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浮遊する夢  作者: 志村朗
5/11

適切な距離を求めよ

一、目的

板橋博二三「縮まらない距離の埋め合わせをする」の内容を考察し、登場人物の心情を明らかにしていく。

 

二、方法

主に、二人の会話をもとに考察を深めていく。客観的視野を重視しながら、双方が納得の行く結論を導く。


三、使用器具

板橋博二三「縮まらない距離の埋め合わせをする」財宝島文庫、二〇〇六年九月二十日初版発行、二〇〇九年一〇月二八日二刷(税抜定価一二〇〇円、状態良好)(ただし巻末解説は使用しない)、机、椅子


四、結果

二度と現前しない景色を追いながら、それを忘れ、忘れたことさえも忘れるだろう。そして、そこに意味を見出しながら、考え続ける。


 五、考察議事録

「子どもの頃に見た夢を、時々思い出すことがあるの。どんな夢かと言うとね、丸い眼鏡を掛けた女の子と自転車で橋を渡るの。お昼頃なのかしら、太陽がすごく輝いていて、それが道路に反射して、道路もキラキラ輝いて見えるの。そこを何台かの車が通るんだけど、その車と私たちは全く別々の世界を走っているみたいに感じられて、私は、ずっと丸い眼鏡の彼女の背中を見続けているの。本当に太陽の光が強すぎてね、光で前が見えなくなるくらいなの。どうしてかしら、私はその時とても悲しい気持ちになるの。それでね、橋を渡り終えたときに、気が付くと前にいたはずの女の子が消えちゃってるのよ。その時初めて気が付いたの、この悲しみは、彼女の背中を追えなくなった事に気が付いてしまったことの表れだって。彼女は進んで行くのに、私はその背中を追うことが出来ないんだって。それを知ってしまったの。そんな夢」


 思い出したかのように彼女は急に語った。夢の話だ。僕が見る夢はいつも支離滅裂で人に説明できるような代物ではないけど、彼女が見た夢は情景や描写が細かく、聞いているだけでどういった状況に彼女と彼女がいるのか良く理解できた。


「きれいな夢だね」


 僕は、本心でそう語った。素直に今の話を聞いて、美しいと思った。何故そう感じたのだろうか。


「どうしてそう感じたの?」


 聞かれてしまった。何も考えないで口走ったわけではないのだが、これといって確かな考えがある訳でもなかった。


「美しいと思ったから。眩しすぎるくらいの太陽の光と、そこに見えている女の子の背中、隣を通っている筈なのに、まるで別の世界のように感じる車の音、そういった物が美しいと感じた。そして、消えてしまった物を、どうすることもできなくて、悲しみだけが残っている君の、その立ち尽くしている君の姿が美しいと感じた」


 すこし気恥ずかしい言葉だったけど、そう表現するしかできなかった。


「美しいか……。実は、この話はあなたの他にも幾人かに話したことがあったけど、みんな悲しいとか、寂しいとか、あとは、何も関心を示さない人もいたわ。それでもあなたは美しいと感じられたのね」


 何か安心したような表情を浮かべて、僕の目を見つめていた。何を訴えかけているのか、そこまで読み取ることが出来なかった。でも、彼女が、僕の目の奥にある何かに期待して、僕の目から、その先を覗き込もうとしているのだと悟った。だから、僕は目を反らしてしまった。何故反らしてしまったのかは自分でも良く分かっていたし、それについては、本当に情けない理由なのだが、つまり僕は覗かれることを拒んだのだ。そして、彼女はまた話し始めた。


「そう、実は私も綺麗だと思ったの。それは夢を見ている時ではなくて、夢から覚めて、ベッドの上でその夢を思い出した瞬間に感じたのだと思うけど。どうしてかしらね、本当は、悲しいとか寂しいとかって思うことが普通なのに、消えてしまう物を綺麗だって思うなんて」


「消えてしまう物が美しいのではなくて、それは、追えない物を知ったから、そして、それはどう手を尽くしたところで、絶対に追うことが出来ないと悟ってしまったからなんじゃないかな。それは完全なる絶望であって、一種の死と同じものかもしれない。しかし、死よりももっと絶望的だ。だってそれは死ではないのだから。

