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夜の公園。公園と言っても、『海浜公園』と名が付けられただけのちょっとした広場のようなその場所は、この街の隠れたデートスポットであるらしい。
こればかりは頼みの綱の教本には何も載っていなかった。情報の提供者は、あの居酒屋の店員である。まさか二度もかっこ悪いところを見せておいて仲の良い関係が続くとは思ってもみなかったらしく、一人で飲みに行った時に、「がんばってくださいっす」とこの場所の情報をくれたのだ。以来、俺は心の中であの店員を師匠と呼んでいる。
「ね、少し歩きたいな」
「大丈夫? 寒いと思うけど」
「あっちの綺麗な景色、良く見てみたいの」
ドアを開ければ、冬の風は俺の身を固く引き締める。そうだ。俺はここで一世一代の告白をするのだ。車を降りる前に、時刻を確認しておく。
車内の時計は11時45分を示していた。
潮騒のする方へ、二人で並んで歩いていく。暗い海の方から、テトラポットにあたる冷たい波の音が響く。
海浜公園の対岸には色とりどりの小さな灯りが幾つも集まって、眩い景色を夜に描き出している。 徐々に夜に溶け込んでいく光のグラデーションはなかなか見事だ。こちらの岸がしんと静かな分、対岸の景色が随分賑やかに感じる。
昼間に見える景色はただの無機質な工場地帯なのだが、こうして時間を変えるだけでまったく違う世界のように見えるのはとても不思議なことだと思う。
「わぁ……」
彼女の弾んだ声が、静かな夜に色を付ける。12時を過ぎたら、俺は思いを彼女に伝える。そう決めていた。三ヶ月の初心者マーク期間が終わるのと同時に、どうしても言いたいと考えている。あと、何分だろう。
ジャケットを探っても、スマートフォンは見当たらなかった。車内に置忘れでもしたのだろう。それに、教本にもある。
Step5,携帯、スマートフォンは見ないこと
その通りだ。俺はよそ見してこの一瞬を見逃すことを良しとしない。夜景をみて、それに負けないくらい瞳を輝かせている彼女を、しっかりと記憶に刻み付けたい。
「すごいね」
こちらを向いて、彼女は目を細める。その肩が、少し震えたように見えた。
「風邪ひくよ」
ジャケットを彼女にかけて、俺は彼女の肩に触れた。冬の夜風が吹きつけるが、ここはやせ我慢だ。格好をつけるべきは、今だ。
「わ、ありがとう」
彼女と視線が交差する。肩に触れた手は、少し伸ばせば彼女の頬に触れられる。
ああ、喉が渇く。彼女は何も言わない。ただ、待っているように見えた。
「話があるんだ」
そう言ってから、ぐ、と息を飲み込んで言葉を続ける。
「三ヶ月前の続きなんだけど――」
一度ならず二度もふいになった告白だ。一度言っているのだからそう気を張る事もないだろうと思っていたが、とんでもなく緊張する。
大丈夫だろうか。俺はうまく表情をつくれているのだろうか。
そのまま言葉を続けようとした俺の唇に、そっと彼女の人差し指があてられる。
「ダメだよ」
それは……玉砕ということだろうか。二度あることは三度起こってしまうと、そういうことだろうか。前回までは、条例のことを持ち出して体よく断れたが、今回は本格的にお断りをしなければいけないと、そういうことだろうか。
ああ、確かに俺は滑稽過ぎるほど滑稽に振舞ってきた。すこしの暇潰しに見て楽しむならば好都合だったのかも知れぬ。
こんな、車に青春を捧げてきたような男が今更、色恋にあふれる世界へ足を踏み入れること自体が間違っていたのだろうか。
対岸に見える街明かりがやけに無機質で冷たいものに見えてしまっていた。
肌を刺すのは、冬の風。
そんな冷たいばかりの世界で、唇にだけ、微かな温もり。
この暖かさは、俺には手に入れることができないものだったのだろうか。
彼女の指が、ゆっくりと離れていく。
何も言えない俺に対して、彼女は何を言うべきかと考えあぐねているようだった。やがて、静かに口を開く。
○ ○ ○
「フライング。まだ時間になってないよ」
「……へ?」
「ほら見て。まだ11時45分」
彼女が取り出したスマートフォンには、確かにそう示されている。待ってくれ。車を出るとき、すでに11時45分だったはずだ。
あ、いや、待て。待て待て。そうだ。なまじ車の調子が良かったせいで忘れていたが、あのおんぼろ車の時計はずれているのだ。俺は、それを失念していたのだ。
「てっきり、12時ちょうどに言ってくれるんだと思ってた。
今日は、なんだか、とってもカッコいいなって思ってたから」
彼女がはにかむ。
俺は全身の力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。ああ、また、またこの街の条例に振り回された。もちろん、時間の確認を怠ったのはこちらの不手際だ。人為的ミスだ。認めよう。しかしそれでも、このやるせなさをぶつける為の、八つ当たる対象は明確に存在すべきなのだ。責任者はどこだ。くそう。
