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浮遊する夢  作者: 志村朗
2/11

イニシエーションな愛

報告書のような書き方になります。このような形で、後数回こういった会が行われるかもしれません。それでは

一、目的

中川雄介著「毒殺した恋」の内容を考察し、登場人物の心情を明らかにしていく。

 

二、方法

主に、二人の会話をもとに考察を深めていく。客観的視野を重視しながら、双方が納得の行く結論を導く。


三、使用器具

中川雄介「毒殺した恋」文春文庫、一九九七年十月一日初版発行、二〇〇三年三月十五日三刷(税抜定価六八〇円、状態おおむね良好、天に焼けあり)※ただし巻末解説は使用しない、机、椅子


四、結果

自分と似ている人間と関わり合う時は、一定の距離を保つようにした方が良い


五、考察議事録

「人が浮気をするのって、どういう時だと思う?」


 彼女は真剣な顔で聞いてきた。しかし、僕はその裏にある彼女の冗談めいた心もしっかり気付いていたので、敢えて彼女に乗るように、僕も真剣に返した。


「そうだな、その人に飽きたときか、もしくはその人に飽きられたときかな」


「そうかしら、私はきっと今まで見てきたものが見えなくなった時だと思うわ」


 彼女は背もたれに深くもたれ掛って、腕を組みながら目を瞑り話していた。


「例えば、目標にしてきた生活が、実際始まってみると苦しいことばかりで、一日でも早く辞めたいと思うようになって、そこで、結局その環境に慣れることができなかった人たちが起こしてしまう事象のような気がするわ。多くの人はその環境に上手く適応していって、一、二年経つとすっかり慣れちゃって、また気が遠くなるほどの時が経つと、もうそこしか居場所がなくなっちゃうの。外に出られなくなってしまって、でも、きっと不意にその生活には終わりが来て、裸のまま荒野に投げ捨てられるような、そんな終わり方をするのよ」


 突然饒舌になった彼女に驚きながら、彼女の言葉の意味を整理して、問題を指摘した。


「途中から、浮気をしない人の説明になってるぜ?」


「あら、本当ね。つい話に熱が入ると言いたいことを全部言ってしまう癖なのよ。話を戻すわ。つまり、浮気をする人っていうのは、新しい環境に慣れなかった人ってことよ」


「意志が弱いのか、覚悟も決意も足りていない人たちなんだろう。無責任に言葉を吐くんだ。そして、そういう奴に限って人生の甘い蜜を全部吸うような連中なんだ」


「じゃあ、この小説の登場人物はみんな、そういう人間だったのか、見てみましょうよ。最初に主人公が恋人になる女性に会うシーンは? そういう厭らしい人間特有の空気は出ているかしら?」


 主人公と恋人は、ある日、大学のサークルの飲み会で出会う。お互い特に目立つような人柄ではなかったし、性格も所謂おとなしめの、東男と京女とは程遠い、川にも成れない人口用水路と音の聞こえない花火のような性格だった。彼らは、他の馬鹿騒ぎする連中の輪に入れず、お互いがお互いの傷を舐め合うような会話をして、気が合うと思ったらしかった。そこからの展開は極端に早く、二人で飲み会の会場を抜け出して二駅行ったところのホテルで事を成す。これがこの小説の序盤だった。


「この時点の彼らには決定的な思い違いがあると思う。まず、気が合うと勘違いしたところだ。気が合うというのと、性格が似ているというのは全くの別物だ。誤差率が80%くらいある。気が合うというのは、必ずしも同じ思想を持ち合わせていて、同じ食べ物が好きで、同じ本が好きで、同じ店のアメリカンコーヒーが好きという事ではないだろう。同族嫌悪という言葉があるように、同じ思考回路で行動している人間同士は基本反りが合わない。思想というのはその個人が持っている絶対譲れない領域であって、それと全く同じ領域を持った他人が現れると、「僕はお前とは違う」と思ってしまうことの方が多いと思う。他人に心の奥を土足で踏まれた感触だ。とても不愉快になる。それに気づかないで、この小説の主人公たちは開始早々体まで重ねてしまったのだ。肉体で結ばれたからいい気になって心まで重ねたと勘違いしたんだろう」


「確かに、あまり深く物事を考えない人達なのかもしれないわね。そもそも、思想なんて物を持ち合わせていない様な気がするわ。何も考えずここまで生きてしまったような、そして、一人でいることを恐れるような人たちなんだわ、きっと。周りが友達を作るから作って、進学するから進学して、彼女彼氏を作るから焦って、そんな周りがやっていることをうらやましいと感じてしまう、自分自身の思想や哲学を持ち合わせる機会が無かった、そんな人間なんじゃないかしら」


 思想を持ち合わせる機会、自己の形成、そんな時間を持てる人間が今の日本にどれだけいるのだろうか。自己の形成の殆どが他人の受け入れである現代に。インターネットの普及で他人の考えと同調してしまう癖が付いた人類に。僕は疑問に思った。見た映画や読んだ本、自分が感じた心を他人に合わせてしまう。他人が考えたことより、自分が感じたことの方が重要で、それで終わりではいけないのだろうか、そう思ってしまう。まだまだ子供の考えだろうか。


「あなたは、何か思想を持っているの?」


 思想、僕のこだわり、そう置き換えても良いだろうか。例えば、壊れたり、破れたりしたものをあまり治さないとか、自然に形成された物より、人工物の方が好きだとか、そういったことが思想と呼べるのか。それとも、今の日本の政治は間違っていて、それを正さないといけない、そういって何日も霞が関にテントを張る、そういったことが思想なのだろうか。民主主義がどうだとか、平和が大切だとか、性行為時にコンドームを使用しないとか。僕にはよくわからなかった。まだ十八年しか生きていないのに、人生の全てを悟ったようなことを言えるわけがなかった。だけど、何となくこれだけは分かっている。僕が抱く思想だとか哲学だとかは、僕が生きてきた痕であって、これからではない。ということだ。つまり、僕の今と、これからの僕は何の関係性もない事象であって、僕の考えは日々色や形を変えている。だから、その時思っていたことが何年か後になって、少し違った風に見えてくる。思想とは日々変化する通学路と似ているのだ。

