空欄に入る値
五限終了のチャイムが鳴ったことで目が覚めた。いつのまにか化学の授業が終わっていた。先ほど化学の授業が始まったばかりだというのに、黒板には有機化学の知識が溢れんばかりに記されており、それは化学の授業が終わったことを示しているのだ。啓示しているのだ。
「授業終わったよ?」
前の席の羽柴に起こされた。
「おお、悪いな、羽柴。僕のためにノートを取っておいてくれたのか、ありがとう」
「もう! そんなんだから英語の単位落とすんだよ!」
そう文句を言いつつもノートを渡そうとしてくれる羽柴は本当に良い奴だ。君のおかげで僕は今日も化学の時間を有意義に過ごすことができる。
「お前、本当に良い奴だな。恩に着るよ」
「留年しないでよ? 寂しいから」
「ああ、大丈夫だ。このまま英語の単位を落とすだけなら卒業できる。ギリギリ」
そんなどうでもいい雑談すら、いつの日か忘れてしまう。そんな言葉が一瞬頭を過った。授業終りの騒がしくなる教室の音、窓から入ってくる春の風、いつも見ている初めての光景を、僕はいつの日か忘れてしまう。そうやって、僕の脳は、どうでもいいことを上書き保存していく。
「今年で終わりだな」
唐突にそんな言葉が出た。何が終わりなのか、高校生活が終わるだけなのに、すべてが終わるような、そんな気さえする。
「そうだね、もう卒業だね」
僕は、いったい何を卒業するのだろうか。今まで二回の卒業式を迎えてきたが、いったい僕は何を卒業したのか、良く分かっていなかった。
「ねぇ、進路は決めたの?」
答えは出ているのに、僕は少し考えこんだような、そんな素振りをしてから羽柴の質問に答えた。
「進学だと思う」
兄が進学したから、僕もそうするだろう。何も決まっていない僕は、結局誰かと同じ道の上を行くのだ。人生を賭けてまでしたいことなんてないから、そもそも人生を賭けるとか、そんな言葉自体曖昧すぎると僕は思う。人生は賭ける物ではないし、掛ける物でもないのだから。
「進学か、まぁ、そうだよね」
羽柴は、僕の答えを前から知っていたかのようだった。いや、知っていたのではなく、その道しか残されていないことを、羽柴は良く理解しているのかもしれない。
「羽柴、お前も進学か?」
「うん、たぶん、この辺りじゃ就職もないし、それに、遠くへ行ってみたいから」
遠くとは、どこまでが遠くなのだろうか。隣町までだって歩く距離ではないし、海外には歩いて行けない。遠くという明確な距離は無いのではないだろうか。物理的な距離と、精神が熱望する遠くとは、きっとその人の内にある縮尺が決めることなのだ。
「遠くか、たまには帰って来れる距離が望ましいな」
そんなことを言ってみる。別に羽柴が遠くへ行ってしまう事を悲しんで出た言葉ではないし、ここに残っていて欲しいとか、いつか帰ってきて欲しいとか、そういったことでもない。図々しいかもしれないけれど、僕は羽柴に僕のことを忘れてほしくないだけなのかもしれない。いや、たぶんそうだ。僕は、忘れてほしくないのだ。
「そうだね、年に一度くらいは帰って来るよ、嫌いなわけじゃないからさ、ここ」
嫌いなわけじゃない、ただ、もう、この街に住む理由もなくなったのだろう。何処か遠くへ行きたい。誰も知らない地へ行ってみたい。そういった感情が羽柴の中にはあるのだ。誰のために生きて、誰のために死ぬのか、羽柴はその答えを見つけたいのかもしれない。
「さて、そろそろトイレに行こうかな、悪いが羽柴、僕には急用ができた」
「トイレでしょ。ホントに君は面白いね、悩みごとなんかないでしょ」
「ああ、たぶん無いね、僕は何も考えてないからな」
そうだ、僕は何も考えていない。僕は、発生した事象の結果から、誰しもが予想のつく答えを見ているだけなのだ。思想していない、創造していない。
「やっぱりね、君が何者になるのか、楽しみで仕方がないよ」