 僕は倉木先生が死んだときに、そして昨日君と会った時に、死について語るなんて、まだ未熟者の自分には語れないと、そう思ったんだ。死がどういったことなのか、本当に理解できるのは、何かもっと大切な人が、例えて言うのなら僕の身内或いは、僕の親しくしている友人が死んでしまった時なんじゃないのかと思うんだ。それについては予想でしか語れない。死が遺すものと、君の言った夢が遺すもの、両者は君の心にそれぞれ痕を遺すんだ。

 死は何を遺すのか。それは、過去だと思う。それはそこで終わってしまう。どう手を尽くしても、故人は過去にしかいない。しかし、君の語った夢は、夢に出てきた彼女は死んだのではない。つまり、彼女は君の心のどこかにいる。しかし、彼女には二度と会えないんだ。だって住む世界が違うのだから。君は橋を渡り終えた瞬間、車の音がする世界に帰ったんじゃないのかな。つまり現実だ。彼女が住む夢の世界と君が住む現実の世界は、そこで二度と交わることが無い。彼女は君の心のどこかで生き続け、何かを遺し続ける。しかし、君はそれを想像することしかできない。彼女の背中を追うことは二度と出来ないのに、彼女は生き続けるんだ。僕らが観測できない場所で」


 それは絶望なのだろうか。


「それを私は美しいと思ったの?」


「そう、美しいと思ったんだ。後に遺されたものがどういった形にせよ、それをもう二度と見ることが出来ないという記憶だけが君の心に残った。人間はそういったことを美しいと感じる生き物だと思う。でも、死は違う。だって、死は、絶望ではないからだ」


 そうなの、と彼女は何かを考えながら呟いていた。


「それじゃ、縮まらない距離というのは、そういった物だったのかしら。私たちが手の施しようがない、本当の意味での絶望を埋め合わせる、そういった解釈であなたは読んだの?」


 完全に肯定できる訳ではなかった。実際僕は、この本の言っている縮まらない距離というものが具体的にどういった物なのかは完全に理解できていなかったからだ。SUVに乗った女性の話と同じで、僕は経験的に、経験則としてしか語ることが出来ない。縮まらない距離とは、どこかノスタルジックで曖昧で、そして美しいものだと、そういった具体性がない表現しかできないのだ。


「部分的にはそういった解釈かもしれない。けれど正直に言うと、この本が言っていた縮まらない距離と、その埋め合わせの仕方が、僕は完全に理解できたわけではないんだ。この本の主人公が辿った話を、自分に置き換えたときに、どういったことを僕は感じるのかを考えて、妄想して、そして、僕の都合の良いように解釈しただけかもしれない。僕が美しいと思うことが、この本では本当に美しいと書かれているのかと言われると、もしかしたらそうではないのかもしれないから。けれど、この本のおかげで、僕は、君の夢を美しいと思えたのだとしたら、それはそれで正解と言っても良いのかな」


 最後の方は少し濁して言った。自信が無かったからだ。けれど、やはり、本を一冊読むことで、人の価値観は少し変わるような気がする。本だけじゃなく、映画や音楽、人との会話、そういったメディア全てに言えることなのかもしれない。言葉の持つ力はやはり偉大だ。何気ない言葉一つで世界が変わってしまう。その人がより外に影響力を持つ人物の場合、その力は計り知れない。人間が生み出した最古で最強の力、言葉とはそういった物だ。と僕は思っている。それに気付いたのはずっと昔のことだったと思うけど、いつだったかは忘れた。しかし、なんとなく酷く傷付いた感覚だけが残っているのは、僕が誰かを傷付けた、或いは、誰かに傷付けられたことを体が覚えているからだろう。そんな経験は腐るほどして来たから、数えきれないほどやって来たから、相手の名前なんて覚えていない。


「正解ね、少なくとも私はそう思うわ。縮まらない距離というのは、確かにとてつもなく悲しい物のような気がするもの。だって、私がこの本を読んだときに感じたことは、悲しさと切なさと、そういったネガティブなイメージだったのだから。そして、あなたもそう感じたのなら、この考察会では正解ということにしておきましょう」