 だから僕はこう答えた。


「僕が抱いている物が思想と呼べるのかよくわからない。今思っていることを君に言ってしまう事が、僕はとても無責任な行為に感じるんだ」


 彼女は少し不思議そうな顔をした。


「無責任な行為って?」


「僕の一言一句は世界を変える力を持っている。いや、誰もがそうだと思う。口から出る言葉というのは、鼓膜を振動させるだけではなくて、自分の観測できない場で妙な力を発揮するものだと僕は思っているんだ。それは今かもしれないし、遠い未来かもしれない。そこはよくわからない。つまり、僕の後々変わるかもしれない気持ちを君に伝えてしまって、その無責任な言葉が君の中で生き続けるとしたら、君は、僕の死んだ思いを持ち続けることになってしまうんじゃないかって。そういうことだよ」


 彼女は少し気難しそうな表情を浮かべた。まるで沸点が百度だと思い込んでいるエタノールと水の混合液のような顔だった。


「ふーん。なんだか息苦しいわね、それ。もっと楽観的に考えてもいいんじゃないかしら。僕の言うことを信じる君が悪い。みたいに、相手の責任にするとか。でも、きっとそれがあなたの思想なのね。あなたはそんな事しないし、きっとそれを生涯守り続けると思うわ」


 どうしてそこまで言い切れるのか疑問だった。でも、きっと彼女には分かっているのだ。彼女は僕のことを全て分かっていて、そして、彼女も彼女自身のことを全て分かっているのだ。そんな気がした。そう思いたかった。それだけなのかもしれない。


「話を戻しましょう。私は、なんだかあなたの今の話を聞いていて、少しわかった気がするわ。この主人公とその恋人は無責任だったのよ。自分の言動に責任が持てなかったの。そうじゃないかしら? 例えば、中盤あたりに二人で旅行に行く話があるじゃない。そこで恋人が主人公と付き合う以前に付き合っていた男の話をする場面。そこで主人公がその話を聞き終わった後に少し嫉妬して彼女に冷たい態度をとるけれど、結局セックスした後に、「君だけを僕は見てるよ」なんて言葉を言っていたけれど、結局そのあとすぐに浮気をするのよね。でも、きっとその言葉は、その時の彼の心の奥底から出た言葉だったけれど、あなたの言うように心というのは風が吹くだけで変わってしまうような軽いものだから、彼自身、それを嘘と捉えて無いのよ」


「でも、これじゃどうして主人公たちが浮気をしたのかの答えが出ていないな」


「出ているじゃない、つまり心変わりっていう事よ」


「いや、僕が知りたいのはそこじゃないんだ。もちろん浮気ってのは半分は心変わりから来るものだろう。いや、半分なんて量じゃないかもしれない。でも、そこには必ず、心変わり以外の何か別の感情があるはずなんだ。たとえ99%が心変わりだとしても、残りの1%には必ず。僕はそれが知りたい。心変わりの、その裏にある無意識の感情、いや、違う。それは意識下の感情で、それを無意識が隠してしまっているんだ」


 本当の思い、心の深淵にある意識、そこにある本心に触れてみたい。


「あなたは本当の心は見えないものだと思っているの?」


 本当の心、本当に大切な事、僕はそういった感情は絶対に外に出さないと思っている。本当に好きなものは誰かに言うような軽いものではないのだと信じている。


「うん、ライ麦畑のコールフィールドがそうだったように、本当に大切なものは、誰かに言ってしまった瞬間に自分のものではなくなってしまうと思う。それはさっき僕が言った思想の話と少し似ているところがあって、自分が本当に大切にしている物は他人と共有したくはないと思うんだ」


「確かに、そういった感情は私にもあるわ。昔、この街の西にある小さい民家が経営しているイタリアンの美味しいお店があって、私は、よく家族とそこへ行って食事をしていたの。その店は私たちが行くときは必ずほかの客がいないか、いても一組くらいなの。私はそこの雰囲気がとても好きだったわ。秘密基地みたいで、私の子ども心を擽っていたのかしら。でもね、ある日、そこへ有名な俳優が来たらしくて、それから、その店はすごい人気が出ちゃって、結局もっと大きな場所で店を開くことになってしまったの。それから、私はその店に特別な感情が抱けなくなってしまったわ。まるで秘密基地が秘密じゃなくなっちゃったみたいにね。本当に好きなものは、誰かが好きになっちゃうと、どうでも良くなってしまうのかしら」


 本当に大切な物、大切にしたい心、そういった物はきっと、誰かが知ってしまった瞬間に自分だけのものではなくなるのだ。それはみんなの心の一部になる。だとしたら、そういった感情は絶対に外へは出さないし、誰にも知られないように秘密基地へ隠すのだ。秘密なのだから。壊されてしまわないように。


「つまり、この主人公には必ず何か別の、誰にも知られたくない心の領域があるはずなんだ。それは例え思想や哲学と呼べる物を持ち合わせていない人であっても」


 言い終えた途端にチャイムが鳴った。五限目を知らせるチャイムだ。午後の休息に終りを告げる」ラッパだ。昼休みという世界が終わった合図だ。


「あら、もう時間ね。その考察はまた今度にしましょう」


こうして考察は終了した。ちなみに、この本の考察はそれから二度とされることが無かった。

                                    考察終了


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