ザ・トーキョー・ブルース
コートの暖かさと風の冷たさを感じながら歩いていると、どんどん人が通り過ぎる。みんなはどこへ帰るのかなと考える。私、今日はおでかけをするよ、と小さい声で言ってみる。冬がくると、クリスマスやお正月のことを少し考える。去年までは学生だったけれど、今年は社会人だ。どうやって冬を過ごしたらいいのか、よくわからない。でも、今日はでかけるところがある。それだけは嬉しい。
店が近づくと、うっすらと音楽が聞こえてくる。何の曲かな、と考えながら歩いていると、だんだんその音が確かなものになって、ドアを開けた瞬間の、全身を音で迎えられる状況がたまらなく好きだ。店員がこんばんは、と言う声に我に返りながらも、すでに気持ちがどこか「ふわり」と浮かんでいる。店員に挨拶をして、カウンタの席に座る。先に来ていた友人の隣には山下さんがいて、二人とも真剣な顔で話をしている。山下さんは私に気づくと、笑顔でこんばんは、と言い、友人に「それじゃあ、またあとでね」と言って席を立った。
「何を話してたの?」
私が友人に尋ねると、友人は、恋の話、と言った。最近、気になる人がいるらしい。ふうん、と言うと、みっちゃんの方はどうなのよ、と友人が言った。
「いや、別に。何もないよ」
「東京の彼とはどうなのよ? 会いに行かないの?」
「行かないよ」
「どうして?」
「東京に行きたくないから。それに、彼はそういう仲じゃないのよ。ただの幼馴染だから」
友人は納得がいかないという顔で私を見た。店員がおしぼりをくれた。私はジンジャーエールを注文した。
「みっちゃんはさあ、恋人が欲しいとか、恋がしたいとか、思わないの?」
「うん」
「なんで?」
「なんでかな。そういう欲求が湧いてこないのよ」
「それはさあ、東京の彼がいるからじゃない? 心のどこかで彼がいるから別にいいもん、とか思っているんじゃない?」
「そんなことはないと思うけど」
「でもさ、どうする? 彼に彼女ができたら」
「どうもしないよ」
「本当に?」
「本当に」
店のマスターがジンジャーエールと氷の入ったグラスを私の前に置いた。たぶんこんな会話をしている私たちのことは幼いとか思っているのだろうな、と思いながら、私はジンジャーエールをグラスに注いだ。友人は私のグラスに自分のグラスをくっつけた。かちん、と音がした。そして、久しぶり、と言った。私も、久しぶり、と言ってジンジャーエールを一口飲んだ。友人は白ワインを飲んでいた。一口飲んで、ふう、とため息をついた。何か考え事をしている顔のまま、ぼんやりと言った。
「去年のクリスマスはジャズ研のみんなでさ、ケーキ食べたよね。今年はみんな彼氏と過ごすのかなあ」
「そういう子もいるだろうね。今考えると、ジャズ研の子はみんな美人だった」
「みっちゃん、羨ましいとか思わない?」
「別に。でもケーキは食べたいな」
「ケーキはいつでも食べられるじゃない」
友人は呆れ顔で言った。私は笑ってごまかした。店の照明が暗くなり、流れていたCDもフェードアウトした。山下さんが大きな体を揺らしながらステージに立ち、大きなベースをひょいと立てて音を鳴らした。ピアニストとドラマーも自分の場所に座り、小さく音を鳴らして、椅子の位置を調節した。ピアニストが小さな音で確かめるように音を出し始めて、それにベースが応えて、ドラムの音が響いた。もうひとつの、私の好きな瞬間だ。曲を聴きながら、客席を見るのが好きだ。いろんな人がいる。一人で来ている人もいれば、カップルの人たちもいる。あの人たちはどんな思いでここにいるのだろう、と考えるのが好きだ。そして、山下さんの姿を見ているのが好きだ。そうか、私は山下さんのことが好きなのかもしれない、と思った。でも、これはマジックにかかっているだけかもしれない、と思い直した。照明と、音楽と、タバコの香りに酔っているせいかもしれない、と思っているうちに曲が変わる。ここのところ、いつもそうだ。ライブに来ているのに、考え事をしに来ているような気がする。気がつくと、最初のステージの終わりを告げるブルースが流れていた。照明が明るくなり、客がざわざわとしだして、店員は注文を聞きにあちこち歩き回る。私は友人と話をする。友人は、今度は私にその「最近気になる人」について話してきた。でも、話を聞いていると、どうも気になる人ではなくて、すでに恋人のような雰囲気がする。
「もしかして、もう付き合ってるんじゃないの?」
友人は、うーん、と言ってしばらく黙っていたが、そうなのかな、と言った。
「だって、その人の部屋に行って、一緒の布団に入ったりしてるんでしょ?」
「それはそうなんだけど、なんだろう、確かなものがないのよ」
「それは、その男の人が不特定多数の人と付き合っているってこと?」
「まあ、そんなところかな」
私は信じられない、と言ってジンジャーエールを一気に飲んでむせた。
「なんでそんな人にひかれちゃうの? 意味わかんないよ、ねえ、マスター」
私は思わずマスターに問いかけた。マスターはニコニコして、どうだろうね、と言った。
「世の中よくわからないよ、ほんと最近おかしいよ」
「最近のことじゃないよ、世の中はいつもどおりで、みっちゃんが知らなさ過ぎなだけだよ」
友人はそう言ってタバコを吸った。あれ? いつからタバコなんか吸っているの? と私は聞くタイミングを逃してしまった。
「それにみっちゃん、探偵社で働いてるんでしょ。そんなところにいたら、社会の表も裏も丸見えでしょ。なのにどうしてそんなピュアな気持ちでいられるの?」
「いや、全然ピュアではないよ。あんなところで平気な顔して働いている時点で腹黒いよ、腹黒みっちゃんだよ」
私が笑うと、友人は、腹黒みっちゃんかあ、と言って笑った。笑っていると、山下さんがやってきて、誰が腹黒いの? と言った。
「みっちゃんがね、探偵社で働いているから腹黒いんだって」
それとこれとは別でしょ、と山下さんは言って私の隣に座った。
「僕、一度お金持ちのお嬢さんと付き合ってたことがあったんだけど、探偵に尾行されたよ。素行調査っていうの? ああいうの」
「ああ、そんな相手にバレバレなのは探偵とは呼べないですよ。もしかしたら脅しでわざと尾行しているのを見せたのかもしれないけど」
へえ、そんなもんなんだ、と言うと、山下さんはマスターが出した水を一気に飲んで、もう一杯ください、と言った。マスターはグリーンのガラス瓶から水をグラスに注いだ。山下さんはまた一気に飲んだ。
「そんなに喉渇いてたんですか」
水、大好きなんだよ、僕、と山下さんは言って笑い、他のお客さんにもご挨拶に行ってくるよと言って席をたった。私がしばらく山下さんの動向を見ていると、友人が私の椅子をくるりと回して自分の方に向けた。
「みっちゃん、もしかして、山下さんのこと好きなの?」
