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浮遊する夢  作者: 志村朗
8/11

Dear Observer

 私はあなたに重大な嘘を一つついている。いいえ、一つではないかもしれない。私の言うすべてのことは嘘から成り立っているのだから。その嘘が何だったのかは後々分かってくれれば良いから。今は私が綴るこの文章を、あなたがあなた自身の考えで理解して欲しい。

 何をあなたに伝えれば良いのか分からないけど、まずは、私が私になった時の話を書こうと思う。これから書くことは私の真実であって、少しだけ脚色は加えるけれど、それが私の全てであって、私の掛け替えの無い十八年間の軌跡だといっても過言ではない気がするわ。そして、私が何について考えてきたのか、あなたに少しだけわかってもらえたのなら、私はそれだけでうれしい。

 私は死について考える機会が、少しだけ人よりも多かった気がする。それが私を形成し、私という世界を作った。

 私には妹がいた。血の繋がっていない妹だ。それは私の唯一の拠り所であって、あの頃の私の世界の全てだった。私は妹が大好きだった。私の複雑な家庭環境では、純粋な愛という物をしっかりもらえたかどうか、正直言ってわからない。けれど、妹からだけは、純粋な愛を貰えたと思うし、私もそれに精いっぱい答えていたと思う。彼女はまだ小さかったから、そんな大人の都合で出来た家庭環境を理解するなんてことは出来なかったんだと、今では思うわ。もし彼女がまだ私の近くにいて、私の妹でいてくれたとしても、きっと彼女の態度はそのころの物では無くなってしまっていたはず。それくらい当時の彼女は無垢で、私の愛そのものだった。

 私に気ばかり遣う両親と一緒に暮らしていると、まるで、ここは私の家ではなくて、他人様の家で、私は突然転がり込んできた居候のような感覚に毎日押しつぶされそうになっていた。

 彼らは、別に私を病原菌のように扱っていたわけではなくて、寧ろ、腫物に触るように、丁寧に育ててくれていたと思う。欲しい物は何でも買ってくれたけれど、私は別に欲しい物なんてなかった。

 けれど、彼女だけは、私に対等な愛を与えてくれた。私が欲しかったのは、親切ではなくて、対等な愛だったのだと、当時の私は気付かなかったけれど、私が少しだけ大人になってからそのことには気づいたわ。

 彼女と一緒にいると、私は満たされていった。心の穴という穴を埋め尽くしてくれた。そうして、いつの間にか、私は彼女に依存するようになってしまったの。

 今思うと、私自身が、すでにその時、対等な愛を彼女に与えることを放棄してしまったんだ。私の世界は、彼女だけで出来上がってしまって、彼女の喪失は、私の喪失を意味していた。そして、その喪失は、意外と早い段階で訪れてしまった。

 妹は病気になった。それはとても難しい病気だと両親からは聞かされていたから、どういった病なのか、私は今でも知らない。

 妹はそれから、ずっと、白い建物の、白い一室に、細長い管を何本も体に刺されて、眠ってしまった。

 私はもう一度、彼女が、その美しく透き通る声で「お姉ちゃん」と呼んでくれる日を待ち望んだ。毎日のように、彼女の病床に足を運んで、彼女の呼吸に耳を澄ませた。

 それが時を重ね、年月を重ね、私のごく一般的な日常になるまで、そう時間はかからなかった気がしていたけれど……。そうでもなかったのかしら。

 私は、段々と、彼女の記憶が薄れていることに気付いてしまった。彼女が入院したてのころは、四六時中彼女のことを考え、私が家にいる間も、彼女が、一人で寂しくないか、苦しんではいないか、死んでしまってはいないか、考えすぎて心が擦り切れてしまった。なのに、ある日、私は気付いてしまったの。母が作る夕飯に「美味しい」と思えてしまっている自分に、テストで良い成績を取ったとき「嬉しい」と感じてしまっている自分に、男の子とフラッシュ暗算の塾に通い始めて、その子のことが「好き」になってしまった自分に。忘却とは、七つの大罪よりも重い罪だと、その時気付いてしまった。時の流れに負けないほどの強い信念や思想があれば、忘却などするはずもない。しかし、私にはそれが無かったの。私は、強くなれなかった。

 彼女たちに出会ったのは、そんな時だった。病棟の待合室に不安そうな顔をしている一人の少女が、私の方を見ていることに気付いた。その時は声を掛けなかったけれど、何回か顔を合わせているうちに、自然と彼女を見つけると安心している自分に気付いたし、多分、向こうもそうだったんだと思う。そして、何回目の観測かわからないけれど、脳が顔見知りだと錯覚してしまうくらいの数の観測を通して、私は初めて彼女に声を掛けた。その時何を言ったのかはもう覚えていないけれど、それから会う度に話すようになったの。彼女も姉が入院していて、そのお見舞いに毎日のように来ているのだと話してくれた。学校のこと、好きな本のこと、色々話して、そこで私は初めて、妹以外の対等な愛というものを知ってしまった。そして、また性懲りも無く私はそこにどっぷりと浸かってしまった。そこからはあなたも知っていると思う。だから二度は語らないし、ここへは綴らない。