色々な人にそう言われ続けてきた。それが何を期待しての言葉なのかを、色々な人が僕に教えてくれなかった。
「ありがとう。見ていてくれ、僕がどこへ行くのか」
僕は笑いながら教室を出た。
用事をトイレで終えた僕は、ゴチャゴチャした雑踏を泳いでいた。僕の体は自然と図書室に向かっていた。何を期待しているのか明確だったが、それに気付かないように、何も考えていない振りをしながら図書室に向かった。しかし、案の定図書室にはカギが掛かっていた。僕らの高校では、昼休みと放課後しか図書室を解放しないのだ。そこに籠って授業を受けない生徒が発生するためだ。
僕は、少し気落ちしながら自分の教室に戻った。あまり期待していなかったが、彼女がいてくれるような気がしたのだ。
教室に戻ると、丁度六限目のチャイムが鳴った。これから現代文の授業が始まる。今日という日の最後の授業が始まるのだ。それは、今日が終わるということも、共に意味している。始まりは終わることを告げる審判の笛なのだ。
十分遅れて教師が来た。この時間のこの授業の冒頭には、挨拶もせずに必ず開口一番にいつも教師の雑談から始まるようになっていた。みんなはもう半分呆れているが、実は、僕はそんな時間が好きだったりする。もう七十近い老人で、階段を三階まで上がって来るだけで息を切らし、心臓のあたりを強く抑えている状態を何度も見ている。僕たちは、その先生のことを倉爺と敬意を込めて呼んでいる。
「学生諸君、こんな老いぼれの授業に今日も来てくれてありがとう。私はたぶんもう長くはないが、君たちに教えたいことが山ほどある。私の将来の夢はな、教壇で死ぬことだ。だから、私は授業を今までの教師人生の中で一度も休んだことが無い。私の母が危篤状態の時も、私は病院へは向かわずに、ここで学生に漱石の書いた評論の外発的文明開化と内発的文明開化について語っていた。死にゆく者を労わるよりも、私は、私よりももっと長く生きる君たちに教えたいのだ。私が何をしたのか、漱石が何を言ったのか、芥川は何を説いたのか、私は君たちに教えたいのだ。さて、今日は何を教え
よう。先週は北村透谷について語った気がするな。おい、お前、ノートを見せてくれ」
教卓の目の前の生徒が必ずノートを見せる役目になっている。
「ふむ、なるほど、ここまで話したのか。では、明治の文明開化については君たちに話したということだな。おい、お前、教科書は出したか?」
次に指名されるのは決まって廊下側一番右の二列目の席の生徒だった。
「はい、出してます。一〇四頁四行目から読みます」
「うむ。それでいい」
そして、この後毎回、
「おい、お前、白墨はどこにある?」
こうやって僕が指されるのだ。チョークが無いと教員室まで取りに行かされるため、僕はこの日だけ自分で買ったチョークを家から持ってきている。
「はい、ここにあります」
僕は白いチョークが2ダース入っている箱ごと教卓に置いた。
「うむ。準備がよろしい。名前は何というのだ」
「志村です。三十四番です」
こうして、僕の成績が少しだけ上がるのだ。
「おお、志村か。毎回すまないな。よし、三点あげよう」
この一連のルーチンによって、たぶん僕はすでに三十点は稼いでいるはずだ。つまり、期末テストで平均よりちょっと上のスコアを取れば、成績はかなり良いものが来ることが保証されていると言っても過言ではないだろう。
「その席は本当に恵まれてるよね。歴代の三十四番はみんな成績が良かったのかな」
羽柴は羨ましそうに僕の顔を覗き込んできた。
「どうだろう」
