かび上がる。
バターで炒めたほくほくしたじゃがいもと、こっくりと甘い人参。
他にもあまり馴染みのない具材が入っていたけれど、
寒さの厳しいこの地に合う、体も心もほっと温まる料理だった。
私達の住むこの地は、今も昔も変わらない、どこまでも白い、雪の世界。
けれど、下の世界ではシチュー以外にも、きっと様々な変化が起きているのだろう。
「……村の方は、少しずつ変わってきているのね」
少し眩しそうな顔をしながら呟くと、雪代が『そうだね』と頷く。
「けれど、同時に危険な場所だよ。特に、俺たちにとっては」
「…………」
雪代の言葉に口を噤む。
鏡に映る己の姿――。
この世界と同じ、真っ白な肌と輝くような白銀の髪。
そして、唯一色のある瞳は、一般的なそれとは違う黒紫色。
(何故私は、人とは違う容姿で生まれてきてしまったのかしら……)
人々が私のことを『雪女』と恐れていることは知っていた。
それ故、この山には誰ひとりとして近寄ろうとはしない。
自分のことを考えると、気持ちが少しずつ暗い方向へ傾いていく。
そんな私の気持ちを察してか、雪代がそっと私に手を延ばし、髪を撫でてくれた。
「人間はどうしても、人とは違うものに対しては拒絶を示してしまうものだから、仕方がないよ」
「本当は俺も、あなたにもっと外の世界を見せてあげたい。けれど――」
愛しむように私を見つめる雪代の瞳に、憂いが帯び始める。
悲しいのは私だけじゃない。
雪代もこの現状に、心が傷んでいるはずだ。
私も同じように雪代の髪にゆっくりと手を延ばす。
そっと触れた肌と髪は私と同じ、雪のような白。
彼もこの見た目故、他の人間からは『雪男』と呼ばれていた。
「俺は、深雪のこの肌も髪も、瞳も。全部綺麗で好きだよ」
髪を撫でていた指が、私の頬へ落ちる。
「私も、雪代のこの色が好き」
雪代と同じ色だから。
雪代がこの色を好きだと言ってくれるから。
だから私は、私の存在をまだ肯定することが出来ているのだと思う。
「……それじゃあ、俺はそろそろ出かけるけれど、深雪はちゃんといい子にしているんだよ」
「ええ。雪代も気をつけて」
「大丈夫だよ。深雪と違って、俺はしっかりしているから」
雪代は笑いながら髪が見えないようしっかりと笠を被ると、村の方と出掛けていった。
雪代が扉を締める様子を見届けると、これから何をしようかと部屋内を一巡見渡した。
外と同じく、あまり色彩のない内装。
生活に必要な最低限の道具や設備はあるものの、それ以外のものはほとんどない。
部屋の端からパチパチと炎が燃える音が耳に入る。
暖炉の薪が炎と絡まりながら、徐々に侵食されていくのを見ながら、
なんともいえない黒い染みが心に中に広がっていく。
昔から炎が燃えている様を見るのが、苦手だった。
それは私が『雪女』と言われている所以なのか。
(でも私には熱いものに触れられないとか、ましてこの雪山で暖炉なしでなんて生きていくなんてことは出来ないけれど……)
雪代以外の人とあまり接する機会がないからわからないけれど、
見た目が違うと言われているだけで、それ以外は他の人と何ら変わらない
……と思う。
(何か昔、嫌なことでもあったのかしら……?)
以前雪代に聞いたことはあったけれど『深雪はずっとこの地とともに生きてきたから、炎が少し苦手なんだよ。昔大泣きしたこともあるからね』と言われた。
そう言われると確かにそんな気もしたけれど、何か他の理由もあるような気もしていた。
(何故、そう感じてしまうのかしら……)
自分でもよくわからない蟠りを感じながらも、私は一旦暖炉から視線を逸らすと、
思い立ったように食材を集めに出かけることにした。