 ただ、少しだけ、姉と会った時の話をしようと思う。私がそこへ初めて足を踏み入れたのは、もう夏も終わりかけで、どことなく街は静かで、そして、暗がりの路地を歩いているような匂いに包まれた日だった。

 彼女は寝ていた。夜の森で、一人、誰も近寄れない領域の主として、そこへ踏み入ることを禁じられている世界で、私と彼女の妹は、それ以上近付くことを許されていなかった。その数メートルに、私はとてつもない距離を感じて、まるで神様にでも出会ったかのような、そんな感覚に包まれて、そして、私は何よりも、その状況がとても尊いもののような気がして、息を呑んだ。息を呑んで、泣いてしまった。まるでそこに私の求めていた答えがあったかのように、本当はそんなものは無いのに、それがまるでこの世界の真実だったかのような気がして、涙を抑えることが出来なかった。私はその時に知ってしまった。その真実に。気付いてしまった。私が渇望していた答えに。そして、私もまた、それに憧れていたのだと、あの日、本当の母親を見送ったあの日の、あの顔を、私が忘れられない理由に、背くことが出来ない真実に、私は到達してしまった。

 そう、死の影が覆う世界に、私は美しさを見出してしまったのだ。

 それから間もなく、桜井加奈子は死んだ。交通事故で。遺された姉は、何を思うのだろうか。そして、私の妹も、まるで何かの糸が切れたかのようにこの世を去った。遺された私は、何を思わなければならないのだろうか。悲しくはなかった。思い悩むほど苦悩もしなかった。ベッドの中で毎晩考えたのは、彼女たちの死ではなく、専ら私の死についてだった。

 忘れてしまわないような強い信念だとか思想なんて物は、もうとっくの昔に意味を無くしてしまっていた。

 季節は移ろいで行く。その分、私に見合った言葉が、その効力を失っていった。言葉ではなく、形だけが、私の先へ行ってしまう。いつからか、私はそれに気付かない振りをするために孤独を欲しがるようになっていた。そして、その海の中で、私は、私自身なのか、私が欲しがっている物なのか、その形の掴めない物体を探し求めた。そして、何人もの人々の死を考え続けた。でも、そこにあったのは、現実的な問題から生じた現象であって、私の渇望していたものではなかった。別に、死ぬことを欲しているわけじゃない。ただ、私は、その短い年表に示された僅かな人生の、その裏に隠された、彼らが行った幸福の数々を、そして、その「死」に何を見出したのか、知りたかっただけなのかもしれない。いや、私はそれに気付いてしまった。

 私が歩いた道は、客観的に見れば正直意味の無いものだと思う。けれど、私は、それに十分な意味を見出している。誰が何と言おうと、私は、そこに答えがある気がしてならない。だって、この世には、意味のある物しかないのだから。その全てを愛してやまないと、あなたが教えてくれたのだから。私は、愛している。このすべてを。美しいと思える。このすべてを。だって、私は、いや、私たちは誰もが死に際なのだから。死は美しさを纏う。死は、何でも無い物を、誰もが見落としてしまいがちな物を、救い上げて、もう一度私たちに考える機会を与えてくれる。見えない物が、鮮明に見えてくる。その生涯の裏にある、孤独の中の、本当の思い。それをもう一度提示してくる。考えろと、私たちに告げるの。

 死は絶望ではない。だから、私は祈るのだ。祈るとは考えることだから。私は神様に祈るのではなく、自分に祈る。それは、死の恐怖のためではない。死の恐怖は人が作った幻想だから。私は考えるために祈るの。私の愛した人が、死に際に見せた笑顔の意味を、私は考え続けているの。そして、思い出すことにした。向き合うことにした。しっかりと前を向いて。それはあなたが教えてくれたから。死が美しさを纏うのではなく、死について考えることが、美しさを纏うのだと。死を受け入れた瞬間に、世界は輝きだすのだと。だから、私は愛している。何もない無人駅の、無限に広がる田園風景と、あなたの温かい手を。私は愛している。そんな誰もが見落としてしまう景色を、私は愛している。その中でも、私は、あなたに抱きしめられたあの夜の、涙でぼやけてしまったあなたの顔を、一番愛している。だって、あの瞬間に、あなたに言われた一言に、私は救われたのだから。私を見ていてくれると、あなたが言ってくれたのだから。それが偶然であっても、私は嬉しかった。この宇宙に広がる幾多の星雲も、観測者が一人いれば、この世界に存在している事になるのだから。私を観測してくれたのが、あなたで、本当によかった。本当に、よかった。

 愛しています。志村君。


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