「実はそのつもりだった。雰囲気に流されたってことで」
「うん、真剣な表情、すごく良かったよっ」
「なんかもう、恥ずかしいから勘弁して」
先ほどまでのシリアスな空気は、冷たい風に攫われてどこかへ吹き飛んでしまったらしい。いつものように軽口を言い合いながら、寒くなってきたと車に戻った。
さて、先立っても述べたが、愛車というものは持ち主に似るものだ。
つまり、ムードの魔法が解けた今、俺の愛車は普段どおりのおんぼろに戻ったわけである。率直に言えば、エンジンがかからない。きりきりと甲高い音が夜に響くが、ふぉむん、と情けない音を立ててエンジンは頑なに沈黙したままだ。
「あはは、寒いとエンジンもかかりにくいよね」
「車も俺も、ほんと調子よかったのはさっきまでだ」
しかし忘れるなかれ。ちょっとしたコツがあるのさ。
キーを回しながら、俺は運転席のドアを開ける。
「ちょっとー、寒いよう」
「こうしないと、かからないんだ、よっ!」
思い切りドアを閉め、その衝撃でエンジンをかけるのだ。
しかし、外の寒さで手がかじかんでいたのだろうか。閉じた衝撃でドアにかけていた手がするりと外れ、そのまま勢いに任せて助手席の方まで倒れ込んでしまった。
それも、ちょうど彼女の胸の辺りに、こう、すっぽりと埋まる形で。
ぐおん、と軽快に回り始めるエンジン。飛び上がるように彼女から離れたが、俺の胸のエンジンにも煌々と火が点いてしまった。
「ご、ご、ごめん!」
「あはは! 大丈夫大丈夫!
年代物の車は発車の仕方も独特だねえ」
ううむ。彼女の前で格好をつけることは、どうやら俺にはできそうにない。
「でも、好きなんだ。この車」
「うん、分かる。とっても大切にしてるでしょう」
「そうだね」
「私のことも、大切にしてくれる?」
何だ、今のは、不意打ちか。不意打ちなのか。彼女の事を大切にするかと聞かれたのか、俺は。
「メンテナンスは任せて」
「くふふ、なんだそれ」
最初はやりとりのおかしさに二人して忍び笑いしていたが、我慢できなくなってとうとう声をあげて笑い合った。
こういう時に気の効いた台詞が言えるといのだろうが、どうしたって俺は車と共に歩んできた男なのだ。いまさら急にハンドル切って格好良い男へ車線変更などできようものか。
俺はこのままでいいのだ。開き直ってしまえば、案外楽になるものだ。
陽気で明るい雰囲気のまま、おんぼろ車はマンションへ向けて走る。
「今日は楽しかったねー」
「準備、すごく時間かかったよ俺」
「私も。お化粧に倍以上時間かかっちゃった」
「綺麗だもんね」
「なに、じゃあいつもは綺麗じゃないって言うのかな?」
この距離感がいつもどおりだ。
しかしながら、中途半端にやりかけの告白はどうしようか。まさかこのタイミングで言うのもおかしな話だ。幾度も肩透かしを食らって、いまさらどうやって言えたものかとの思いもある。
マンションに帰りついた時に、ふと家に呼んでお茶でも飲みながら仕切りなおそうかと思ったが、部屋の惨状が脳裏をよぎったので断念しようと考えた。
ああ、今日のところはこれでいいだろう。これから恋愛街道を走ろうという俺だ。いきなりトップギアで走るものでもない。急激なシフトチェンジはエンジンに負担をかけるものだ。
軽く挨拶をして互いの部屋に向かおうとしたその時、彼女が言った。
「もう少し、お話したいな。
私の部屋散らかってるから、そっち行っていい?」
片手を大きく広げて彼女に向けて突き出す。
俺の部屋も酷いのだ。それはさすがに、と声に出そうとしたが胸のエンジンに火は点いたままだ。俺は、まだ走れる。
「五分、五分だけ待って」
「分かった。じゃあ着替えてから行くね」
ひらひら手を振って自分の部屋に入る彼女を見届けてから、大慌てで部屋に駆け込む。酷い有様だ。これを五分で片付けると俺は言ったのか。言った。確かに言ったな。
片付けるというよりも、押し込む形で全てをクローゼットに詰めていく。ばさりと恋愛教本が床に落ちた。開いたページには、教えの一つが書かれていた。
Step6,部屋はきれいにしておくこと
激しく同意するが、今になってそんなことを言われても俺はどうすればいいというのか。物損事故を起こした後に余所見をするなと言われるくらいには、いまさらな助言である。悪態をつきながら、なんとか見られる状態にまで片付けることができた。
時刻は12時を過ぎている。
もう、俺の恋愛を阻むものは何も無い。無いと強く信じたいだけではあるが、それでも無いと信じたいのだ。
恋愛条例とやらに振り回された数ヶ月ではあったが、それももう過去のことだ。さよなら昨日。よろしく未来。
どうにも落ち着かないのは、12時を回ってから始まる魔法のせいだろう。
その始まりを告げるチャイムの音が鳴った。
俺はゆっくりと、しかしためらいなくそのドアを開けたのだ。
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