彼女と僕の関係Ⅰ
彼女は静かに本を読んでいた。名前は須藤こと。図書室の絶対領域という異名を持つ白いワンピースと黄金色の田園風景が似合う、そんな女の子だった。僕と彼女は小さいころ近所の民家がやっていたフラッシュ暗算の塾に通っていた。ただそれだけの関係。小学校で話すわけでもなく、僕らはいつだって他人だった。彼女が僕のことを他人だと思うように、僕もまた、彼女のことを他人だと思っていた。それを強調して生きてきた。片田舎の小学校に通っていた僕は、彼女を特別意識することもなく、そして、中学生になってもその状況は変わらなかった。僕らの街には高校が一つだけある。ほかの高校はかなり離れた街にあるから、ほとんどの人間がその地元の高校に通う。だから、僕と彼女は高校でも同じ距離を保ち続けていた。
彼女は静かに本を読んでいた。高校三年生の春、僕は、たまたま暇だったから、本当に何も考えずに、その日図書室に入ったのだ。何故、その日で、彼女が僕の知っている本を読んでいたのか、そして、なぜ、僕がその日、彼女に話しかけたのか、気まぐれなのか、神の悪戯なのか、何だかよくわからないが僕の中の何かが彼女に話しかけろと言ったのだ。それから、僕らの距離は少しだけ変化して行く。
文字を追う目が僕の目と合った。少し驚いたような顔をした彼女に僕は、変な作り笑いをして話しかけた。
「その本、僕も読んだよ」
彼女は何も言わなかった。だから、僕が何かを言わなくてはいけなかった。
「まさか、どっちも二股してるなんて思いもしなかったよ。だから、その小説は二回読んだんだ」
彼女の顔が一気に曇った。その瞬間僕は何かをやらかしてしまったことに気付いた。それから何秒かかかって、それが今世紀最大の過ちであるということを悟った。どうして、話しかけてしまったのかを呪った。僕は人を不快にさせることがあまり好きではない性格だから、とてつもなく後悔した。僕が話しかけなければ彼女と僕は他人のままで、良い感じで何も干渉し合わずにお互いの道を歩む予定だったのに、僕の無神経な言動の一つで、人生の糸が複雑に絡まりあってしまったのだ。それも最悪の形で。嗚呼、どうしてくれよう。彼女の機嫌を直すにはどうしたら良いだろうか。平謝りするか、しかし、僕も経験があるが、他人から謝られても不快に感じるだけだ。しかし、無言でここを立ち去ってもあまりいい気がしないだろう。彼女にとっては、未読の本の楽しみを取られ、さらにその元凶は無言で私の目の前から立ち去るという状況だけが残る。なんて性格の悪い人間なのだと思われるだろう。殺したくなるほど憎まれるに違いない。ならば逆に話し続けるという手はどうだろうか。相手が耐え切れなくなって席を立つか僕を怒鳴りつけるまで話し続け、どうして怒っているのか理解できないような素振りでこの部屋を出る。そうすれば、彼女は悪意があったわけではない事だけは理解してくれるのではないだろうか。しかし、彼女がヒステリックを起こし、僕をどこまでも追ってきて騒ぎを起こし、僕を刺し殺す可能性も考えられるだろう。昨今の世の中では一人で歩いているだけでも後ろから刺されてしまうような時代だ。そうなってしまえば、僕は死ぬし、彼女は僕の所為で一生の罪を背負わされてしまうのだ。そんなことさせるわけにはいかない。ならば、逆に彼女をここで刺し殺してしまおうか。そうすれば、僕は彼女に罪を着せることなく、僕だけが悪者になれる。どうだろうか。いや、ダメだ。それでは、彼女の機嫌は治っていない。むしろ、機嫌を損ねたまま昇天されてしまうことになる。それは、僕が機嫌を治したわけでなく、あくまで仏が彼女を楽にさせたことなので、この手はあまり良くない。それに、僕への怒りの念があったままでは昇天できずに現世にとどまり続ける可能性だって考えられるではないか。
こうなってしまっては仕方がない。潔く撤退するとしよう。ただ、何も言わずにこの部屋を出るのは惜しい気がした。こんなにも彼女のことを考えてあげたのだから、一言ぐらい口をきかせてほしいと思ったのだ。
「悪い、邪魔した」
僕はそう言い捨てると、無表情のまま出口へ向かった。彼女の顔など二度と見るものか、という勢いで足早に歩いた。この部屋を出てしまえば、彼女は僕を憎むだろうが、そんな憎悪は今日の夕食を食べるころには忘れてしまっているだろう。話は変わるが、食事というのは人に幸福を与えてくれる事だと僕は思う。この国の神聖な土から生まれた植物たちは、その身を赤く太らせ成熟する。稲穂は黄金色に色付き、それらが西からの風に煽られ、田園に風の影を落とす。秋には収穫された食物は世の主婦たちの左手にわたり、彼女たちはそれを右手に持った短刀で切る。彼女たちが何年もの間に培った味付けをし、時間をかけて煮る。焼く。蒸す。オリーブオイルで炒める。ここでダシ入りの味噌は使わず、鰹節か昆布でダシを取ってもらいたい。無論、C5H9O4やC10H13N4O8Pを生成してもらっても構わない。とにかく、何が言いたいのかというと、僕は、素材の味を楽しむ、という料理が一番嫌いだということだ。あれは料理ではない。
