ライ麦畑を探して
二時半に授業は終わった。暇だったから部室棟で煙草を吸った。他のクラスはまだ授業中だから、僕は部室棟の静寂に身を任せた。部室棟とは言っても一階には食堂があり、その横にはウェイトルームがあった。バルコニーから見えるテニスコートの向こう側は少し坂になっていて、遠くまで見渡すことが出来た。吐いた毒が春になろうとする空気と混ざり合って、何だか申し訳なくなる。
「授業中だよ?」
鈴の音のように、美しく響く声が後方から聞こえた。知っている声だ。そして僕が今一番聞きたい声だったかもしれない。
「もう終わったんだよ。君こそ、授業中だろ?」
僕は携帯灰皿に灰を落として地面で煙草の火を消した後、吸殻を拾って携帯灰皿に入れ、中で火が消えていることを確認して蓋を閉めた。
「私は、六限の授業には出ないのよ」
須藤は、その一連の動作を興味深そうに観察していた。
「まるで劣等生だな。でも、優等生だからこそ許される憂鬱なのか」
須藤はかなり頭が良いと聞いた。僕はかなりの劣等生だから授業には出ないといけない。不釣り合いな僕らは、本来この時間を共有してはいけないのかもしれない。
「もう帰るの?」
「まあね、やることもないし帰ろうかと思っていたんだ」
本当は君の絶対領域に踏み込もうかと思っていた、なんて言えたけど言わなかった。
「そう、私も今日は用事がないからこのまま帰ろうと思っていたの。でも、そこに部室棟で暇を持て余している劣等生がいるじゃない。声を掛けずにはいられなかったのよ。」
僕は鼻笑いと苦笑いと、そんなどっち着かずの不安定な笑いを浮かべた。
「ねえ、あなたも帰るなら、どこかに寄って行かない? この時間を無駄にはしたくないのよ」
「オーケー、どこへでも連れて行ってよ、姫君」
即答した。別段用事がある訳でもなかったし、第一、彼女と折角会えたのだから、この貴重な時間を無駄にしてしまうのは、僕にしても勿体無い話だった。
「分かったわ、じゃあ私がエスコートするわね」
彼女はそのまま向きを変え、足早に歩き始めた。僕はその後ろについて行くことにした。何も話さずにそのまま駅まで歩いた。たぶん二十分くらい沈黙のまま歩いていたと思う。
「やっと着いた」
彼女は達成感のある声で言った。
「電車に乗るの?」
「うん、ごめんなさいね、何も話さなくて。でも、ここで話してしまったら、あとで話す話題を考えないといけなくなるでしょ? そんなの嫌なのよ。貴重な時間を、私が考える時間になんて使いたくないわ」
彼女はそのまま駅の改札に向かって歩き始めた。
「三百六十円を用意しておいて」
「どこに行くの?」
「さあ、何処なのかしら。でも、付きあってくれるんでしょ? 何処までも」
「まあ、うん」
やはり上手く返せなかった。情けなさで気が狂いそうになった。
「じゃあ、買ってくれるわね」
そう言いながら券売機に三百六十円を投入する彼女を見ながら、僕も隣の券売機に五百円を投入した。三百六十円の切符を大人一枚分購入し、急いで彼女を追った。駅の改札を通ってそのまま上りホームに向かう彼女を後ろから追う。奇妙に揺れるショートカットの髪に目が酔った。少し呼吸に気を使ってみると、何だか優しい匂いがした。
ホームに二人の高校生が並んで電車を待っているという青春百景が出来上がった。僕と彼女はそれぞれ違う方向を見ながら、一言も話さずにいた。一緒にいるのに、ペアではないような、電車の中の他人との関係に似ていた。場所は共有するが、意志は共有していないような。そういった不可思議な関係だ。耐えかねた僕は、少し彼女と話してみることにした。
「ねえ、いったい何処へ…」
そう言いかけた途端にホームにアナウンスが響き渡った。人工の声と駅職員の声が混ざり合う、情報に乏しい内容のアナウンスだった。
「電車が来るわ、乗りましょう」