わからないからそう答えた。それが嘘でも真実でも、僕にとってはどうでも良いことだからだ。先生に媚びなくとも成績なんてものは変動しないし、結局僕は試験前には勉強するのだから、この行動は、正直言って成績云々よりも、僕のエゴとか、何かこの老いた教師に奉仕でもして良い気分になりたいだけなのかもしれない。実際、僕は感謝されることが好きだし、何よりも、人に尽くすことが好きなだけだ。自分を大事にしていないとか、そういったことではなくて、人に尽くすことで僕は周りと上手くやっていけると信じているからだ。特別仲が良い数人を作って、そこだけの世界を創造するよりも、全体から見て好かず嫌われずの関係を保ちたいだけなのだ。無駄に荒波を立てず、ゆっくり静かに生きていたい。特別な感情なんてのは、未来の自分の娘か息子だけに与えれば良い、そう信じているし狂信している。
授業は何の問題も起こらず、平坦に、無機質に、どうしようもないくらい退屈に終わろうとしていた。しかし、この授業は平坦に、無機質に、どうしようもなく退屈に終わってはくれなかった。授業開始から既に四十分を経過し、ほとんどの生徒が眠りに着くか、これから眠ろうとしている時だった。先生が急に立ちくらみのようなものを起こしたのだろうか。目を瞑って、教卓に手をついて、深い呼吸を数回繰り返している。そして、そのまま倒れてしまった。その瞬間眠っていた生徒と、これから眠ろうとしていた生徒と、ノートを一生懸命執っていた生徒は目を丸くし、羽柴は声を上げ、僕は何が起こったのか理解し携帯で119の11までを打ち込んだところだった。
羽柴が先生のところへ寄っていくのを確認したところで、僕は携帯電話の向こう側へ意識を集中させた。
「火事ですか? 救急ですか?」
威勢の良い声を確認してから、僕はゆっくりはっきり簡潔に話した。
「救急です。教師が突然倒れました。意識がありません。大至急来てください。学校名は七宗高等学校です。」
言い終わった後、僕は、妙な興奮と、形だけの冷静さがあることに気付いていた。
「詳しい状況を説明できますか?」
「はい、立ちくらみのようなものを起こしたと思うのですが、そのあと突然倒れて、それから返答に答えていません」
「わかりました。大至急向かいます。またお電話させていただく可能性がありますのでお名前をお願いします」
「志村です」
「はい、了解しました」
そうして電話は切れた。僕は電話の向こうから意識を戻して、教室を見渡した。何人かの生徒は先生のもとへ駆け寄り、わけのわからない声をかけていて、何人かの生徒はそれを眺めていて、さらに何人かの生徒は僕の方を眺めていて、誰かが教員室に走りに行ったのだろうか、教室のドアが開いていた。しかし、もしかしたらトイレかもしれないと、僕は改めて思い直して、しかしこの状況でトイレに行けるような度胸のある人間がこのクラスにはいないということをさらに思って、とりあえず先生のもとへ向かった。
「どう? 意識はあるか?」
「いや、何も答えてくれない。呼吸も小さいし、もしかしたら」
「とりあえず、救急車は呼んだから、あとは大人に任せよう」
そうしているうちに、顔だけは知っている教師が部屋に入ってきた。
「大丈夫ですか! 倉木先生!」
呼びかけるも返答はない。そんな気がしたが、たぶんそうなんだろう。僕は、先生の、あの階段を上った後の顔を見て、いつかこういった日が来ることを予想していたし、僕が見なくても、僕の知らないどこかで、僕が今体験したようなことが起きていたかもしれない。いや、必ず起きていた。それがたまたま僕の、僕らの目の前で起こっただけの話だ。
倉爺の名前を呼び続けるだけの時間が続いたが、その内誰も倉爺の名前を呼ばなくなっていた。そこには一人の老人の死だけが残っていた。
