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彼女は女神か何かだろうか。
あれほどの失態を晒してしまったにもかかわらず、気さくに話しかけてきてくれたし飲みにも誘ってくれた。数回ほどは気後れして断ってしまっていたが、彼女はついに頬を膨らませて「若さはね、あきらめないことなんだよ」と腰に手を当ててぷりぷりと怒っていた。
なるほど、一回や二回の失敗がなんだ。
俺はあきらめないでいいのか。そうか。俺は明日に向かってアクセルを踏んでもいいのか。
そうして立ち直り、再び二人して居酒屋にいった時のあの店員の驚いた顔。あれは実にスカッとした。エンジンオイルを交換してクリアなエンジン音を聞いた時くらいいい気分だった。
そして、今日は俺が恋愛免許を取得してからきっかり三ヶ月だ。
つまりこれは恋愛初心者マークを外す日がやってきたことを意味する。
世間一般では冬だが、俺の心は春爛漫と言っていいだろう。
この三ヶ月、具体的には彼女に立ち直らせてもらってからなので二ヶ月半ほどだが、何もしてこなかったわけではない。確実に外堀を埋め、他愛のないデートを繰り返し、恋愛作法本を読み耽った。彼女の好みも知ることができたし、今日のために、付け焼刃ではあるがそれなりにお高いレストランでのマナーも勉強した。
これほど必死に何かを学んだのは、おんぼろ愛車の修理に関する知識を詰め込んでいたとき以来ではないだろうか。
そういえば彼女は、「どうして車が好きなのか」と俺に聞いたことがあった。何かがきっかけでのめり込んだというような事もなく、そういえば何故だろうと自分でも思った。
気がついたらいつの間にか好きになっていたと答えれば、彼女はにへらっと笑って、「そういうものだよね」と言った。
あらためて考えることでもないかも知れないが、俺は彼女が好きだ。
そしてこれに関しても、どうしてだろうとか、なぜだろうとか考えるものでもないのだろう。それこそ彼女の言葉を借りるならば、そういうもの、なのだ。
○ ○ ○
花束、よし。
服装、よし。
髪型、よし。
持てる限りの全てをつぎ込んだ今日のデートは、俺の三度目の正直がかかった運命の日だと言ってもいい。鏡の前で自分の姿形を気にするなど、滅多になかったことだ。車のドアミラーなら嫌というほど見てきたし磨いてもきたが。いや、車のミラーを嫌という気持ちを込めて見たことなど一度たりともないが。
服装は派手過ぎるでもなく、シンプルさを大切にお洒落を演出できているはずだ。少なくとも、恋愛教本であるファッション雑誌を限りなく参考にして決めた服装だ。
普段はジーンズにシャツとジャケットだけあれば問題ないと思って過ごしていた分、こういう時にかなりの苦戦を強いられる。
その帰結として、クローゼットから引き出された数々の服は放ったらかしであり、室内はまるで空き巣にでもあったかのような惨状である。
本来であれば片づけをしたい所だ。
車の修理にも言えることだが、ネジ1本、ドライバーの向きに至るまで綿密に場所を決めておかなければならないものだ。一瞬の油断が命取りになるのは、車好きならば徹底して自戒しなければいけない点だろう。
普段であれば間違いなく片づけをしている。この状態で部屋を出るのは気が引ける。しかし、状況がそれを許してくれないのもまた確かだ。
彼女との待ち合わせの時間まであまり間がない。服装の決定に時間がかかったことがその大きな要因だ。
ガソリンを満タン手前で止めておくような、そんな後ろ髪引かれる思いを胸に、俺は花束を持って家を出た。
待ち合わせは、近所の喫茶店だ。
同じマンションに住んでいるのだから、部屋に迎えに行くなり、駐車場で待ち合わせるなりすれば良いと思ったのだが、教本によれば女心はそうもいかぬものらしい。
教本の効果は未だ半信半疑ではあるものの、先人たちの知恵の結晶なのだ。今、俺が頼れるものはこれしかない。悩む時間があるならば、さっさと喫茶店に赴こう。もうすでに物語は走り出してしまっているのだから。
喫茶店には、既に彼女がいた。しまった、待たせてしまったか。俺が先に着いて、「ゴメン、待った?」「いや、今来たところ」を実行しなければならなかったというのに。
「ごめん、待たせちゃって」
「あ……、うん。大丈夫大丈夫。まだ時間より前だよ。
私が楽しみ過ぎて早く着いただけだから気にしないで」
見れば、彼女の服装もいつもと少し違っているように見える。ひらひらとした感じの服装だ。少し頬が赤いように見えるのは、化粧の仕方によるものだろうか。
