幸の泡
玄関の引き戸を開けた途端、中にこもっていたもわっとした熱い空気が押し寄せた。
何度おとずれてもこの感覚には慣れなくて、私は吐き気を飲み込んだ。
この瞬間が来るたびに、この家が失ったものに改めて気付かされる。
母がいた頃は、私がバイトから帰る夜の十時には、当たり前のように家に明かりがついていた。こうやって扉の向こうに洞穴みたいな暗闇を眺める必要はなかったし、こんな風に夏の夜の熱気に襲われて喘ぐこともなかった。いつでも家の中の風通しはよくて、熱帯夜も今ほど不快じゃなかった。
居間の電気をつけ、庭に面した窓を全部あけて網戸にすると、私は仏壇の前に座った。手を合わせて、母の霊前に大学やバイトでの出来事を報告する。もう一年になる日課だった。
「ただいま」
そうして静かな時に浸っていると、玄関の引き戸が開く音がした。父だった。
「おかえり」
私は義務的なあいさつを送る。
居間に現れた父は、あからさまに疲れた顔をしていた。白髪混じりの髪の分け目は乱れ、小さな目もしょぼしょぼしている。持っていた背広や鞄を畳の上に下ろすと、父は返事代わりに溜め息を一つついた。
「ごはんは食べたのか」
「……バイト先で食べた」
「……そうか。父さんも、食べてきたから」
私は立ち上がった。だるい声を聞いていたら、急に部屋に行って横になりたくなった。話したいことも特別なかった。
私と入れ替わりに父は仏壇の前に座った。手に何か持っているのが見えた。
――父とはあまり話をしたことがない。
母がいた頃からそうだった。仕事や接待で土日も走り回っていた父は、私にとって重要な存在ではなかった。家にいても一人で囲碁などしていて、関わってくる様子もなかった。
母が死んで何か変わると思ったけど、それは同じだった。母がいなくなったことで、その隙間はやけに目立つようになった。
居間を出ようとした時、チーンとおりんの鳴る音がして私は振り返った。
「なんで鳴らすの? お母さんを起こしちゃうから、夜は鳴らすのやめようって言ったじゃない」
呆れて声を上げた私を父が振り返った。
「――今日はな、結婚記念日なんだ」
父の背中越し、母の写真の前に白い箱が置いてあるのが見えた。
「だからケーキ、買ってきた。一緒に食わんか」
手を合わせて一度拝むと、父は箱を仏壇から下ろした。
「母さんも起きたかな。三人で食おう。ちゃんと三つあるんだ」
三つ。
何かが胸の中ではじけて広がった。
皿とフォークを三つ持ってきて、父はケーキを取り分けた。苺のショートケーキが二つとチョコケーキが一つ。
苺のショートを母の前に供え、そしてちゃぶ台の前に座った私にチョコケーキの皿を押し出した。
「お前、生クリームだめだもんな」
私の中で泡が次々に浮かんでははじけた。
そんなこといつ言っただろう――今までの数少ない会話の中で。
「ひさびさの団らんだな」
そう言って父は自分のケーキを食べ始めた。
私は父のことをよく知らない。
こうやって記念日を覚えている人だということも、私や母のことをどう思っていたのかも。
母という灯が消えたこの家で、私は初めて小さなぬくもりを感じた。
幸せは本当はいつも側にある。だけど私達はそれを大きさで計ってしまう。だから泡沫みたいな小さな幸せは見過ごしがちだ。それを繰り返し、繰り返し、生きている。
でも時々幸運なことに、その小さな泡がはじける前に気付けることもある。
「たまに食うとうまいな、ケーキも」
まじめな顔で父が言った。
それに小さく笑って、私もフォークを取った。
とある出版社様から審査員特別賞を頂いた短編を、一部改訂しました。
この幸運も読んで下さる皆様のお陰です★まだまだ遠い夢への道のりですが、今後も頑張って行きたいです。