小さい声で私に聞いた。私はしばらく考えていたが、ちょっと好き、と小声で言った。
「山下さん優しいけど、けっこうオジサンじゃない? 年も離れているし」
「いや、それは別に問題ないけど、でも、ちょっと好きなだけだよ。二人きりになりたいとか、いやらしいことしてほしいとか、そういうことは考えてないよ」
「それはウソだね」
「うそじゃないよ」
私はしばらく考えた。山下さんとデートする姿とか、いやらしいことをする姿を想像してみようとしたが、イメージが湧かない。
「じゃあやっぱり東京の彼のことが好きなんだ」
友人に言われて、今度は幼馴染とデートする姿とか、いやらしいことをする姿を想像した。これは案外簡単だった。でも、友人には黙っていた。
「私はたぶん自分の感情について鈍いんだと思う。未熟な腹黒みっちゃんだよ」
何の話? と今度はピアニストの男性が隣に座った。私は、内緒の話です、と言って適当に笑った。ピアニストの男性は、ふーん、と言ってしばらく私の隣にいた。私は友人が二本目のタバコを吸うのをじっと見ていた。
「吸ってみる?」
友人に言われて私は首を横に振った。どんなの吸ってるの? とピアニストが体を乗り出して友人に聞いた。友人は私にタバコを渡した。私はそのタバコをピアニストの前に置いた。
「ふーん、女の子がよく吸っているやつとは違うんだね。彼氏の影響?」
友人はどうでしょうね、と笑った。私はピアニストからタバコを奪い、友人に返した。ピアニストは、席を立って自分のテーブルに戻って行った。
「みっちゃん、感情丸出しは駄目だよ。いくら嫌いな人でも」
「私、あの人のこと嫌いじゃないよ」
「またまた。山下さんの時と全然違うじゃない、態度が」
「そうだった?」
やっぱり鈍いわ、と友人は笑った。
「もっとさ、自分の気持ちに耳を澄ました方がいいよ」
友人は、さらりと言ったけれど、私には何と重い言葉だろうと思った。人のことを考えている時間は多いけど、自分のことについて考える時間は少ないな、と改めて思った。友人は今、自分の感情の赴くまま、恋人と抱き合って、恋人と同じタバコを吸ったりしているのだろう。他のジャズ仲間もみんな、卒業して社会人になって、恋をしたり好きなことをしたりしているのかな、と考えると少し羨ましくなってきた。次のステージはずっとそんなことを考えていたので、何を演奏したのかまったく覚えていなかった。気がつくと休憩時間になっていた。私がぼんやりしていたので、友人は私の頭を撫でながら、大丈夫かな? と言った。
「ねえ、私、何かやった方がいいのかな」
「何かって?」
「こうやってジャズを聴くのは楽しいけど、こういうのって、受け身でしょ? だから自分から何か発信する作業みたいなもの。そういえばジャズ研の時はみんなで好きな曲をコピーして、それを演奏してお客さんに聴いてもらったりしていたでしょ。あれ、すごく楽しかった」
「そうだね。でも、ああいう大掛かりなことは、今はもう不可能でしょ。みっちゃんピアノ上手だったから、ジャズピアノを習うというのはどう?」
「僕が教えてあげようか」
びっくりして振り返るとピアニスト。
「厳しそうだから遠慮します」
「じゃあ誰に習うの?」
私はしばらく考えた。
「あのー、おひげのメガネの人とか」
ピアニストは、ああ、あの人ね、と言った。
「でもあの人のほうが遥かに厳しいよ」
「私には優しそうに見えますけど」
「人は見かけに寄らないからね」
ピアニストはそう言って去って行った。友人は笑っていた。何がおかしいの? と聞くと、私の肩に手を乗せて笑顔で言った。
「みっちゃん、やっぱりあの人のこと嫌いなんだ」
「そんなことないって」
マスターがクスクス笑っていた。
店を出ると冷たい風が吹いて、私は思わず友人と腕を組んだ。
「みっちゃんさあ、こういうのは男の子とするといいんだよ」
「今日もこれから会いに行くの?」
うん、と友人は頷いた。コートのポケットから携帯電話を出して、恋人に電話をしていた。楽しそうな横顔。じゃあ、あとでね、と友人は言って電話を切った。
「ねえ、そんなに仲良しならやっぱり恋人同士なんだと思うけど、違うの?」
違うと思う、と友人は言った。理由を聞くと、部屋の鍵を預けてくれない、向こうからは電話をしてこない、彼の部屋以外では会わない、そう言ったあと、しばらく黙っていた。友人の横顔を見ると、涙がぽろん、とこぼれた。
「ねえ、そんなに辛いなら言えばいいじゃない。鍵が欲しいとか、外でデートしようとか」
「怖くて言えない」
そう言って友人は私を抱きしめて泣いた。周りの人が興味深そうに私たちを眺めながら通り過ぎる。友人は声を出さずに苦しそうに泣いていた。そして私をぎゅっと抱きしめた。私はその間、何もすることができず、ただ、その体勢を保つのにせいいっぱいだった。しばらく泣くと、友人は私から離れて、バックからハンカチを取り出して涙を拭いた。ごめんね、と笑って私の頭を撫でた。
「みっちゃんはあったかいね。恋をしたらいいのに。きっと恋人はみっちゃんのことをもっと暖かくしてくれるよ」
友人はそう言って私と腕を組んで駅まで行き、私とは反対方向の電車に乗った。
家に帰ると、ちょうど母がトイレに行くため寝室から出てきた。
「遅かったのね。またジャズ?」
うん、と私が言うと、もう学校卒業したんだから、そろそろ落ち着いたら? 嫁入り前の年頃の娘なんだから、と言いながら母はトイレに行った。お母さん、私はまだ恋も知らない未熟な腹黒娘です、とつぶやいた。
翌日、仕事に行くと、探偵の皆さんが写真を熱心に選んでいた。何の件ですか? と聞くと、昨日の件だよ、と土本さん。
「ああ、だんなさんが変態ってやつですか?」
そうそう、と土本さんは言って写真を見せてくれた。薄暗いお店の中で、男性と思われる人たちが女装していたりゴム製のぴったりした着衣を身につけていたりしている。
「まあ、こんなのそれほど変態でもないけどね」
「私には十分変態に見えますけど」
「みっちゃんはお子様だからなあ。僕と同い年なんて思えないよ」
私が写真を見ていると、班長が私の頭を撫でて、みっちゃん、コーヒー頂戴な、と言った。
「俺から見たらみっちゃんも土本もお子様だ」
「どのへんがですか?」
土本さんが班長に聞くと、班長は、ふふん、と笑って、俺を見てわからんか? と言った。土本さんは、わかりません、と言った。
「土本は本当に本能だけで生きているな。もっと奥深いものを知らねばならんな。今のお前は獣だ」
ああ、獣だ、と他の探偵たちが言った。私が、どのへんが獣なんですか、と聞くと、班長はお子様には毒な話だ、と言って私の耳をふさいだ。
「それよりコーヒー頂戴な」