 彼女は満足気に笑うと、次の話に入った。


「じゃあ、主人公は、どのようにその距離を埋め合わせようと努力したのかしら」

 手の施しようがない切なくも美しい距離、それをどう埋め合わせることが出来るだろうか。まず最初に主人公である彼は「忘れる」ということを試みたらしかった。他の熱中できる何かを探して、無理にそこへ潜ろうと必死になっていた。しかし、当然ながら、そんな見せかけの熱で忘れるということが出来るわけがないのだ。彼は更に引きずった。引きずって引きずって泣くことも許されないような状況に自らを追い込んでしまった。そして、彼は次の手に「追いかける」ということを試してみた。実際、その追いかけるという行為はかなり長続きをして、彼を熱中させた。追い着けそうな予感をさせてしまった。しかしながら、その距離は絶望的なほどの差なのだから、追い着けるわけがないのだ。追い着くことは許されないのだ。彼が決めた距離は、想像以上に遠く、そして、この世のどこにもない美しさを纏ってしまったのだ。さて、それに気付いた主人公はどうなっていたか。遅すぎたのだ。彼は大人になってしまっていた。大人になった彼は気付く、忘れる努力をして来なかったということに、彼は、絶望を糧に歩いてしまったのだ。それは何を意味するのか。僕は想像してみたけれど、怖くて想像しきれなかった。なぜなら、そこには死というゴールしか見えなかったからだ。その人生に何かを見出すことが出来なかったからだ。そして、縮まらない距離の埋め合わせ方法は、完全に失われたと、そう誰しもが思ったのだ。しかし、最後に、彼は答えを提示した。それは、縮まらなかった距離さえも凌駕するほどの答えだった。しかし、それは、あまりにも残酷で、救いが無いのだ。救われないと、世界が言ってしまったのだ。決めてしまっているのだ。神の国の法で裁かれるのだと。それが、彼の出した埋め合わせの答えだった。しかし、正直なところ、僕は、まだ、その答えが正しいのか分からないのだ。もっと確かな答えがあるような気がしてならない。


「君は、どう思った? 彼の行った行動を、どう感じた?」


 分からないのなら答えることは出来ない。しかし、彼女なら何か答えを出せているのかもしれないと思った。もしかしたら、それを経験として知っているのかもしれないと思った。何故、そう感じたのかは単純な話だ。美しいからだ。

 夕闇の溶けた図書室の影たちが、僕らの背後に佇んでいた。穏やかな日差しは姿を消し、グラウンドに聞こえていた健康的な声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。どこか古惚けた臭いが、どこからか懐かしさを連れてきた。それはどこからなのか。そして、どこへ行ってしまったのか。

時計の針の音が妙にはっきりと聞こえた。僕たちは周りが薄暗くなっていることに気付けないでいるのだ。窓から見える市街地の家々には明かりが灯り始めている。そう、終わるのだ。今日もこうして一日が終わって行くのだ。

