恐怖と魅力
俺たちが、もうすぐ町の名前が書いてある看板に差し掛かろうとしていた時、唐突にそれは現れた。
「バフォオオオオオオッ!!」
「……へっ?」
そんな間抜けな声が出たが、それは俺が出したのかそれともアフィが出したのか、そんなことも分からないぐらい俺たちは突如として現れたモノに呆気にとられていた。
現れたのは、熊のような巨大な体躯、威圧感を放ち避けた上顎を強調するような口元。そして、禍々しさを感じさせる角。その姿を見た瞬間にぶわっと汗が噴き出てて、足がすくむ。
これまで感じたことのない類の圧倒的な恐怖が全身を襲った瞬間だった。
「……バフォモス」
アフィの口からそんな言葉が漏れる。
「アフィ、アフィ!!…あれは、なんだ?」
目の前の相手に気付かれないようにできるだけ小声で話しかけるとアフィも小声で答える。
「…あれは、バフォモス。この世界に存在する魔物の一種だよ」
先ほどまでのお茶らけた雰囲気を感じさせないことから目の前の化け物の脅威が感じられる。どうする?どうすればいい?
「……合図を出したら一斉に逃げる。いいね?」
そんな逡巡が伝わったのか、アフィが呟くが聞き取れた。すぐさま小さく頷き、化け物に集中する。幸いにも叫んだ後は放心したかのようにその場に留まっているし、今いるのは町の近くだ。走ればこちらの方が早く逃げ切れるだろう。
しかし、その考えが甘かったことはすぐに思い知らされた。
ドンッ!!という音ともに、化け物が視界から消え化け物がいた場所は地面が砕かれ、陥没してしまっている。
今しがた砕かれた大地の破片が未だに空中を漂い自然法則に基づき落下していくのがはっきりと確認できる。
「逃げろっ!!」
その光景に見いっていた俺の耳にアフィの声が届く。ハッとなって後ずさり始めると、上から黒い影がどんどん迫ってきていた。恐る恐る見上げると、先ほどの化け物が今にも踏み潰さんと落ちてきているところだった。
「うわぁぁぁっ!!!」
慌ててその場を飛びのいた直後ドスンという衝撃で体が浮き上がったかと思うと突風によって吹き飛ばされてしまった。
「ぐ、うぅ…」
「おいっ!無事か!?立てるか?」
「あ、あぁ…。何とか」
「じゃあ、行くぞ!」
ぐいっと引き立てられ、そのまま後ろを振り向くことなく町へ向かって走っていく。
……ハァ、ハァッ!
目の前に見えているのに、そこまでの距離が恐ろしく遠く感じられ、呼吸が乱れる。
「頑張れ!あともう少し、あの看板の所まで行けば安全だ!!」
隣にいるはずのアフィの声が、遥か遠くに聞こえ、離れている化け物の鼻息をすぐ後ろに感じる。まるで、死神が足音をたてながらが徐々に迫ってくるような錯覚を覚え、その恐怖から逃げられない。
ーー俺は、ここで死ぬのか?この世界に来て、まだ何も成し遂げてないのに…?
…イヤだ。イヤだっ!