そんな誰でもわかるこれからのことを彼女は僕に報告した。そりゃ電車が来れば乗るというのが定石だ。
遠くに現れる電車を確認した。こういう感じで電車が遠くから此方に向かって来る風景に、僕は度々恐怖を覚える。何かとてつもない力を持っている怪物が僕を目がけて突進してくるような気分にさせられるからだ。確かに電車はとてつもない力を持っている。それはニュートン方程式を知っている人ならば誰でも分かるはずだ。F=maの式だ。式は本当に素晴らしい物だと思う。特にニュートン方程式なんかは、ゴーギャンが描いた絵と同じくらい素晴らしい物だと思う。式一つでその風景を連想でき、さらに、その式通りにすべての事象が成り立っているのだと考えると、そこに美しさを見出せない人はいないだろう。僕はそれが好きだから得意ではない理系に進んでいるのかもしれない。美しい物を見たいという、至極シンプルで、自己中心的な考えの下で、だ。
電車の二両目のドアが僕らの目の前で止まった。人のぬくもりを少しだけ感じる電車のドアの開き具合に、僕は好印象を覚える。そのドアはコンビニや図書館にあるドアとは違っているからだ。あのドアには人のぬくもりを感じない。人とドアの境界が遠すぎるのだ。
僕らは促されるように車内に流れ込んだ。この時間の、この駅に留まる電車には、大体人が乗っていない。僕らは丸々一両を貸し切った。女子と隣り合って座るのは、いつ以来だろうか。最近は向かい合って座ることが多かったが、隣り合って座る機会は無かったように思う。そして、そこで彼女は久々に口を開いた。
「やっと一息つけるわね」
彼女が僕を何処へ誘おうとしているのか分からなかったけれど、それもまぁ、趣のある行為だと思うことにした。
「何を話しましょうか」
「そうだな」
いざ何か話そうとすると、何も出てこない現象に、そろそろ名前を付けても良いのではないだろうか。アメリカの学会にはそういったことも研究してもらいたい。
僕はとっさに頭の中に出てきた言葉を口にすることにした。適当なことならいくらでも話せる。
「進路は決めたの?」
「ええ、私は進学をするわ」
終わってしまった。会話がキャッチボールでは無く、九回裏ツーアウト満塁ツーストライクスリーボールの最終局面において、キャッチャーミットに僕の投げた決め球直球ストレートが見事吸い込まれて試合が終わってしまった。逆に打たれた方が面白かったのかもしれない。
夕暮れには程遠い車窓の景色は、午後の日差しと窒素や酸素、それから窓の上の全自動湯沸かし器の広告で埋め尽くされていた。薄く反射する僕らの光スペクトルは、それで終わってしまう言葉の、その先を探るような仕草をしていた。
僕らは、今自由の上を流れている。続かない言葉という選択肢を、僕らは選ぶ権利を与えられているのだ。自由だ。自由だった。僕らは自由だった。
「自由だ」と、声に出してみた。僕ら以外誰もいない車内に、僕の声だけが電車の車輪の駆動音と一緒に響いた。彼女は少し不思議そうな顔をしていた。何が自由なのか、主語がない言葉だ。
「何が自由なの?」
「僕らが自由だって事だよ」
「どうして突然そんなことを口にしたの?」
「どうしてだろう、窓の景色を見ていたら思いついたんだ。選ぶ権利があるっていう自由。なんだかそれが特別な物のような気がしたから」
「私たちが今の瞬間に何を選べたの?」
「色々なことだよ。例えば、僕が何を話すか、何を考えるか、君は僕を何処へ連れて行こうとしているのか、そういったこと全てだよ」
「そう、自由ってどういったことなのかしら。自由って言葉自体が自由過ぎて曖昧な答えになってしまいがちよね」
「自由なんてものは簡単に手に入らないなんて言うけれど、僕はそうは思わないんだ。心と言う物はいつだって自由なんだから」