 僕は彼女が言葉を創っている間、少し子どもの頃に戻っていた。それは小学生の頃だ。僕は友達と放課後、学校の校庭で遊んでいた。鬼が一人の小太りの少年を追いかけている。それを足の遅かった僕は息をひそめて、遠目から慎重に観察していた。その時の興奮が今でも脳みそにこびり付いて離れないのは、それが楽しかったからだろうか。そして、夕暮れの、そう、今みたいな時間だ。校庭にある市の放送用スピーカーから少しノイズが聞こえたのだ。それが聞こえた瞬間、鬼と追いかけられていた少年は走ることを止めた。そして、僕も隠れていた繁みから姿を出した。合わせて七、八人の同級生がぞろぞろと出てきた。そして、「家路」が流れた。それは、家に帰る合図だった。鬼が鬼でなくなる合図だった。「帰れ」と街が、世界が、小学生の僕らに告げるのだ。そう感じていた。僕らはランドセルが置いてある昇降口まで戻って、帰り始めた。「また明日」、そんな無責任な言葉を言った。どうして無責任だと感じたのか、そうだ、思い出した。僕らはもうここには戻って来ないからだ。そう、それは卒業式の日だった。僕らだけが最後まで残って遊んでいた。遊び疲れても、まだここにいたい、そう思っていたのだ。中学校でまた会えるから、明日ではないけれど、また何処かで会えるから、そんな思いから発した言葉だったのだろうか。いや、違う。僕は、「また明日」と言うことで、またいつでもここへ戻って来られるような気がしていたのだ。何から卒業したのだろうか、数週間前の僕が抱いていた疑問にようやく答えが出た。それは小学校という慣れ親しんだ世界から「帰れ」と、世界に言われることだったのかもしれない。そうして、何の変哲も無い夕闇が、夕闇の中で遠目に見る鬼の姿が、心に染みていたのだ。街の景色は、あれから六年経った今でも同じだ。しかし、臭いが違った。特別な日の、特別な空気を、体育館から列を作って出て行くときの、あの足音を、少年たちの真剣な声を、もう僕は二度と、感じることが出来ないのだ。それは、絶望的な距離だ。街は変わらない、死んではいないから。しかし、そこへは行くことが出来ない、遠すぎるからだ。何をしても追い着くことが出来ないからだ。手の施しようがない、そんな絶望的な距離、縮まらない距離、それを埋め合わせる方法。そう、それは「思い出す」ことだったのだ。忘却の向こう側の、水の底から湧いてくる泡、それが弾ける瞬間こそ、埋め合わせられた瞬間なのだ。しかし、主人公はそれを行うことが出来なかった。なぜなら、彼はまだ、忘却の入り口に佇んでいるからだ。その向こう側を知らないからだ。そして、彼は誤った答えを出してしまった。これが、この本の真相ではないだろうか。

 遠くから僕を呼ぶ声がした。いつの間にか眠ってしまったようだった。やはり徹夜をした次の日の夕方は、かなり眠くなる。午前中は禄でも無いことを考えて頭が冴えきっていたが、一旦落ち着くと眠気が襲って来る。僕は申し訳なさが顔一杯に表れるような表情を作った。


「ごめん、昨日寝てないから暗い部屋にいると眠くなっちゃって」


 と、言ってみたが、どうも部屋が明るい、いつの間にか部屋の蛍光灯を付けたらしい。


「そう、気持ちよさそうに寝てたから起こし辛かったんだけど、起こさな訳にも行かないから」

 彼女も申し訳なさそうに話していた。しかし、やはり、彼女の絶対領域と言えど、「家路」には勝てないらしい。もう時計は五時を回っていた。


「曲が流れているわ。もう帰らなければならない時間よ、さ、帰りましょう。今日の考察会はこれで終わりよ」


 そういって彼女は机に散らばっていた図書室を利用しているであろう生徒の貸し出しカードを整理し始めた。僕も、それに倣って少し彼女の手伝いをした。


「あら、気が利くのね。ありがとう。でも大丈夫よ、あとは私がやっておくから、今日は帰っていいわ、私も直ぐに帰るから」


 そう言われると本当に帰ろうとしてしまうのが僕なのだが、今日は途中で寝てしまったという罪の意識からか、そうしようとは思えなかった。


「いや、帰るなら一緒に帰ろうよ」


僕らしくない言葉だった。しかし、彼女は頷いて


「そう、じゃあ、そこに散らばっている本を本棚に戻しておいてくれる?」


と、返却棚に置いてあった数冊の本を指さして言った。僕は無言でその数冊の本を担いで図書室の奥の本棚に向かった。一冊目は有名な欧州ファンタジーの本だった。映画にもなったのだけれど、僕は四作目までしか読んでいない。二冊目は論語の黒くて厚みのある本だった。これは我が校でも有名な古典の松平先生の授業で使用される本だ。だれかが予習のために借りたのだろう。僕も何回か借りたことがある。これで勉強すると、実によくできている生徒に扮することが出来るからだ。残り数冊は教育関連の本や情報工学の本など、専門分野の本だった。