私は給湯室へ行って人数分のコーヒーを作った。土本さんが来て、換気扇のスイッチを入れると、私の横でタバコを吸い、煙を換気扇に向けて吐いた。私がお盆にコーヒーを乗せると、俺が持ってくよ、と土本さんがお盆を持った。土本さんはとても気が利く。私よりも気が利く。こんな人のどのあたりが獣なのだろう。席に座ると、探偵たちは報告書をプリントアウトして、製本していた。今日、依頼人が報告書をとりに来るのだ。私はすることがなくなって、引き出しからチョコレートを出して食べていた。隣から視線を感じるので、見ると、部長が手を出している。私は部長の小さな手にチョコレートを二個乗せた。
「ああ、みっちゃんだめだよ、部長は糖尿なんだから」
「いいのいいの」
部長はありがとね、と言い、チョコレートを食べながら出来上がった報告書を読み、よし、合格と言って立ち上がった。
「それじゃ、行ってくるね。みっちゃん、おいしいお茶持ってきてね」
部長は報告書を持って社長と依頼人が待つ社長の部屋へ行った。私は湯飲みを棚から取り出して三人分のお茶をいれた。社長の部屋に行くと、部長が今回の調査結果を説明していた。依頼人である女性は、報告書を手にしていた。お茶を置くと、小さい声でありがとうと言ったが、報告書を持つ彼女の手は震えていた。事務所に戻ると、みんなはでかける準備をしていた。
「また素行調査ですか?」
「うん、いつものやつ。土本は部長の運転手だからは留守番だけどね。みっちゃん、土本に襲われないように気をつけろよ」
班長は笑いながら出て行った。そのあとに他の探偵がついて出て行った。私と土本さんだけになり、静かな事務所になった。土本さんは漫画雑誌を読んでいた。何読んでるんですか? と漫画を見ると、ちょっといやらしいシーンだった。あわわ、と私が言うと、土本さんは、ああごめんごめん、と言って雑誌を閉じた。
「土本さんは、どうして班長から獣なんて言われてるんですか?」
「わかんない?」
私がわからないですと言うと、土本さんは私の顔を見て、うーん、と考え込んだ。
「大変失礼な質問かもしれないけど、みっちゃん、処女でしょ」
私は一瞬ひるんだけれど、うん、と頷いた。土本さんは、やっぱりね、と言った。
「みっちゃん、僕のこと優しい人だと思ってるでしょ。でもね、これは別に善意の優しさじゃないんだよ。女の子に好かれたい僕の気持ちが勝手にこうさせているんだよ。だから下心ありありの優しさなんだよ」
「ホストみたいですね」
「うん。僕もそう思う。でも探偵の方が楽しいから探偵やってるんだ。探偵ってね、技術や努力や根気の他に野生のカンが必要なんだよ。だから社長は僕を雇ってくれたし、みんなも僕を一人前の探偵にしようと、面倒見てくれている。こんな女たらしの僕をね」
土本さんは立ち上がって給湯室の換気扇のスイッチを入れると、タバコを吸った。
「土本さんは、女たらしなんですか?」
土本さんは、うん、と言った。恋人がたくさんいるんですか? と聞くと、今は六人、と言った。じゃあ、エッチなことした人数は、と聞くと、数えてられないよ、と言って笑った。
「だから、みっちゃんは僕みたいな男には惚れてはいけないんだよ。みっちゃんは、もっと、みっちゃんだけを見てくれるごっつい男と付き合う方が幸せになると思うよ」
「ごっつい男ですか」
「部長みたいな人とかいいよね、部長の若いバージョン。でも部長も若い頃は色々あったみたいだけどね」
「みんないろんなことがあるんですね。私何もなくて恥ずかしい」
「そこが良いじゃないか。未来いっぱい、選び放題だよ」
土本さんは笑った。私はうーん、と考えた。
「選ぶべきものがそこにないんです」
「じゃあ、まだその時期じゃないんだ」
土本さんはタバコを吸い終わると、席に戻って漫画雑誌の続きを読み始めた。部長が戻ってきたので私は湯飲みを下げに行った。戻ってくると、部長と土本さんがでかける準備をしていた。車出してきますと言って土本さんは先に出て行った。部長はゆっくりと手袋をはめて、マフラーを巻いた。
「ちょっとおでかけしてくるからね。ケーキ買ってくるからね」
部長はそう言って出て行った。
しん、となった事務所で、私はすることがなくなったのでインターネットで昨日行ったお店のサイトを見た。スケジュールを見ると、ひげのメガネのピアニストが出る日は来週一度ある。私は来週彼の演奏を聴いてから、弟子入りするか決めようと思った。友人に、この日の予定をメールで聞くと、すぐに返事が届いたけど「ごめん、予定アリなんだ」と書いてあった。彼と会うのかな? とか考えたら、少しさびしい気持ちになった。私も恋をした方がいいのかな、と思った。東京の幼馴染は今、何をしているのかな、と考えた。東京で働くのはどんな気持ちかな。彼は恋をしているのかな、と考えた。彼が他の女の人といやらしいことをしていることを考えると、少し嫌な気持ちになった。今度は自分と彼の場合で想像してみた。彼にキスをされたらどんな気持ちになるだろう。彼に服を脱がされたらどんな気持ちになるだろう。裸を見られたらどんな気持ちになるだろう。触られたら、気持ちいいのかな。私は土本さんが置いていった漫画雑誌を読んでみた。いやらしい漫画を読みながら、自分が彼と同じ事をしたらどんな感じかな、と考えた。でも、考えるだけでは全然リアルじゃないから、よくわからない。それに、そういう欲求が、ない。私は部長が早く帰ってきてケーキを食べたいなと思った。
二時間ほどして部長が帰ってきた。土本さんは班長たちの調査に合流したらしい。部長はケーキが入った箱を私に渡すと、甘い紅茶が飲みたいねえ、と言った。私はお湯をわかして部長のために紅茶を、社長のためにコーヒーを作り、自分にはお茶をいれた。
「ちょっと社長と話があるから、僕は社長と一緒に頂くからね」
そう言って部長は社長の部屋に行ってしまった。私はケーキと紅茶とコーヒーを社長の部屋に持って行って、一人でケーキとお茶を頂いた。なんだかさびしいな。誰かと食べた方がおいしいのに、と思った。
結局、その後社長と部長はでかけてしまい、私はまた一人ぼっちになってしまった。六時になったので事務所を閉めて外に出た。今日も寒い。どんどん冬になる。ちょっと暖かくて明るい場所に行きたいなと思ってCDショップに寄り道をした。ジャズのコーナーで視聴版をある限り聴ける限り聴いてしまおうと思い、ヘッドホンをして地蔵のように固まっていると、三枚目のCDを聴いている途中で誰かが私の肩を叩いた。振り返ると昨日のピアニスト。何か言っているけど、聞こえない。私が「は?」と言うとピアニストは私のヘッドホンを取り上げて、今帰り? と言った。私は頷いた。
「送って行くよ。俺、車だから」
「うち遠いですよ。ここから車だと一時間以上かかりますよ」
「そんなの構わないよ」