自由とは、力学の世界で考えるならば、質点の場合はXYZの三方向に自由が許されている。質点系になるとそれぞれの質点が独立に運動するため自由度が六となる。剛体の場合は、系全体の自由度を取ると並進運動三方向、回転運動三方向の計六方向に自由となる。もちろん人間も剛体とみなせるので、自由度は六である。僕らは誰に左右されることなく六の自由が約束されているのだ。
心はどうだろうか。心の自由度なんて言葉は使ってはいけない気がするけれど、もし考えるとするならば、心の自由度は零か無限のどちらかになると思う。自分を自分から考察しているうちは、自由度は零のままだ。しかし、己の客観視化に成功した瞬間に、自由度は一増えていく。それを日々続けたとしたら、自由度は増え続け、いずれ無限にたどり着くだろう。心の自由度は、自分自身の支点反力によって拘束されているのだ。心が不安定な人は、自由度と拘束条件のバランスが悪い。そういうときは、拘束を少しずつ解いてみたら良いのかもしれない。自分が思っている以上に世界とは自由な物であって、自分が思っている以上に、自分とは拘束されやすい生き物なのだ。僕が十八年間生き続けて、何となく分かった一つの真実だ。
もう何駅も超えた。何処まで行っても車窓からの景色はほとんど変わることが無かった。誰も乗ってくることのない電車は、電車の役割を僕らだけに押し付けているような、そんな気分になって、すこしだけ苛々した。
「そろそろ降りましょう。行きたい場所があるの」
彼女はそう言って席から立ちあがった。何処へ行くとも知らず、僕は彼女に釣られるように立ち上がって先頭車両の一番前のドアまで移動した。電車のアナウンスがもうすぐ次の駅に着くことを告げている。
「お忘れ物の無いよう、ご注意ください」
そのアナウンスはもちろん僕らだけに告げられていた。
「プシュッ」という空気が抜けるような音がした後、ドアが開いた。その駅は少し物悲しい、簡素なつくりの駅だった。駅員が一人もいない、所謂無人駅というやつだ。
「ここに来たかったの?」
彼女は黙って頷いた。駅の改札を出ると、そこには無限の田園風景と一人の見慣れた少女の後ろ姿と、それ以外何も無かった。景色は夕暮れになりつつある。
「ねぇ、落ち着く場所だと思わない?」
「うん、何だか居心地が悪いとは思えないよ」
「たまにここへ来て歩きたくなるの。余計なことが頭に入って来ないから。私以外ここにはいないから、何かを深く考えることが出来る気がするの。でも答えが出たことは一度も無かった。そこで初めて気づくの。私が悩んでいるこの問題には答えが無いんだなって。私が私でいる限りそれには答えが出ることが無いの。ねぇ、私が今、何を考えてここに来ているか想像できる?」
僕は少し考えてみたけれど、分からなかった。
「わからない」
「そう、わからないの。いくら考えたって、それは本人しかわからないことであって、他人が考えても答えが出るわけがないのよ」
もう何回も目にした二つの影が、また佇んでいる。
「ねえ、手を繋いでもいいかしら」
何かを思い詰めたように、何かを決めたように、僕には知る術も無いそれを、彼女はずっと待っているのかもしれない。僕は、彼女がどうして欲しいのか、僕に何を見出していたのか分からなかった。
「うん。いいよ」
僕は自分の手を差し出した。それに彼女の柔らかい手が触れた。冷たかった。僕がその手を温めることが出来ないくらいに、彼女の手は冷たかった。
「温かいわ。何だか落ち着く」
「それは良かった」
そのまま、僕らは当ても無く歩き続けた。何処と無く似た風景を僕は何処かで見ていた気がした。
静かな時間は、永遠に続くことが無いことを僕も彼女も知っている。だから、この瞬間を何よりも大切な時間だと認識してしまう。
段々と日が落ち、完全な夕方へと世界は色彩を変えた。彼女は黙ったまま歩き続けている。そして、何分も続かない沈黙を破ったのも彼女だった。