 すべての本を元の本棚に戻し終え、僕は時計を見た。午後五時十分を過ぎた頃だった。まだ構内用放送スピーカーからは帰りを促す曲が流れ続けていた。

 彼女も作業を終えたらしく、コートを着ようとしていた。もう春だが、まだ夕方は肌寒い。僕も脱いでいた学ランを羽織って学校指定のスクールバッグを肩にかけた。


「では、帰りましょうか」


 彼女が先に図書室から出た。そのあとに続いて僕も部屋の灯りを消して図書室から出た。彼女は持っていた鍵で扉を施錠した。少しやりにくそうだったから変わろうか? と尋ねたが、そのあとすぐ鍵が閉まった。少しコツがあるのよ。彼女はそう言っていた。

 誰もいない校舎の階段を僕らは降りて行った。教員室には誰かいるはずなのに、その校舎には、人の気配が全くしなかった。流れていた曲はいつの間にか消え、沈黙の中を僕らは泳いでいた。彼女は図書室の鍵を専用のポストに入れ、持ち出し者の名簿の返却時間に今の時間を書いた。丁寧な数字だった。

 そして、僕らはそのまま教員用玄関から校舎を出た。本来は使用を禁止されている扉なのだが、誰一人気になどしていなかった。その扉の禁止は、きっと世界で最も意味を持たない禁止だ。

 僕は彼女の後ろについて行った。そして、細い通路を出て、校門を出た。朱色の夕日がもうほとんど沈んでいた。後ろに長く伸びた二つの影が不並びの歩調でコンクリートに跡を残して、僕らは少しだけ呼吸を意識した。


「さっきの質問の答えは出た?」


 僕は思い出して質問した。別段忘れていたわけではなかったけれど、質問しようとしなかっただけだ。彼女に無い気を使ったのかもしれない。


「そうね、少し長いわよ」


 長い話には慣れているから、僕は黙って頷いた。


「まずは、そうね、私の話から始めましょうか。こういう話をするときは、前置きが必要なのかしら、まぁいいわ、小説家を気取らせて、気持ちよく話したいの」


 彼女は笑った。


「私が生まれたのは酷く天気の悪い、今にも雨が降り出しそうな、そんな淀んだ日だったらしいわ。そんな日に生まれたから、私はそういった性格だと思われてしまうのかもしれない。暗くて、地味で、図書室にしかいないイメージ、そんなキャラクターが、みんなの心に、私と言う概念として出来上がってしまったのかもしれないわ。もしかしたら、私自身がそういった概念を無意識のうちに植え付けていたのかも。どちらにせよ、私が生まれたのは、そういった暗いイメージを持ってしまうような日だったの。そして、わたしは両親から『こと』という名前を貰った。名前の由来なんて聞いたことが無いわ。気にしたことなんてなかったもの。私は、私の名前がどうして平仮名で、どうして二文字で、どうしてどちらも母音が『お』なのかなんて興味が無かったから。私は、私の名前になんて何の意味も無いと、そう思っていたの。だってそうでしょ? 人の名前の由来がその人を表すなんて無いじゃない。女の子の名前には花の由来が多いけれど、そんな花のような女の子なんて私の知る限りほとんどいなかったし。名前と言う文字群は、戸籍上の私を区別するだけの、そういった役割しかないのだと、そう思っていたわ。でも、きっと名前には、私ではなく、私の両親には意味のある物なのよね。それは願いだったり、思いだったり、私はそれを十分理解していたわ。だから、私に意味のある物じゃないから、私はそれを聞けなかったの。聞くことが怖かったの。だって、それを聞いてしまったら、私はその願いに、その期待に、精いっぱい答えなければならないじゃない。もちろん期待に応えることが嫌なわけじゃないの。私自身が傷付くのは別にいいのよ。でもね、私じゃなくて、私の両親が、私に期待している誰かが、そうならなかった私を見て傷付くのが嫌いなの。だから、私は聞けなかった。そういう人間なの、私は。

 そうして私は、与えられた高価な玩具で、滅菌されつくした部屋で、順調に成長する予定だった。当たり障りのないように世界を泳いで、いつの間にか私自身が、当たり障りのない人間になってしまっていた。心を許せる友達なんていらなかったけれど、やはり一人は寂しい物ね。小さかった私は、その一人に耐えられなくて、私の知らないことがあるということに、私の知らないところで、私の知らない事が起きているということに耐えられなくて、焦るように友達を作ったの。その娘の名前は桜井、下の名前は忘れたわ。あなたは知らないはずよ。それは、私が私しか知らない場所で作った、双子の姉妹の妹の方だったから」