救急隊が到着してから、学校中が騒然としていたけれど、いつものようにチャイムは鳴ったし、部活動が始まったし、結局、何一つ変わるものはなかった。誰かが死んだから、何かが変わるわけではないのだ。そんなことは小さいころから知っていたし、どこかの人格者を名乗っている連中が、散々言い続けていたことだ。幾万人のミュージシャンが同じようなことを言っているのを僕は知っているし、結局のところ、誰しもが自分の無力さや、圧倒的な時間の流れを前にして、茫然と立っていることしかできていない自分に、その自分の姿に、格好良さを見つけてしまっているだけなのだ。死など大した問題ではないのに、それをあたかも此の世で最も不幸な物だと決めつけ、悪だと決めつけ、そうしながら、それについて如何することもできない自分の姿に気付けている自分を格好良いと思っている。僕は、そんな何かを悟っているような、人格者を気取っているような連中が大嫌いだ。実際に、僕はそういう思想を持った奴がどんな野郎で、どんな糞みたいな性格をしているかなんてよく理解しているつもりだ。でも、それは、僕も似たようなものかもしれない。僕がどんな糞野郎かなんて、僕が一番知っていることだし、自慢ではないが、僕は僕自身のことを、この世の誰よりも分析し、理解している。それは無意識の中の細かな行動一つとってみても、それがどうして発生した現象なのか、ロジックを立てて論証することなんて、僕にしてみれば、庭に生えた雑草を放置するくらい簡単なことだ。僕も人格者を気取った、何かを悟った、ロクでもない連中の一人なのかもしれない。同族嫌悪、その言葉が妙に響く。
次の日も、その次の日も、学校は老人の死の話題で持切りだった。そんなこんなも休日を挟めば消えて無くなったし、あっという間に一週間経っていた。国語の授業は臨時の教師が行った。倉爺が最期に行った授業の続きからだったが、その授業は倉爺の言葉では無かった。
図書室で彼女に遭遇したのは、それから幾日も経った後だった。僕はすっかり彼女のことを忘れていたし、僕にしてみれば、やはり彼女との時間も暇つぶし以外の何物でもなかったようだ。しかし、それでも、僕は彼女と再会した時、忘れていた物を思い出したときのように、なんだか懐かしい気分になった。
「大変だったね、あなたの授業中だったんでしょ? 倉木先生が亡くなったのって」
彼女の疑問に、僕は頷いただけだった。別に答えたくないわけではなかった。ただ、なんだか、その件について僕の口から話しても良いものだろうかと考えたからだ。丁度良い言葉が思いつかなかったから、僕は何も言えなかったのだ。
「倉木先生、教壇の上で最期を迎えたいって言ってたけど、死んでしまったとき、幸福を感じながら逝けたのかしら」
「どうだろう、自殺じゃない限り、人が死ぬ瞬間なんて苦しいだけじゃないかな」
「そういうものかしら」
僕らは、少し黙った。人の死について語るなんて、僕にはまだ早すぎる気がして、未熟者の自分には、死の受け止め方なんて良く分からなかった。愛だとか恋だとかを、まるで一人前のように語る同業者、それに少し似ている気がして、僕は口を噤んだ。
「ねえ、今度はどの本について話をする? あなたが来ない間に色々な本を選んだのよ?」
彼女は机に大量の本を置き始めた。読んだことのある物もあったし、無い物もたくさんあった。その中で、一つだけ気になるタイトルの本を見つけた。「縮まらない距離の埋め合わせをする」、その長いタイトルが僕の目に留まった。興味を持った。そのストレートな文が僕の心を搔きまわした。
「これは、どんな本?」
僕はその本を手に取って彼女に見せた。
「これはね、うーん、一言では言えないわね、まだ読んだことない?」
「うん、初めて見た」
「そうね、だったら、読んでみて、貸すわよ」
彼女はまるで彼女の所有物であるかのようにその本を僕に手渡した。
「じゃあ二日後にまた考察をしましょう。貸出手続きは私がやっておくから今日は早く帰りなさい」
早く読んで欲しいという感情が、彼女の眼球からひしひしと感じられた。僕は内心少し呆れながら、笑ってしまった。不思議だ。この前まともに話せるようになったばかりなのに、まるで昔からの親友のように接してくる彼女が不思議で笑ってしまった。