そんなこんなで僕は少しだけ背後に気を付けながら出口5*10^6μmの位置まで迫っていた。その時だった。僕の背後で声がしたのだ。正式には、後方にある声帯から発せられた振動が空気中を伝って僕の鼓膜を振動させていた。それが何と聞こえたのか、鼓膜から脳へ電気信号が伝わり、それを脳が処理し、僕が理解できる言語へ変換するまで一秒はかかっていないと思う。その振動は僕の鼓膜をこのように揺らしていたのだ。
「私は三回目よ」
と。
それは気持ちの良い昼下がりでは無かった。春にしては肌寒かったし、日も三割程度しか照っていなかった。そんなどうでもいい昼下がりの静寂、僕は自ら静寂を作り出していた。
「どうしたの?」
その声が僕の精神を現世に再臨させた。どうしたもこうしたもない、僕は単純に驚いていたのだ。怒涛の罵倒で僕の精神を破壊する気満々の人が、私は三回も読んだ、という僕が何の得もしない情報を伝えてきたのだから。脳が追い付かなかった。ちなみに、人間は脳が追い付かない状況に直面すると笑ってしまうらしい。だから僕も笑った。三回ぐらい鼻から息を抜く型の笑いだ。鼻笑いのことだ。
「いや、てっきり怒られるのかと思ったよ。まだ一回も読んでない人に、その本の一番面白い部分をバラしてしまったと思って、凄い焦った」
僕は、愛想笑いのようなものをした。そうして、彼女の様子を息を呑むように観察した。
「大丈夫よ、私、ネタバレされても気にしない性格だから。それぐらいで怒ったりしないわ」
どうやら、上げて落とすタイプの怒り手ではないらしい。そもそも本当に怒っていないようだった。彼女は笑っていた。やさしい笑顔だった。彼女が笑っているのを見たのは初めてだったから少し新鮮だった。その笑顔をみてもの凄く安心した。まるで母親に怒られた後におばあちゃんが慰めてくれるような、そんな安心感だった。
「本は好きなの?」
「まぁ、そんなには読まないかな。僕の兄貴が大学で文学を専攻しているから、兄貴の部屋にたくさん本があって、それをたまに読むくらい。それで、その本も兄貴の部屋にあったから読んだだけ。すごい面白い本だったから誰かと話したかったんだけど、僕の友人たちは、そういう高貴な趣味は持っていないような連中ばかりだからさ。それで、今日たまたま図書室に来たら、たまたま君が僕の知っている本を読んでいて、それでつい話しかけてしまったという具合なんだ」
安心すると雄弁になる人間の性質に則って、僕は兄貴が文化を構想する学部に行っているという要らぬ情報まで早口で言ってしまった。兄貴には申し訳ないが、個人情報流出の件に関しては許してもらいたい。
「そうなんだ。お兄さん、文学部に通ってるのね」
厳密には文学部ではない。文化を構想する学部なのだが、まぁ、そんなことまで彼女に教えるのは野暮だろう。
「ねえ、今までで、この本の他にどんな本を読んだの?」
「そうだな、最近だと黒田源九郎の『タコの下』とか、戸谷幸太郎の『白い抜け殻』とか、能川恭子の『電気鯨のスカーフ』、『孤独の無花果』、安食交錯の『日本国憲法が崩壊した日』とか、奈良岡作品は全部ではないけど、かなり読んだな。洋書だとC.S.Marshallの『とある錬金術師の秘宝』、Thomas Locke『屍の王国』とかかな」
「そう、色々なジャンルの本を読むのね。今言ってもらった作品は、私もほとんど読んだわ。さすがに安食交錯は読んでないけど」
本好きとは言っても、さすがに新書まで読む人はいないだろう。
「ねぇ、あなたもこの本読んだんでしょう? だったら私と考察しない? 理系なら得意でしょ? 考察」
驚いた。僕が理系だと知っていたのか。僕は彼女が何系なのか知らないけれど、彼女は僕を理系だと知っていたのか。
「何で僕が理系だって知ってるの?」
「え?」
彼女は不思議そうな顔をした。
「あー、何となく、そうなのかなって思っただけ。話し方とか」
おお、凄いな、僕の言動で理系だと推理したのか。大した頭脳の持ち主だ。
「そっか、須藤さん、頭いいね。ちなみに、理系の考察は結構前降りが重要なんだ。例えば、何かの実験をしてその結果に基づく考察をしたとすると、まず初めに、その実験の目的、その次に実験方法、実験で使用する器具の名称を書いて、その次に結果、そして、最後に考察という順番で書かないといけないんだ。考察の後には、しっかり参考文献も書かなくてはならない。そういう決まりなんだ」
「へぇ、やっぱり理系は大変そうね」
感慨深そうに頷いた。
「ということで、理系の考察のルールに従って、僕らも考察してみようか」
「いいわ、まずは目的からよね」
そうして、僕らの小さな考察会が始まった。