 桜井という名を、僕はどこかで聞いたことがあった。何処だったかは忘れてしまったけれど、その名に、何故か僕は良い印象を受けることが出来なかった。


「どこで出会って、どうして友達になったかなんて話は,これから話す話に全く関係がないから話さないけど、その双子の妹の方と私は、気が合う似た者同士だったの。二人で休日に映画を見たり、服を買いに行ったり、本屋さんで何時間も本の話をしたこともあったわ。それが小学五、六年生の頃の話。そうして、私はさらに私だけの世界に籠るようになったの。学校は相変わらず、私の知らない事で溢れかえっていたけど、それもいつの間にか気にならなくなってしまった。そうして、私たちは中学生になった。彼女はもちろん私とは違う中学へ通ったけれど、私は彼女と遊んだわ。勉強も二人でしたし、でも、そういう時間って、なんだか急に、何の前触れもなく終わってしまう物なのよね。私が中学二年生になった春、彼女は死んだの。交通事故で。姉妹でどこかへ出かけていた時のことでニュースにもなったのよ? 事故を起こした車に乗っていた人も車の中で死んでいたんですって。心筋梗塞だったかしら。あまり車に乗らなかったのに、その日たまたま車を使って出かけなければならない用事ができて、そして、その日に死んだの。まるで何か見えない力が働いたかのような偶然よね。そして、たまたまその日出かけていた双子の姉妹の下の子だけを轢き殺したの。そして、生き残った上の子はどうなったと思う? 自殺したわ。ドアノブにネクタイを括り付けて、でもね、私、死ぬ直前にその上の子と話したのよ。お礼を言われたわ。『妹に思い出を作ってくれてありがとう』とか、たしかそんな内容だったわ。仲の良い姉妹だったから苦しかったのよね、きっと。でもね、私は上の子が嫌いだったの。話を聞いていて変だと思ったでしょ? どうして私は上の子と遊んでいないのか。もちろん、姉妹でいることが多かったから話もしたわ。でも、私は彼女のことが嫌いだった」


 そこまで話すと彼女は、少し俯いて、溢れだす思いを整理するように、しっかりとした、適切な言葉を探していた。答えは無いはずなのに、正しい正解を文章中から見つけるように、一つ一つ線で繋いで、答えを導こうとしていた。そして、彼女は詰まらせた言葉を言った。ゆっくりと、丁寧に。


「理由はね、彼女が美しかったからなの」


 何か思いつめるように、苦しそうに、彼女は話した。その痛みが、彼女の「美しい」という言葉から伝わって来た。その一言が、この世で最も重い意味を持つ一言に感じられた。その心髄にある意味を僕は完全に理解したわけではないのに、だからこそ、僕はそう感じたのかもしれない。話は続いた。