それじゃあお言葉に甘えますと言うと、じゃ、行こうかと言って私の手を握った。私はその時変な感じがしたけど、気のせいだろうと思って彼の車に乗った。彼の車の運転は少々乱暴な具合だった。ああ、友人が言う通り、私はやっぱりこの人のこと嫌いなのかな、と今更思いはじめた。私は外の景色を見て、なるべく運転のこととか、ピアニストのことは考えないようにした。景色を眺めていたら、ピアニストが、みっちゃん、とさっきから呼んでいるのに気づいて、へ? と振り返った。
「みっちゃん、本当にジャズピアノ習うの?」
「まだ決定はしてないです」
「ジャズピアノ習ってどうすんの? プロになりたいの?」
「いや、そんなことは考えてないけど……」
「かっこいいからジャズピアノ弾けたらいいなー、って感じならやめといた方がいいよ、特に彼に習うなら、なお更やめた方がいい」
「どうしてですか?」
私は少しだけ胃のあたりがムカムカしてきたような気がした。
「中途半端なのは良くないよ。それに彼はそういう人を受け入れないよ」
ああ、どうして私はこの人に中途半端なんて言われなくちゃいけないの? と思うと急に悲しくなってきて、鼻の奥が痛くなって涙が出てきた。ピアニストは車をとめて、大丈夫? と言った。私がシートベルトを外して車から降りようとすると、ピアニストは私の腕をつかんでキスをした。私はびっくりして体が固まってしまった。ピアニストの舌が私の口の中に入ってきて、胸をぎゅっとつかまれたところでやっと体に力をいれて彼の肩をつかんで押し返し、車を降りて走った。息が切れるまで走って、近くにあった公園のトイレでうがいをした。吐き気がしたけど、こらえた。鏡を見ると、何とも情けない顔の私。最低、と思わず声に出した。公園を出て大通りでタクシーを拾い、駅に行った。自販機で暖かいミルクティーを買い、すいた電車に乗って座席に座り、ミルクティーを飲んだらやっと落ち着いた。初めてのキスがこんなことになるなんて想像してなかった。私が想像していた初めてのキスは、東京へ行ってしまった幼馴染との優しいキスだった。舌なんて入れてこないし、胸もあんなに強くつかんだりしない。すべて予想外の出来事だった。また泣きそうになったけど、乗客が何人かいたし、これ以上何のために泣くのかと思うと悔しくて泣くものかとこらえ、ミルクティーを飲んだ。でも、涙はじわじわと溢れてくる。仕方ないので目が痛い人という設定にして、ハンカチを両目にぎゅっと当ててしばらくじっとしていた。
翌週、ひげのメガネのピアニストさんの演奏を聴きに行った。ピアノトリオにトランペットとアルトサックスが入った五人組で、ひげのメガネのピアニストはとても軽やかにピアノを弾いていた。自分のソロ以外は、若いトランペットとアルトサックスの男の子を暖かな目で見守っていたり、ベースのお兄さんと目で合図したりしていて、ピアニストでもこうも違うものかと改めて思った。休憩時間、いろんなところからひげのメガネのピアニストは声をかけられ、おお久しぶり、元気だった? とか、いつもありがとねとか言う声が聞こえてきた。私は彼を目で追い続け、彼が一人になるのを待っていた。
「吉岡さんとお話したいの?」
マスターが聞いた。うん、と頷くと、大丈夫、彼、一回りしたらカウンタでコーヒー飲むから。みっちゃんの隣に座ってもらうようにするよ、と言った。そう言っているあいだにひげのメガネのピアニストはカウンタに来て、マスター、コーヒーちょうだい、と言った。マスターは私の隣にコーヒーを置いた。ヒゲのメガネのピアニストは「失礼しまーす」と私の隣に座って、コーヒーを飲んだ。私は、彼がカップを置くのを見届けてから、吉岡さん、と呼びかけた。ひげのメガネのピアニストは、はい、何でしょう、と言ってニッコリ笑顔で私を見た。
「吉岡さんにピアノを習いたいんです」
「ほんと? 嬉しいなあ。ちょっと待っててね」
彼は一旦カウンタを離れてメンバーたちのいるテーブルに戻って手帳を持ってきた。
「僕のレッスンはライブスケジュールによって変わるから、定期的にはできないこともあるけど、いいかな?」
もちろんです、と言うと、吉岡さんはオッケーオッケー、と言った。
「ちなみに、今月は日曜日に空きがあるんだ。第二と第四日曜日の朝十時だったらレッスンできるけど、どうかな」
「ぜひお願いします」
「じゃあね、これ僕の名刺ね。駅から近くだから迷わないと思うよ。今週の日曜日がちょうど第二日曜日だから、その時色々お話しましょう」
よろしくお願いします、と言うと、こちらこそ、と言って握手をした。大きな手だった。彼が自分のテーブルに戻るのを見届けて、私はほう、とため息をついてジンジャーエールを飲んだ。マスターは、緊張した? と言った。
「うん。でも、緊張した、というよりドキドキした」
それは良かった、とマスターは言い、コーヒーカップを下げた。
日曜日、吉岡さんのマンションに行くと、吉岡さんは歯磨きをしながらドアを開けてくれた。
「こんな姿で申し訳ない」
パジャマ姿で髪の毛がはねていた。向こうの方で赤ちゃんの泣く声が聞こえた。
「ここで座って、ちょっと待っててね」
吉岡さんはそう言って私をグランドピアノの前に座らせると、奥の部屋に走って行った。その間、赤ちゃんの泣く声やら掃除機をかける音やら、うがいをする音が聞こえてきて、しばらくするとパジャマからジーンズとセーターに着替えた吉岡さんが入ってきた。でも髪の毛ははねたままだった。
「実はね、君と会った日、ライブのあとでマスターから君の事を少し聞いたんだよ。短大でジャズ研だったんだってね。やっぱりそこでもピアノ弾いていたの?」
私は、ピアノを弾いていたことと、ジャズ理論はさっぱりわからないことと、プロを目指しているわけではないということと、吉岡さんにたどり着くまでの簡単な経緯を話した。吉岡さんは私の目を見て何度も頷きながら私の話を聞いてくれた。
「なるほどね。だいたいのことはわかった。じゃあ、僕が用意する楽譜を君が練習してくる、というのはどうだろう。アドリブで弾くんじゃなくて、全部音符になっているやつ。もちろん、君が弾きたい曲があったら、それを持ってくるのもいい。僕はそれに対して、どんなふうにしたらそれがジャズになるのかを教えるから。そうしたら、その曲がもっと楽しくなるし、ジャズのことも、もっと好きになると思うんだ」
私がぜひそれでお願いします、と言うと、オッケーオッケーと言いながら吉岡さんは押し入れを開けて、たくさんの楽譜の中からサテンドールの楽譜を取り出して私にくれた。
「じゃあ、次回までにこれを練習してきてね。一応、一回弾いておこうか」
吉岡さんは電子ピアノでサテンドールを弾いてくれた。私はそれをカセットテープに録音した。家に帰るとすぐにアップライトピアノの蓋を開けてカセットテープを聴きながらサテンドールを弾き続けた。母親が部屋に入ってきて、しばらく私のピアノを聴いていた。
「あんた、またジャズやるの?」
「うん」
「それで何かいいことあるの?」