「何か可笑しなこと言ったかしら?」
「いや、そうでもないよ」
愉快な人だ。
「分かった。今日は帰るよ。それで、二日後じゃなくて明日にしよう。今日一日で読んでくるよ」
「あら、ほんと? なら明日の放課後ここで待っているわね、期待してるから」
何に期待するのか良く分からなかったが、僕は適当に相槌を打って図書室を後にした。自転車置き場から僕の自転車を取り出して、正門から南へ向かった。春の田園を超えて、国道を横切ると、十五分くらいで僕の家に着く。すっかり冬は去ってしまったようだった。温かい風が僕の耳に伝わる。三百メートルおきに現れる鉄塔が五本目あたりから紺色に染まり始めた。自転車のフロントライトが光っていることが良く分かる。街が言葉を失い始めた。夜が始まろうとしているのだ。
縮まらない距離とは何のことだろうか、僕は最初にアキレスと亀の話を思い出した。アキレスが亀を追い抜こうとするのだが、亀がいた場所までアキレスが着く頃には、亀はその先へ行ってしまっていて、アキレスは結局どんなに頑張っても亀を追い抜くことが出来ないのだ。しかし、これにはある重大な欠点があって、まずアキレスと亀の進む速さが同じとは限らないということだ。仮にアキレスが秒速4メートルで走っていると仮定し、亀は秒速0.2メートルで移動していたと仮定する。彼らの間には1キロメートルの距離があったとする。彼らに加速度が無く、等速直線運動をしていたとするのなら、アキレスは亀が歩き始めた場所に250秒で着く計算になる。しかし、その間亀も250秒移動しているわけだから、0.2*250+0*250^2=50より、アキレスの前方50メートルの場所にいるということが分かる。さらに、アキレスは亀が現在いる50メートル先に行くためには、あと12.5秒走ればよい。そうなると、亀もその間12.5秒間移動しているわけだが、その距離はわずか2.5メートルとなる。つまり、あと一秒で亀はアキレスに1.3メートル追い抜かれるのだ。つまり、縮まらない距離などこの世にはないということだ。
しかし、きっとそんな無益で子どものころから損ばかりしているような話ではないのだろう。そんな話はあってはならない。なぜなら、こんな話は中学生の理科を一生懸命勉強した勤勉な学生たちにとっては、母親の「近所のおばさん」の話を聞くくらい無益な話だからだ。
僕は、もし仮にこの本がそういった無益な内容を掲示しただけの内容ならば、即刻破り捨ててしまおう、と内心出来もしないことを思いながら一ページ目を開いた。
新聞配達のバイクの音で精神が自分の部屋に戻ってきたのは、もう東の空が明るくなった午前五時五分前くらいだった。読み物でここまで集中したのは久しぶりだった。目が疲れて、ずっと同じ体勢だったからか、お尻の付け根辺りに妙な違和感があった。何かの病気でなければよいのだが。
とりあえず、僕はそのままベッドに潜り込んで七時まで眠ることにした。ベッドの中でも妙に頭が冴えていて、もし自分がこの物語の中の登場人物になることが出来たとしたらどうしただろうか、どう主人公に影響できただろうか。そういったことを考えた。そして眠った。眠りに着いた。深く深く潜った。
起きたのは六時五十九分だった。起きてから目覚ましが鳴って、それを止めた。体がかなり重かった。まだ頭が起ききっていなかったが、仕方がないのでベッドから出た。何故こうも辛い思いをしながらベッドから出なければならないのだろう。中学三年まで毎日思っていた。しかし、フジファブリックを聞き始めてからは、そんなことを思わなくなった。確かに朝起きることは辛いことではあるが、起きる理由を知ってからは、仕方がないから起きることにしている。部屋を出るためにドアノブに手を掛ける。ドアノブの冷たさを感じることが出来た。扉を開けたときの廊下からの空気が僕を通過した。外界との接触に成功した瞬間だった。