「たすっ―――」
「――まったく、新入りを迎えに行くだけで面倒事まで一緒に連れて来ないでくださる?」
「ヴォオオッ!」
伸ばした手の脇を何かが通り抜けたかと思うと、化け物の叫び声が聞こえてきた。
「……へっ?」
その声を聞き、恐る恐るだが振り向いてみると額から煙を立ち上らせながら、頭を振っている化け物の姿があった。
「助かったよ。まさか、君が来てくれるなんてね」
何が起きたのかわからず混乱していた俺の耳に聞こえてきたのは、出会った時のようなどこかチャラチャラした調子を取り戻したアフィの声だった。
その声に導かれるように、伸ばした手の先を見ると、傘を銃のように構えた金髪の女性が立っていた。まるで風がふわりと吹いただけのように今の状況をものともせず、佇むその姿は陽の光を浴び、輝いていた。
「もうっ!いったい何をしてらっしゃいますの、アルタフィルさん?」
「いやぁ~、面目ない。実は、魔力切れでねぇ……」
申し訳なさそうな、アフィだが彼もすでにこの状況を危機とは感じていないよう二人の調子に俺も毒気を抜かれ、その場にへたり込んだ。
「バルルルァァァ!!」
無視されたことに腹を立てたのか、化物が吠える。
「……うるさいですわよ?この駄牛!」
眉をり上げた女性が瞬時に化け物の前に移動し、頭部を傘で叩く。
たまらず、化け物もくぐもった悲鳴を上げながら、頭を揺らす。
「ほんっとに、面倒ですけどワタクシこの町を代表する冒険者にして、代表クランの盟主でもありますの。あなた如き醜い獣に負けてあげるほど、優しくはなくってよ?」
彼女は、そのまま傘の先端を化け物に向け、引き金を引いた。
傘から色とりどりの光の球が飛び出し、化け物を襲い始める。
「ヴァァァ…!!」
「あらあら。この程度で痛がっていてはワタクシが楽しめないじゃありません?もっと粘っていただかないと」
呆れたように呟き、腰のポーチから何やら筒状のものを取り出した。それが一体なんだったのかはわからないが、鼻歌混じりに傘の内側に入れていく。
「さぁ、お祭りの開始ですわ!!」
そこからは、一方的な戦いが始まった。
先ほどよりも威力が上な攻撃がどんどんと化け物の身体に吸い込まれ、爆発が起こる。必死に回避しようと動き回るが、それを読んでいたかのように先回りし、逃げてきた先には傘本体を叩き付ける。
そんな戦いが始まってから約十分。
「ウガァァァァッ!!」
突如として、化け物が立ち上がった。
……ていうか、立てたのかよ。
「…なぁ、アフィ。あいつ、なんで今まで立たなかったんだ?」
「……あぁ、たぶんだけど支えきれないからじゃないかな?」
「何を?」
ほれっと言うように指し示された足元を見ると、あの巨体に似合わない細い脚が見えた。あの熊のような体躯のくせに、脚の方はどちらかという牛に近いらしい。なんてアンバランスな生き物だ。
しかも、よ~く見てみるとプルプルと震えている。どんだけ無理して立ってるんだ。
「あらあら、イタチの最後っ屁ってやつかしら?どちらかという子供が拗ねて頬を膨らませているようにも見えますけれども」
うっわぁ~、あの人。性格わっるいなぁ……。
くすくすと笑いながら、子供がやんちゃして困っている母親のような表情をしている。
「さて、最期の悪あがきをしている子供を宥めるのなんて簡単なことですけれど…」
んっ?今、こちらを見たか?
何やらちらっと振り返ったような気がしたが、気のせいかな?
「丁度、新人の方もいらっしゃることですし、私の最大の技をお見せいたしましょう」
あぁ、やっぱり俺を見てたのは気のせいじゃなかったらしい。楽しげに先程のポーチから赤い筒を取り出すと、再び傘の内側に入れていった。今度は広げた状態だったので、先程は見えなかった行動の意味が見えたがどうやら骨組み部分に固定してあるようだ。
「……さぁ、準備完了ですわよ。これをどう対処なさるのか、あなたの意地を見せてくださいませ」
にこやかに、まるでダンスの誘いでもするようにスゥッと傘を向け、
「“火精の誕生祭”」
呟くように告げられた言葉の後に、まるで太陽の欠片が飛び出したような炎の塊が化け物にぶつかり、大きな爆炎を上げる。
化け物も「ガァァァ!!」という叫び声を上げると沈むように崩れ落ちた。その化け物の体は上体の左半分と顔を大きく削られていた。
「これで、一件落着ですわ」
後に残されたのは、傘の先端から硝煙を上げながら優雅に笑みを浮かべて佇んでいる彼女の姿だけだった。
その姿はどこかいたずらっ子のようでとても美しかった。この世界で体験した初めての恐怖。それをあっさりと解決した女性。来て早々にこんな大変な事態に巻き込まれたというのにこの世界も悪くない。そう感じ始めている俺がたしかに存在した。