「わかんない。でも、やりたいの」
母親はふーん、と言ったきり、黙ってしまった。まだ何か言いたそうだったが、しばらく私の演奏を聴いてから部屋を出て行った。吉岡さんの演奏はとても美しかった。私は吉岡さんのピアノを何度も聴いて、何度も弾いた。
それから毎日、私は仕事から帰るとピアノを弾き続けた。母親はちょっとうまくなってきたわね、とだけ言った。私は少し嬉しくなった。友人にもメールをして、吉岡さんにピアノを習い始めたことを報告した。友人は「良かったね」とメールを返してくれて「また山下さんの出ているライブに行こうよ」とも書いてあった。私は山下さんが出演するスケジュールを確認して、友人と明後日、いつものお店で合流することにした。
店に行くと、まだ友人はいなくて、その代わりカウンタで山下さんが水を飲んでいた。私は山下さんの隣に座って、ジンジャーエールを注文した。
「山下さんはお酒飲まないんですか?」
「うん。飲むと倒れちゃうんだ。どしーん、ってね」
「それは大変ですね」
「ほんと、周りの皆さんにも大迷惑だよ。だから飲まないの」
私が笑うと、山下さんも笑った。
「みっちゃん、吉岡さんからピアノ習ってるんだって」
「うん。とっても優しい方です。誰かさんが言っていたのとは大違いです」
「いや、彼が言っていたことはまんざらうそじゃないよ。吉岡さんのレッスンが厳しいことは有名なんだ。だけど、そのぶん、プロになる子がいっぱいいるんだ。君の場合はきっと特別なんだろうね。もしくは彼が年をとって丸くなったのかもしれないけどね。どちらにしても、良い経験だと思うんだ」
山下さんは二杯目の水を飲んだ。私はジンジャーエールを飲んだ。
「山下さんは、どうして東京から名古屋に帰ってきたんですか?」
「大学を卒業して、しばらくは東京でジャズをやっていたけど、あんまり仕事がとれなくてね。僕くらいのレベルのベース弾きは東京にはたくさんいるんだ。それに実家の仕事もそろそろ手伝わなくちゃいけなかったから、名古屋に帰ってきてしまった」
「じゃあ、実家の仕事を継いだらジャズやめちゃうんですか?」
「どうだろうね。ライブに出る数は減るかもしれないけど、僕はずっと音楽にかかわっていたいんだ。だから、きっとやめられない」
山下さんは残っていた水を飲んだ。マスターはまたグラスに水を注いだ。
「山下さん、東京で恋をたくさんしましたか?」
「うん。恋はしたよ。いろんな恋をした。辛い恋もあったし、逆にひどいことをしたこともある。だから今、みっちゃんが見ている僕は良い人に見えるかもしれないけど、それこそ腹黒山下さんだよ」
「そんなふうには見えませんけど」
ありがとう、と山下さんは言って水を飲み干すと、今日はお友達遅いね、と言って席を立った。ちょうど携帯電話のバイブが鳴り、見ると友人からのメールだった。急に彼と会うことになったらしい。私は「行ってらっしゃい」と返信した。
ライブが始まって、私はずっと山下さんのことを見ていた。この人のこと、好きなのかな、と考えながら見ていた。恋はどうやったら始まるのかな、と考えた。途中で友人の大好きな曲をやってくれた。大学祭でやった曲だ。学生の時はみんなでひとつの曲を何度も何度も聴いて、ちょっとでもかっこよく演奏できるように頑張ったのに、今はみんな一人で頑張っているんだろうな、偉いな、と思った。最後にクリスマスソングを演奏して最初のステージが終わった。ジンジャーエールを飲んでいると、山下さんが隣に座った。
「あれ? お友達は来ないの?」
「うん。彼と会うみたい」
「彼女、なんだか悩んでいるみたいだけど、みっちゃんがいるなら大丈夫そうだね。そういうお友達は大切だよ」
「山下さんは、そういうお友達いないんですか?」
「みんな東京に置いてきちゃったんだよ」
山下さんは酒を飲むように、お水を少しずつ飲んだ。山下さんの丸い背中が少しさびしそうに見えた。山下さんは今、東京のことを思い出しているのかな、と思った。私は思わず山下さんの背中に触れた。山下さんの背中はポカポカと温かかった。
「山下さん、私は山下さんのことを見ているのがとても好きなんです」
山下さんは私の顔を見てにっこりした。
「ありがとう。みっちゃんは僕のこと熊のぬいぐるみみたいに思ってくれているのかな?」
「そういうのとは違うと思うんですが」
「ありがとう。嬉しいよ。でも、僕は先日婚約をしました」
ああ、そうなんだ、と思って背中から手を離した。ドキリともズキリともしなかった。
「おめでとうございます。恋愛結婚ですか?」
「実はお見合いなんだ。お見合いなんて絶対するもんかと思っていたのにね。東京から名古屋に戻ってきたばっかりの時でさ、都落ちの気分でしょんぼりしている時に見合いの話をもらって、適当に流せばいいかなと思って会ってみたら、意外と良かったんだ。それでとんとん拍子で話が進んでしまった。人生わからんもんだよね。そんな僕でも、みっちゃんは僕を好いてくれるのかな」
「好きですよ」
「みっちゃんは素直というかストレートだね。もし、みっちゃんが腹黒だったら、僕は婚約者に内緒でみっちゃんといやらしい関係を持ったりすることもできるけど、みっちゃんはそんなことは望んでないよね」
私は頷いた。
「みっちゃんは、今、何が一番楽しいの?」
「吉岡さんにもらったサテンドールを弾くのが楽しいです」
「それならたくさん弾くといいよ。あと、吉岡さんとはピアノだけじゃなくて、たくさん話をするといいよ。実は僕は吉岡さんの隠れファンなんだ」
「別に隠れなくてもいいのに」
「いや、なんとなく照れくさいんだ。吉岡さんと演奏できる時なんて今でも緊張するんだよ。嬉しくて緊張するんだ」
誰かが山下さんを呼んだ。山下さんは、じゃあね、と言って残った水を飲み干して席を立った。結局私はライブを最後まで聴いて、ジンジャーエールを三杯飲んだ。お客さんが帰り始めて、私も帰ろうかなと思った時、女の人が店に入ってきた。赤いドレスを着た綺麗な女性だった。彼女はいろんな人に挨拶をしたあとで、山下さんに送って行ってよ、とか何とか言っていた。私はマスターにあの人誰ですか? と聞くと、ボーカルのひかりちゃんだよ、と言い、知らないの? と逆に聞かれた。
「私、ボーカル苦手なんです」
できるだけ小さい声で言うと、マスターは笑った。
「でも、彼女の歌はいいよ。たまにはボーカルライブも聴きにおいでよ」
私は苦笑いをしながら会計を済ませて店を出た。あの女の人、山下さんと途中でホテルとか行くのかな、と考えた。
翌日、事務所に行くと班長と土本さんだけだった。他の探偵たちは現場に直行で、部長は風邪をひいて休みだと言った。私がコーヒーをいれていると、班長と土本さんは東京の話をしていた。班長はここの探偵社に来る前は東京の探偵社で働いていたらしい。班長は、お前も一度は東京でやってみるといいよ、と話していた。私はコーヒーカップを渡しながら、東京ってそんなにいいところなんですか? と聞いた。