階段を下りて通路の左側にある洗面台で口を濯いで顔を軽く洗った。朝食は用意された料理を頂き、颯爽と服を着替えて家を出る準備を済ませる。玄関に置いてある自分専用のクロスバイクを玄関から外に出してタイヤの空気をチェックした。少し圧が下がっているような気がしたから空気を入れた。ママチャリとは違って、クロスバイクのタイヤに空気を入れる手順は少し手間がかかる。最も一般的なイギリス式、その他にフランス式と合衆国式があるらしいが、僕のクロスバイクはフランス式だ。まずキャップを取り、トップナットを回す。指で上から何回か押して空気を出す。そのあと空気入れのフランス式側を奥まで差し込ませ、レバーを捻ってロックする。そして気圧がメモリの4~6の間辺りまで空気を入れる、ちなみに僕はいつも5まで入れている。
前輪、後輪どちらも空気で満たしてあげた。空気を入れた後の自転車に乗ると、地面の感触が少し硬く感じる。ペダルはいつもより軽く漕ぐことが出来る。耳に伝わるまだ肌寒い朝の春の空気をより一層、感じることが出来るのだ。タイヤの空気を入れるだけで世界は変わるらしい。
国道の信号を待っていると、横に若い女性が乗った赤いSUVが止まった。黒の長い髪と眼鏡が良く似合っていた。素直に魅力的な人だと思った。その人は信号が青に変わるとそのまま排気ガスと一緒に交差点の向こうへ行ってしまった。美しかった。ハンドルを持つ手、耳の形、眼鏡の配色、車のライン、タイヤの動き、排気ガスの出方、色の変わった信号まで、全てが美しかった。美しい人は、その全てを美しく見せてしまうのだろうか。ぼんやり思いながら、またペダルを漕いだ。
学校に着いてもまだ、僕はそのSUVに乗った人の事を考え続けていた。彼女の趣味や、来ている服のメーカー、車の排気量まで考えた。その人が赤いSUVを買った時のことも想像した。吸っている煙草は何だろうか、セブンスター、ピース、マルボロ、メビウス、ラッキーストライク。ラッキーストライクだったら僕は直ぐにでもあのSUVに乗って交差点の向こうへ消えて行った彼女を追うつもりだ。追ってからどうしようか、煙草を分けてもらおうか。その時は、僕は制服を脱いでセーターと下は土埃色のチノパンを穿こう。髪は少し抑え目の髪型にして、彼女がどこかのコンビニエンスストアで煙草を吸っているところへ近づいて、一本分けてくれないかと尋ねよう。断られたら、お金は今度返すからと言って、住所を教えようか。きっと彼女ならそんなことをされても逃げ出さずに煙草を笑いながらくれそうだ。それからラッキーストライクを口に銜えて、彼女のライターで火を着けてもらう。火が着いたら煙を吐いて、軽い雑談をしよう。きっと楽しい時間になるはずだ。別れ際にもう一度連絡先を教えて、「お礼に今度、食事でも行きましょう」そう言って別れよう。きっと彼女は僕に連絡をして来ないだろうけど、どこかの街で僕は、また彼女の乗った赤いSUVを見て、声を掛けるだろう。きっと彼女は僕の事なんか忘れてしまっているのだろうけれど、僕は「あなたの吸っているラッキーストライクを僕に分けてもらえませんか」と言うんだ。彼女はずっと昔にそれを、どこかの若い学生に言われたことを思い出して、思い出すけど、きっと思い出せない振りをして、また笑いながら「さよなら」と言うんだろう。そのときは、僕の手の中には一本のラッキーストライクが握られているはずだ。そして、僕はラッキーストライクを吸う度に赤いSUVのことを思い出すのだけど、その内、彼女のことも忘れてしまって、ラッキーストライクは赤いSUVに良く似合うという感覚だけが残るのだ。その感覚は誰とも共有することが出来はしないだろうけど。
縮まらない距離とは、こういう話だった。何もかも違ったけれど、何もかも同じだった。
そうして、二回目の考察の時間がやって来たのだ