「私は彼女がどんな風な生活を送っていたかは知らないし、彼女が何を考えていたのか良くわからない。それでも、何となくわかることが一つだけあるの。それはね、彼女が生きることに積極的ではなかったということ。彼女は美しいものを美しいと言ったことが無かったの。綺麗な空を見ても、綺麗な曲を聞いても、彼女は『美しい』と言ったことが無いの。何も言わずに、ただ息をしているだけだったの。感銘を受けて呼吸しかできないとか、そういうことではなくて、本当に何も感じていないようだったの。だからね、私は何となく、この子は生きることが出来ないのだと、そう思ったの。物理的に生きられないのではなく、精神的に。そして、その予想は物理的な方で当たってしまったのだけれど。当時の私はかなりショックを受けたわ。何より、一番ショックを受けたのは、他の傍観者達がそれを忘れてしまったことだった。被害者が未成年だったから、この事故はニュースで報道されたけれど、生き残った姉が自殺したことは報道されなかったわ。そして、私も、彼女たちの家族と接点を持つこともなくなって、私の両親は、可哀想だけれど、私が思い悩むことではないと、私を慰めようとしていたわ。だけど、そんなのあんまりじゃない、だって、私しか知らないのよ? 彼女たち姉妹がどういったことで笑っていたのか。妹はどの本が好きだったのか。姉は何を思って、泣いていたのか。私しか知らないの。それでも、世界は私に、彼女たちのことを忘れさせようと動いたわ。色んな人がそのことを忘れて行った。あなたも例外では無かった。誰も彼もが、あの数分の、私たちがどう足掻いたって追い着けやしない長い長い時間の果てにあった報道番組を忘れてしまったの。そして、丁度一年が過ぎた日、私は学校へ行きたくなくなった。詳しい理由は語らないけれど、簡単に言ってしまえば、忘れ去られていることに絶望したの。たった一年で、あの子達が生きてきた跡が、まさに跡形もなく無くなったの。人間が生きていたことなんて、これっぽっちの価値しかないんだって、私はあの時に悟ったわ。この世に何も残せずに死んでしまう。生きていたことさえなかった事にされてしまうような。私はそれが耐えられなかった。私たちに明日は無い。未来永劫、私たちのことを知っている物なんてないの。私は、閉鎖的な世界をそこに見たわ。このままじゃ心が壊れてしまうのではないかと思うくらい悩んだ。毎晩毎晩、ベッドの中で。だから、私は逃げたの。逃げることで何かが変わることは無かったけれど、それでも、ここに居たままでは、私は何も出来ずに死ぬと思ったの。そして、高校受験をした。狂ったように勉強した。他の事は考えたくなかった。そして、高校受験ではそこそこ名の有る高校に合格した。でもね、私はそこへは行けなかった」


 彼女は話すことを止めた。


「これで終わりよ。これが私の話、縮まらない距離とその埋め合わせの話よ。だからね、私は答えを


 出すことが出来なかったの、あなたの質問の。私は経験則としてそれを知っているだけで、何が正解なのか、どう整理すれば良いのか、私には分からなかった。でもこれだけは言えるわ」

 彼女は僕の目を真剣に見つめて、しっかりと言い放った。


「私は未だにそれについて悩んでいる」

 

 夕日は完全に沈み、二つの影は街灯の光を頼りに歩いていた。何か言うべきなのか迷ったけれど、僕自身も言葉が上手くまとまらない。


「まだ、寒いわね。今年の春はまだ先の話なのかしら」


「そうかな、どうだろう、暦の上ではもう春だけれど、冬かもしれないね」


 僕は、答えをぼやかした。完璧に言えないから、見透かされているようで怖かった。


「そう」


 彼女は息を吐くような小さな声で、そうつぶやいた。何か言わなければならないのは分かっていた。ただ、何が正解なのか分からなかった。相手が真剣に話したのだ。僕も真剣に答えなければならない。しかし、何が真剣なのか、何が最も適切な文章なのか、僕はまだ、その答えに辿り着けないでいた。

 木々の葉が音を重ねて揺らいでいる。風が吹いているのだ。それは僕らを通り越して、どこかへ行ってしまった。その行方を、僕も彼女も知る術はないのだ。それが答えなのだろうか。悩んで、逃げて、でも結局は、答えなど見つけることが出来ない、本当にそれが答えなのだろうか、忘れるということは罪なのだろうか、思い続けるということが、思い続けて心まで壊してしまう事が、本当に正解なのだろうか。僕には、何もすることが出来ないのだろうか。


「神様の存在証明を、君は知っている?」


 何でも良かった。この場を繋ぎ止める一言を、僕は欲した。どうしてそんな言葉が今、この瞬間に、僕の脳の奥底から浮かび上がって来たのか分からなかったけれど、僕は、最終的にそれに縋ることに決めた。


「え? いや、知らないわ、私は神様なんて信じていないから、信じる信じないというより、そんな抽象的で具体性のない何かが私を助けてくれるわけがないと思ってしまっているから」