「すべての人にとって良いところとは言わないけど、まあ、いいところだよ」
名古屋と何が違うんですか? と土本さんが聞いた。土本さんも特に東京に対して憧れはない様子だった。
「いろんな人がいる」
名古屋でもいろんな人がいますよ、と私が言うと、スケールが違う、と班長が言った。
「自分が目指す場所を他の大勢の人も目指しているんだ、生き残るのは大変だけど、興奮する」
「それってコンサートのチケットの争奪戦みたいなもんですか?」
土本さんが言うと、班長は笑った。
「まあそういう考え方もあるけど」
「じゃあ、班長はどうして名古屋に戻ってきたんですか?」
「名古屋が好きだからだよ。東京はすごいけど、俺は名古屋の方が合っていると思ったから戻ってきた。それで、東京に行った方がいいと思った人をどんどん東京に送り出す人になろうと決めた」
「それで土本さんに東京行きを勧めているんですか?」
そう、と班長は言った。東京かあ、と土本さんは言った。
「みっちゃんは、東京に憧れたりしないの?」
班長がいきなり私のほうを見て言った。
「そういえば、みっちゃん彼氏が東京にいるんだろ? 追いかけて行きたいとか思わないの?」
私は、彼氏じゃないですよ、と言った。
「今は携帯とかパソコンとか便利なものがたくさんあるけど、でも実際に会っていた方がいいに決まっているじゃないか。会いたくないの?」
だから、彼氏じゃないんですよ、と班長に言った。実際、幼馴染の携帯電話の番号も、メールアドレスも知らない。私は仕事にとりかかったけれど、班長と土本さんはしばらく東京の話をしていた。
日曜日、吉岡さんのマンションに行くと、今度はヒゲをそりながらドアを開けてくれた。「毎度毎度こんな姿で済まないね」
吉岡さんの後ろでバタバタと音がして、すごい勢いで赤ちゃんがハイハイでやってきた。吉岡さんは赤ちゃんをひょいと抱えると、私にピアノ弾いて待ってて、と言って奥の部屋に行ってしまった。私はサテンドールを弾きながら吉岡さんが来るのを待っていた。
「けっこう頑張って練習したでしょ」
振り返ると吉岡さん。私は照れくさくなったが、はい、と返事した。
「だいたい良いけど、こんな風に弾くとかっこいいよ」
吉岡さんはところどころでアクセントのつけかたとか、音を出すタイミングとかを教えてくれた。吉岡さんが電子ピアノを弾くたびに、私もその通り弾いて、最後にもう一度弾くと、吉岡さんは、よし合格、と言った。
「次は何が弾きたい?」
「これという曲が特にないのでおまかせします」
じゃあちょっと待ってね、と吉岡さんは押入れを開けると楽譜を探した。私はグランドピアノの上に散乱している楽譜の中から、鉛筆で「ヒカリ・ボーカル」と書いてある楽譜を見つけた。
「ひかりさんのライブでも弾くんですか?」
吉岡さんは、うん、弾くよ、と言った。
「じゃあその曲にしようか」
吉岡さんはミスティの楽譜をくれた。
「ひかりちゃんはもうすぐ東京に行っちゃうんだ。全国デビューだよ」
「吉岡さんは東京に行きたいと思ったりしないんですか?」
うん、と吉岡さんは言った。どうしてですか? と聞くと、当たり前のように、名古屋が好きだから、と言った。
「東京でライブをするのも好きだよ。今まで日本中のいろんな場所でライブをやってきたけど、名古屋が一番居心地良かったんだ。嫁さんも名古屋で見つけたよ」
「東京は窮屈ですか?」
「そう思う人もいるけど、僕はただ、東京よりも名古屋に魅力を感じるからだよ。東京が嫌いなわけじゃないよ。君は東京に行きたい?」
「行きたいと思ったことはないです。でも、最近私の周りで東京の話をよく耳にするので、そんなにいいものかな、って思って」
自分で行ってみるのが一番良くわかるよ、と吉岡さんは言い、これも一回弾いておくね、と言ったので私は慌ててカセットテープに録音した。
「今の君になかなか似合っているよね、この曲」
吉岡さんはそう言って自分で頷いていた。私はどういう曲なのかよくわからないので、そうですか? と言って録音停止のボタンを押した。次のレッスンは十二月の最初の日曜日に決まった。帰る時、吉岡さんは、私のことをみっちゃんと呼んでもいいかと聞いたので、もちろんです、と答えると、じゃあ、みっちゃんがんばって、と吉岡さんは言った。
家に帰ってカセットテープを聴いた。母が部屋に入ってきて、ああ、この曲知ってるわと言った。へえ、珍しいこともあるもんだなと思っていたら、曲が終わって私と吉岡さんの会話まで流れた。私が慌てて停止ボタンを押すと、母は笑って部屋を出て行った。私はしばらくミスティを練習したあと、インターネットで検索して歌の意味を調べた。甘い甘い恋の歌だった。吉岡さんは何を勘違いしているのだろうと思った。もしかして母も勘違いしているのかと思うと恥ずかしくなった。恥ずかしさを紛らすように弾いていると、母がお茶とまんじゅうを持ってきて、一緒に食べようと言った。まんじゅうを食べながら、お母さんは私と同じ年の時、何していたの? と聞いたら、東京で働いていた、と言った。
「三年だけという約束で上京して、浅草で働いたのよ。それで、帰ってきてお父さんと結婚した」
「楽しかった?」
「楽しかった。休みの日には映画を見たりお芝居を見たり恋もした。毎日が楽しくてしょうがなかった」
「でも帰ってきたの?」
「そう。帰ってきた」
母は、しまった、こしあんだった、と言いながらしばらく半分に割ったまんじゅうを見ていた。あんこを見つめながら、あんたは恋してないの? と聞いてきた。私はお茶を吹き出しそうになった。母親からそんな質問される日が来るとは思っていなかったから。
「してないよ」
「私の娘なのに、まだ恋もしてないなんて」
母はまんじゅうの皮だけ食べて私にあんこを押し付けながら、そう言えば東京のあの子はどうしているの? と言った。幼馴染のことだ。私が、元気にしてるんじゃないかな、と言うと、ああ、そう、と言って部屋を出て行った。私はあんこを食べてお茶を飲んで、またピアノを弾いた。
レッスンの日、吉岡さんは私の弾くミスティを、目を閉じて聴いていた。弾き終わると、うーむ、と言ってから目を開けた。
「みっちゃん、一週間しかなかったのに、本当によく練習してきたね。それも僕が弾いた演奏をよく聴いている。みっちゃん、僕がピアノ弾くから、試しに右手のところを歌ってごらん」
「え? 歌うんですか?」
「そう。ズビズバも何でもいいから、とにかく、右手のところを歌うの。歌詞がついている楽譜もあるよ」
吉岡さんは分厚いジャズ曲集をめくって私に手渡すと、ピアノを弾き始めた。私は吉岡さんのピアノに合わせて、懸命に英語の歌詞を追いながら歌った。曲集の音符はあまり気にせず、吉岡さんがくれた楽譜のタイミングで歌ったら、時々言葉が余ったりしてうまく歌いきれなかったけれど、歌い終わると、吉岡さんは、声もなかなかいいね、と言った。