「私たちは何処から来て、何処へ行くのかしら」
僕は何も言わなかった。その言葉は僕に向けられた言葉ではないと、そう感じたからだ。
「私には分からないわ。きっと誰にも分からない。けれど、もしかしたらあなただけは、私が何処へ行ってしまったのか、教えてくれる気がするの」
ゆっくりと地球の影が僕らを飲みこもうとしていることに気付いた。そして、それを止める術が無いことも、僕は気付いてしまった。
「だから、だから見ていて、私を見つけて、そして……そして、どうか、忘れて欲しい」
その言葉の真意に、その言葉に隠された彼女の全てに、僕は気付かない振りをしてしまった。気付いてしまったら何かが終わってしまう気がしたからだ。
二人分の影は手を繋いでいた。僕は自分の掌が冷たいことに気が付いた。いや、違う。僕の手が冷たいのではなく、握っている手が冷たいのだ。
夕暮れの世界で、僕と君は、また、歩き始めた。この手を離さないでいることは難しい事なのだろうか。少し考えてみる。そして、一つだけ、彼女に提案してみようと思った。もしかしたらこれは僕らしくない提案なのかもしれないけれど、それでも、これを言ってしまいたい欲求が僕の中に生まれている。これを言ってしまえば、僕はそれに関わり合いながら生きることになると、そういった後悔の念みたいなものが、まだ起きてもいないのに自分の中にあることを、僕は気付いてしまって、さらに、そういった感情が元で踏ん切りが付けられずにいる自分の姿を、何故か客観的に観察している自分にも気付いていた。どちらの自分が正しいのか、自問自答を繰り返しながらも、僕は今後悔したくないと、そう思うようになっていた。悩みは先延ばしした方が、意外なところから解決策が生まれるものだと、そういう経験則が僕にそう決断させた。これも勝者のDNAが決断させたのだろうか。
僕は気付かない振りを止めた。そのどうなるかも想像できない一歩を踏み出すことを、決心した。そして、後々後悔することも全てひっくるめて見届けることを僕自身に誓った。
この一言を言うために。
「何処から来て、何処へ行くにも、僕が隣にいて、この手を離さずにいれば、君は君自身の居場所を守り続けられると思うんだけど、どうだろうか」
それを聞いた彼女は驚いたように目を丸くして、少し笑った後、すぐに俯いてしまった。僕は焦って、もしかしたら取り返しのつかないミスを犯してしまったような気分になって、体中が痺れた。そして、彼女が小刻みに震えているのが分かった。彼女は泣いていた。涙が頬を伝って顎辺りから落ちていくのが辛うじて分かった。僕の手を強く強く握りしめ、彼女は泣いてしまった。僕は少し慌てて、彼女を抱きしめるようにして、頭を優しく撫でた。なんだか小さい犬をあやしているような気分だった。
彼女は泣きながらグチャグチャになった声で小さく、本当に小さく話し始めた。
「私は、私はとても愚かな人間だ。あなたが思うほど立派でもないし、あなたが思うほど大人でもないの。私は、私がどうして生きているのか良くわからない」
僕は、ただ、聞いてあげることしかできなかった。聞きながら、酷く弱っていた彼女にどうして気付くことが出来なかったのか、自分自身を責めた。そして、ただ、ゆっくりと彼女が落ち着くまで、頭を撫で続けた。
彼女の音が段々と静かになって行く。その呼吸音が、僕にさらに強い決心をさせた。彼女の問いに触れることを決意させたのだ。
僕はしっかりと彼女に届く声で言った。
「付き合うよ、何処までも。だから話して欲しい。君の全てを。僕が気付けなかった、見落としてしまった全てを」
全ては闇の中に消えていった。街灯の灯りさえも無い道の上で、僕らは見つめ合っていた。そう、長い夜が始まったのだ。