「今日、いつもと違うね。素敵、だよ。
えっと、そうだ、はいコレ」
Step1,まず褒め、そしてさりげなく花束を
確かそう書いてあったはずだ。いやしかし、花をもらって嬉しいものだろうか。俺ならば、車のパーツで喜ぶ。特に消耗品のネジなどは嬉しい。しかし、そんな俺でも女性がネジをもらって喜ぶ訳が無いというのは分かる。だからといって花束に効果が見込めるのかと言われると……。
「わあ! これ、私に!? 嬉しい!」
おやあ、意外と好印象らしい。分かった。教本を全面的に信用することを今ここに決定する。そして嬉しそうに頬を緩める彼女を見ると、俺としては心拍数が急激に上昇してしまうのだ。彼女の笑顔が俺のアクセルを遠慮なく踏み抜いてくるおかげで、回転数はすでにレッドゾーンだ。
しかし、それを表に出してしまうほど経験地の少ない若葉マークではないのだ。なにせ、俺は恋愛免許 乙種 Ⅱ類を取得しているのだから。さらには頼りになる恋愛教本までついている。
Step2,あくまでもエレガントに。
そうとも、教本にもそう書かれていた。
持ち主と長年過ごした車というものは、どうしたって似てくるものだ。これは多くの時間を連れ添った夫婦にも言えることである。共にする時間が多いほど、癖や仕草、表情の作り方などが似てくるのだと言う。
つまり、今日は俺の愛車もかなり快調だということである。エンジンも一発でかかったし、音も良好。冬の街を走り抜ける車内の助手席には、朗らかに笑う彼女がいる。そして彼女の好みである静かなジャズ音楽がカセットデッキから流れている。
最近ではカセットテープを販売している所が少なくなった。このテープも、この日のために手間をかけて録音したものだ。
「ふふ、今日はなんだか特別だね」
「ん、特別な日だからね」
この三ヶ月でしっかりと二人の関係も進展している。具体的には、丁寧語を使わなくなったことが挙げられるだろう。なんだかよそよそしいから止めて欲しいと言われただけだが。
信号待ちで停まるたびに、彼女の方をチラリと見る。口角がうっすらと上がり、ジャズに合わせて少し体を揺らすように聞いている様がとても魅力的だ。
ふとこちらを見た彼女が、
「どしたの?」
と問う。今だ。教本の教えを実行するのだ。
「ん、ちょっと見とれてた」
言ってから恥ずかしくなって、俺はすぐさま前に向き直った。
Step3,口説き文句は当社比三倍で
いやしかしこれは流石に引かれるのではないか。少しどころかかなり無理をして、歯が浮きそうになるのをこらえた上で言葉にしたが、これはどう考えてもキザだろう。駄目だろう、やっぱり。
「もう、ちゃんと前を見て運転してね」
ふい、と彼女が窓の方を向いたのを視界の隅に捉えた。その耳が少し赤い。まさかの好感触。これはあれか。ムードのなせる魔法とかいうヤツだろうか。言い放った本人がその効果に一番驚いているのだが。
レストランでの食事は、思った以上のさらに上を行くレベルで思った以上のものだった。付け焼刃のマナーが役に立ったコトが嬉しく、思った以上の財布へのダメージも気にならない程だった。
彼女はいつも通りの柔和な笑みを浮かべながら、スムーズに食事を楽しんでいた。よかった、楽しんでくれたみたいだ。実は、マナーに気を取られてあまり味を楽しんでいなかったのは、ここだけの秘密にしておく。
ディナーも終え、予定しているコースはあと一つだ。
海沿いの、イルミネーションを眺められる公園で、俺は改めて彼女に告白する。すでに交際しているようなものだと言われるかもしれないが、これは俺なりのけじめだという部分が大きい。
変わらず快調に走る愛車と、気持ちよく流れるジャズ。
Step4,夜のドライブはBGM必須
その通りだ。変に緊張してしまっている俺からすれば、何を話せばいいのか良く分からない。いつもは彼女が気さくに話しかけてくれるのだが、どうも彼女も心持ち口数が少ないように思える。
そんなに退屈しているだとか、そういったような雰囲気はみてとれないが、彼女も緊張しているのだろうか。いやまさかな。恋愛ビギナーである俺ならばいざ知らず、彼女が緊張する道理がどこにあるのだろうか。
「あの、えっと、ご飯、ごちそうさま。
でも良かったの? ごちそうになっちゃって」
「誘ったのは俺だからね。美味しかったね」
「うん、とっても。ありがとう」
そういって浮かべる笑みは冬の夜の寒さなど気にもならないくらい暖かなものだ。そう自然と思えるくらいには、俺もムードの魔力とやらにやられているらしかった。
そして車は静かに、埠頭近くにある海浜公園へと到着した。