「でも、みっちゃんには欲がない感じがするのは気のせいだろうか」
「あまりないです。欲、というか感情の変化が乏しい気がします。恋もしてないし」
吉岡さんは、そっかー、恋してないかー、と言った。
「子供の頃の片思いとか、先輩への憧れとか、そういうのはありましたけど、一般的に言われている恋愛は、まだしたことないんです。吉岡さん、恋のきっかけはどうしたらつかめるんでしょうか?」
吉岡さんは笑顔で、わかんない、と言った。
「ある日突然、すとんと落ちるように、恋に落ちるんだよ。予測不可能だよ」
「私はいつになったら落ちるんでしょうか?」
吉岡さんはまた笑顔でわかんない、と言った。
「みっちゃんは、どうして恋をしたいと思わないんだろう。現状に満足しているのかな。さびしい夜とかないのかな?」
私は少し頬が赤くなったが、まあいいかな、と思い、吉岡さんに秘密の話ですよ、と言ってから話した。
「ときどき、意味も無くさびしい夜があります。そんな時は、お風呂にはいって、体をあたためて、自分で自分の胸を包むんです。ほわん、と包むんです。そうすると、柔らかくて、いい気持ちになって、落ち着きます」
吉岡さんは、へええ、と言い、ちょっと待っててねと言って部屋を出て行った。私は今になって恥ずかしくなってきた。吉岡さんは赤ちゃんを抱っこして戻ってきた。
「うちの子、抱っこしてごらん」
吉岡さんは私の両手に赤ちゃんを乗せた。私はその重さと柔らかさに声が出なかった。赤ちゃんは私の髪の毛をつかんでニコニコしながら舐めた。私が固まっていると、吉岡さんは、どんな気持ち? と聞いた。
「ものすごく気持ちいいです」
「自分以外の人の体温を感じるのはとても大切だよ」
吉岡さんはそう言って、さっきから私を抱けと言わんばかりに手を伸ばしている赤ちゃんをひょいと抱き上げた。赤ちゃんは吉岡さんのひげをぎゅっとつかんで笑っていた。吉岡さんは、いてて、と言いながら、次の曲は何にする? と聞いた。
「今月はライブが多いから、たぶん次のレッスンは来年になっちゃうと思うんだ」
私は、もう一回、ミスティお願いします、と言った。私が帰る準備をしていると、吉岡さんはクリスマス、暇? と聞いた。
「クリスマスの日、ひかりちゃんのボーカルでライブやるから、良かったら遊びにおいで」
帰りの電車に乗っているあいだ、私は自分の手を、さっき赤ちゃんを抱っこした時の形にして、あの重さとぬくもりを思い出していた。私は誰のぬくもりを求めているのだろう、と考えた。
クリスマスイブの日、部長がケーキを買ってきた。三時にケーキを切ってみんなでケーキを食べながら、今夜はどんなふうに過ごすのかという話になった。社長と部長以外は夜遅くまで素行調査が入っているから、奥さんやら恋人がいる人には少しかわいそうだなと思っていると、みんなはそれほどクリスマスイブにこだわっている様子は無かった。
「こういう時、土本はいいよな、仕事だって言えば女の子たちは素直に納得するんだろ。まさか他の女と会っているとは思ってないだろ。やっぱり今夜会う子が本命なわけか?」
班長が土本さんに聞くと、土本さんは、本命というわけじゃないですよ、と言った。
「俺、付き合っている子、みんな好きですよ。今夜会う子は、一番若い子だから、こういうイベントは大事みたいなんで、その子と会うだけです。それに、みんな気づいているんじゃなかなー、他にも付き合っている人がいるってこと」
「お前はそれが許されるキャラだからいいけど、普通じゃあり得ないからなー。この間の素行調査だって、奥さんが乗り込んできて修羅場だったし」
そういえば土本さんが言っていた。素行調査中に、だんなさんの浮気相手のアパートに奥さんが乗り込んできて、班長たちが必死でとめたとか。相手の女性は逆ギレするし、だんなさんには探偵雇っていることがバレるし、奥さんは半狂乱だし、結局調査費用もパーになったとか言っていた。
「みっちゃんはこの中で誰が一番まともだと思う?」
土本さんが聞いた。私はしばらく考えて、部長かな、と言った。部長は、嬉しいねえ、と言った。
「でも、残念ながらあまり僕もまともではないんだよ」
部長はそう言ってケーキの苺を食べた。
夕方、部長以外の探偵たちは素行調査にでかけ、社長は依頼人と会うからと言ってでかけてしまった。部長と二人きりになって、残ったケーキを二人で食べた。
「みっちゃんは今夜はどうするの?」
「たぶん家族でまたケーキ食べます。ケーキ三昧です。ここで食べたことは内緒です。部長も奥さんに内緒にしなくちゃ叱られちゃいますよね、糖尿だし」
「あの人は僕の奥さんじゃないよ」
さらりと言われたのでそれ以上何も聞けなかった。
「今日は早く帰ろうかな」
部長はそう言って身支度をした。私も急いで片づけをして部長と一緒に事務所を出た。クリスマスのイルミネーションがまぶしい。ブーツをはいた女の子たちがまぶしい。なんだかすべてがまぶしい。部長は、何かおみやげ買って帰ろうかな、と言ってデパートに向かった。私はついていこうか迷ったけれど、邪魔をしては悪いと思い、デパートの入り口でさようならを言った。部長は、良い夜を、と言って手を振った。
家に帰ると小さいケーキが買ってあった。ご飯を食べて、チキンを食べて、お茶をいれてケーキを食べた。母が、ピアノを弾けというので、サテンドールを弾くと、それじゃない、もう一コのほうだ、と言ったので、ミスティを弾いた。やっぱり欲の無いピアノかな、と思った。母は、来年の今頃はどうなっているかしらね、と言った。私にはまったく想像ができなかった。お風呂に入って今日の出来事を色々思い出していたら、少しさびしい気持ちになったので、胸を包んだ。お風呂であたたまった胸は柔らかくてほわっとしていたけれど、吉岡さんの赤ちゃんを抱っこした時の衝撃の方が強くて、あまり心おだやかではなかった。本当は、私は何か求めているものがあるのに、それに気づかない間抜けなみっちゃんなのかな、と考えたら、もっとさびしくなってきた。
お風呂から出て部屋に戻ると、携帯に友人からメリークリスマスメールが届いていた。これから恋人に会いに行く、と書いてあった。「行ってらっしゃい」と返信したら、またさびしくなって、布団に入って、胸を包みながら眠った。
翌日、出勤する途中、部長の後姿を見つけたので走って部長に追いついた。部長は、やあおはよう、と言ってから、昨日はケーキ食べたの? と聞いてきた。私は、もちろん、と言い、部長は食べましたか? と聞いたら、ニヤニヤしながら、食べた、と言った。
「事務所で食べたことは内緒だからね」
