浮遊する夢
人のいない夕暮れの港にいた。波がメタンやシランといった化合物に見られる構造をした石材に当たる音で、港は音付き、色付いていた。遠くから船が此方に向かって来るのが見えた。その船は静かに海に波を作った。空には海猫が飛んでいる。夕焼けが西の空を朱くし、東の空には夜が来ていた。
その船は港に帰着した。しかし中から誰も出てくる気配がなく、それどころか船内には船員すらいない様だった。どうしてそんな船が動いて、この港に帰って来たのか、僕には分からなかった。その船は全体的に錆び付いていて、先ほど遠くから見ていた船とは思えなかった。僕はその船から離れて、港を散策した。やはり、どこにも人のいる気配がしなかった。その港は世界から隔離されてしまったような印象を受けた。海猫だと思っていた鳥はトンビだった。一羽が空を旋回していた。崩れかけた煉瓦の倉庫の中は、埃と用途が分からない重機でいっぱいだった。放置されている部屋特有の臭いがした。
僕がどうしてここにいるのか考えてみたけれど、結局思い出すことは無く、暫く海を見つめながら波の音を聞いていた。
夕焼けが藍色に染まり、東の空は何処が海で何処が陸なのか分からないくらい黒くなってしまっていた。星は無かった。月も無かった。
僕は何を待っているのだろうか。暗くなる海を見つめながら考えてみた。しかし、何かが迎えに来るような気がしてならないのだ。この暗い海の向こうから何が来るのか。僕はソワソワしながら、緊張しながら待っていた。
しかし、いくら待ったところで変化は起きなかった。何かが現れるわけでも、起こるわけでもなく、ただただ東から闇が港を侵食していく風景だけが僕の前を過ぎ去っていった。痺れを切らしたのと何か変化を求めて、僕はその有限に広がる黒い海に身を投じる事にした。勢いよく飛び込もうと助走をつけたけれど、急にモラルを守りたくなって、足からゆっくりと入水した。水に浮きはしたが、体に服が密着するあの感触はなく、どちらかと言えば飛んでいるような感覚に近かった。僕は潜ってみた。黒い海の中は一面の闇で、圧倒された。恐怖を覚えた。子どもの頃に誰もいない二階に上がれなかった時と同じ感覚が僕を襲った。しかし、順応するのは早かった。闇だと思っていた世界は、なにか歪な形をした世界だった。それは海底なのだろうか。いや、違った。そこは僕が昔一度だけいったことがある福井の祖父の実家に似ていた。僕の祖父は僕が生まれる以前に死んでいる。だから、僕は祖父がどういった人間だったのか知らない。戦中に満州で従軍していたという話と、仏壇に飾ってある白黒の写真が、僕に遺された祖父だった。身近すぎた死の話に、僕はいつからか気が付けなくなってしまっていた。祈るという意味でさえも。そんなことをぼんやりと思いながら、その誰一人居ない祖父の家を探索した。庭にはいくつかの木が生えていて、遠くから電車の通る音が聞こえた。子どもの頃に受けた印象そのものが保存された動画のように蘇った。振り返ると、母が、見たことのない六十手前の女性と話をしている。母とその女性の関係性は未だに分かっていない。僕はそんな状況に興味は無く、テーブルに置いてあるたくさんのお菓子に興味があった。けれど、それを取って食べても良い雰囲気ではなかったから、僕は母をジッと眺めて、訴えかけていた。しかし、母は一向に気付く気配がなく、僕はそれにも飽きて、また家の探索を始めた。庭には他の木々よりも明らかに違う異様なオーラを放つ木があった。背丈が高く、形も正常では無かった。ねじれ運動をしているフィットネスクラブのインストラクターのような形だった。そして、何よりも、夏だというのに葉が一枚も生えていないのだ。子供の姿をした僕がその木を興味深げに眺めているのを、いつの間にか僕自身が見つめていた。そして子供の僕の後ろに祖父が立っていた。そして、何かを話している。何を話しているのかは聞くことが出来なかった。祖父の手には湯呑が握られていて、その中身は焼きプリンだった。それを子供の僕に渡して、そのまま祖父はいなくなった。その一部始終を僕は呆気にとられることもなく、冷静に、至極客観的に観察していた。そして、何故祖父は焼きプリンを僕に渡したのか、そのことばかり考えていた。
スマートフォンのアラーム音が聞こえた。何かに急かされるように、僕は慌ててその音を止めた。ディスプレイには何件かの通知が示されていたが、どれもこれも大した内容ではなかった。部屋のシャッターを開けて今日の天気を確認し、少し伸びをした。そして、焼きプリンが食べたくなっている自分に気付いた。何故焼きプリンを食べたくなっているのかを思い出そうとしたが、上手く思い出せなかった。夢は直ぐに忘れてしまう。