「そうだね、僕も神様は信じていないよ、そういった物は科学の進歩の邪魔をし続けてきたからね、ただ、実は、それでも科学と言うものが誕生したきっかけは、神の英知を知りたいという人間がいたからなんだと思うんだ。この世界の仕組みを解き明かして、神に近付きたいと、そう願った有神論者達によって、今の科学があると思うんだ。神の存在を証明するために、科学は進歩し続けた。神の存在証明を解いた人はね、神は全ての言葉の中に潜むものなのだから、神がいないという言葉があること自体が、神の証明なのだ。と言ったんだ。つまり、神は主語、述語、動詞、形容詞、形容動詞、副詞、連体詞、名詞、代名詞、接続詞、感動詞、それら全ての中に潜むと言われているんだ。ただ、僕が言いたいのは、そういった神の居場所とか、存在証明の方法とか、そういったことじゃなくて、つまり、全ての言葉の中に神が居るのだとしたら、絶望とか、死とか、そういった負のイメージを伴わせている言葉にも神が宿っているという事なんだ。つまりだ、自殺してしまった主人公は、必ずしも不幸であったとは言い切れないということなんだ。精神の困窮が生み出した答えは、その人の精神を安らげた可能性もあるってこと。BADENDに見えて、実はHAPPYENDだったり、その人自身は救われていたりするのかもしれない。だから、僕らには、その人が選んだ道を、祈ってあげるということしかできないと思うんだ。神がいないとか、いるとか、そういった概念ではなく、祈るということは、僕ら自身も救うことになるのだから。だから、その人を最大限尊重してあげることしか、僕らにはできない、でもそれは、その絶望的な距離を縮めることが出来たのかと問われると、そうではないのかもしれない。だってその人はもうここにはいなくて、それは物理的で、精神的な距離を縮めてはいないのだから。でも、僕の精神に、いや、精神の中に住まう彼らに近付けたってことになるんじゃないかな。つまり、この本の縮まらない距離とは死であって、最終的にその埋め合わせの方法を行うのは僕ら自身なんだ。僕らが、この一冊の本を読んで、死について考え、さらに言うと、死の形で最も忌み嫌われている死、『自殺』について考え、そして、少しでもそれを選んだ彼らに祈りを捧げられるような、そういった方法を導き出して欲しいという、著者の意図がこの本にはあるんだ。そして、僕らはそれを実行した。君の友人の自殺について考え、それがどういったものなのか、議論して、悩んで、毎晩ベッドの中で泣いた。そうやって傷ついた分、僕らは少しでも彼らのことを考えられる人間に成長することができたんだ。傷つくことは無意味じゃない、逃げることは無意味じゃない、それは死と真剣に向き合った結果なんだ。答えは見つからないさ、だって、この本には答えが書いていないから。この本は最初から答えを載せていないんだ。その答えを導く方法だけを載せていたんだ。答えは自分たちが、経験として知っていくことしかできないのだから」


 言いたいことを話しながらまとめていく作業は結構難しいということを知った。どうだろうか、僕の言いたかったことは彼女に伝わっただろうか。しかし、それは僕の知って良いことではないのだ。彼女だけが決めることなのだ。僕は言った言葉の責任を取ることしかできない。影響とは相手の捉え方で決まる物だからだ。

 影は消えていた。無機質な道を僕らは歩いた。街灯の灯りさえ届かない夜道を。木々は相変わらず揺らぎ、雲が流れているのが何となく分かった。その向こうに見えるはずの星を、僕は真剣に探した。そして、一つだけ輝く星を見つけることが出来た。それが何の星なのかは分からなかったけれど、僕はそれを見つけることが出来たのだ。


「私は、ビートルズで一番好きな曲はPenny Laneなの」


 彼女は唐突にそんな話をした。


「どうして?」


 僕もPenny Laneは好きだ。けれど、他にも好きな曲はたくさんある。どうしてビートルズと限定して、どうしてその中からPenny Laneを選んだのか気になったから、僕は聞き返した。


「あの曲を聴くと、昔を思い出すの。雨の日の水たまりの上を、黄色の合羽を着て長靴を履いている私が通るの。水たまりは波紋を広げて、そうしているうちに雨は止みそうになって、雲の切れ間から青い空が少し見えるの。そんな日のことを思い出す。思い出してね、何だか胸のあたりが苦しくなるの。Penny LaneのLaneをrainと聞き違えていたのかもね、だから雨の日のことを思い出してしまうのかもしれないわ」


 それから、しばらく沈黙した後、彼女は俯いていた顔を上げ、僕と同じ方を見ながら、


「思い出すことも、悪くはないわ」


 そう言ってくれたのだ。           

                                    考察終了


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