私は、昨日の部長の発言について、聞きたいけど聞いてはいけないような気がして、この気持ちをどこへ持って行ったらいいのだろうと思っていたら、女の人は、いくつになってもプレゼントは嬉しいものなんだねえ、と部長が言った。
「あの人はね、僕の奥さんじゃないんだよ。でも、僕が名古屋に来てからずっと僕の面倒をみてくれている。僕がそのへんのことをきっちりした方が良かろうと思って彼女に話したこともあったけど、あの人はね、そんなことしなくてもいい、と言ったんだよ。一緒にいられるだけでいい、と言ったんだよ。でも僕は今でも、それが正しいことなのか、悪いことなのか、実はわからないんだ。年をとると若い時には考えなかったことを考えるようになる。どれが自分の素直な気持ちなのか、わからなくなる」
「私は、今でも自分の素直な気持ちがよくわかりません」
「いや、みっちゃんは違う。耳をすませばいいんだよ。すぐわかるから」
部長はそれ以上何も言わず、私も何も言えなかった。事務所に入ってお湯をわかしていると、土本さんが来て、他の探偵たちが来て、社長が来て、最後に班長がやってきた。みんないつもどおりだった。クリスマスのお楽しみがあるのはどうやら私だけのようだった。
夜、仕事を終えてライブハウスに行くと、カウンタ席に山下さんがいた。今日のベースは確か違う人だったと思ったけれど……。山下さんにこんばんは、と言って隣の席に座ると、メリークリスマス、と山下さんは言った。
「今日のベース、風邪ひいちゃったんだ。それで吉岡さんからご指名頂きました」
山下さんは嬉しそうだった。
「みっちゃんに連絡しようと思ったけど、驚かすのもいいかなと思って黙っていたんだ。驚いた?」
私が頷くと、山下さんは私の前にCDを一枚置いた。
「これ、クリスマスプレゼント」
ホレス・シルヴァークインテットの「ザ・トーキョー・ブルース」だった。
「ホレス・シルヴァー嫌い?」
「いや、好きですよ。ソング・フォー・マイ・ファーザーの人ですよね」
「そう。そのホレスさん。このアルバム、実は新品じゃないんだ。僕がずっと東京時代に持っていたものなんだけど、みっちゃんのこれからの人生に幸アレという思いをこめてこのアルバムを贈ります」
私は、よく意味がわからなかったけれど、部長が今朝言っていた、いくつになってもプレゼントは嬉しいものだという言葉を思い出してお礼を言った。
「山下さんは昨日、何していました?」
「お仕事でベースを弾いていました」
「婚約者さんとは会わなかったんですか?」
「実は会ってないんだ。彼女はね、ジャズに嫉妬しているんだ。一度だけライブをみにきてくれたんだけど、ジャズをやっている僕の姿が、他の女の人といやらしいことをしているような様子に見えたらしくて、それ以来、ライブは見に来なくなったんだ。そして、僕がライブをした日の夜は会ってくれない。みっちゃん、そういう気持ち、理解できる?」
「私はジャズをやっている山下さんも好きですよ」
「ありがとう」
「メリークリスマース」
振り向くと吉岡さん。なぜか赤い帽子をかぶっていた。サンタですか? と私が聞くと、うん、イエーイ、と言って他のお客さんのところにもメリークリスマースと言ってまわっていた。山下さんの顔を見ると、かなりにやけていた。
「山下さん、嬉しそうですね」
山下さんは、うん、と頷いた。そして、あ、ひかりちゃんだ、と言った。彼女もメリークリスマースと言いながらお店に入ってきて、お客さんに挨拶してからテーブルについて吉岡さんと打ち合わせを始めた。山下さんも、行ってくるね、と言って席を立った。打ち合わせが終わると、山下さんがまずステージに立ち、吉岡さんとドラマーも位置についた。吉岡さんがイントロを弾き始めると、ひかりさんはコートを脱いでマイクスタンドの前に立った。銀色のドレスは彼女の体にぴったりとくっついていて、胸の形やお尻の形が悩ましかった。そして、吉岡さん、一曲目にミスティを持ってくるなんて、ずるい、と思った。彼女が歌いだした瞬間、震えてしまった。なんだこれは、と思った。彼女は途中でマイクスタンドからマイクを外して歌いながら客席に近づくと、若い男性の客の頬を撫でたりした。その指先の動きさえも私には刺激的で、恥ずかしいのに目がそらせない、彼女を見つめずにはいられなかった。ミスティのあとには軽くクリスマスソングを歌ったけれど、私はずっと彼女を見ていた。最初のステージが終わって、カウンタ側に体を戻すと、マスターが、どうだった? と聞いた。
「すごくいいです」
そのあとで、吉岡さんが、同じ質問をしてきたので、また「すごくいいです」と言い、山下さんまで同じ質問をしてきたので「すごくいい」と言っている自分が何かいやらしいことをしているみたいな気持ちになってきて困ってしまった。でも、本当に、すごく良くて、こんなに良いものばかり私は受け取ってばかりでよいのだろうかと思った。私も何かを誰かにお返ししなくては、と思ったけれど、相手が見当たらなかった。
ライブは最後まで私の心をぎゅっとつかんだままだった。ライブが終わっても、あと少しだけこの空間に居させて欲しい、と思い、終電までカウンタで固まっていた。マスターはクリスマスプレゼントだよ、と言って暖かいココアをいれてくれた。私はゆっくりココアを飲んでから、吉岡さんと山下さんに挨拶をして、会計を済ませた。店を出ようとしたら、ひかりさんが寄ってきて、今日は来てくれてありがとうね、と言った。そして、吉岡さんにピアノ習ってるんでしょ? と聞いてきた。私が照れながらはいと言うと、
「じゃあ、東京に来たら私のところにいらっしゃいな」
「東京ですか?」
「そう。そのうち行くんでしょ? だから吉岡さんについてるんでしょ?」
「いえいえ。私はコードさえまともに押さえられないようなピアノ弾きなので……」
ふーん、と言いながらひかりさんは私を見て、何か思い出してクスリと笑った。
「私も昔、吉岡さんにピアノ習っていたのよ。でも途中でボーカルになったの。で、こんな具合になったの。あなたもそうなるかもね」
と言って私と握手して頬にキスをすると、店の外まで送ってくれた。
「待ってるからね」
ひかりさんはそう言って手を振った。私は何度もぺこぺこ頭をさげて帰った。しばらく歩いていたら急に興奮してきて、なんだろう、この気持ちは、と思いながら帰った。
日曜日、まだクリスマスの興奮が体のあちこちに残ったまま、山下さんにもらったCDを聴いた。ホレス・シルヴァーの「ザ・トーキョー・ブルース」ホレスおじさんが、着物のお姉さんと一緒に日本庭園でにっこりしているジャケット。ホレスおじさんはどうしてそんなに東京が好きなのかな、と思いながらCDを聴いた。これは、ホレスおじさんが抱いている東京。イメージではなく、彼が見た東京。私がイメージする東京は、人が多くて、にぎやかで、危険そうで、幼馴染がいるところ。幼馴染はたくさんの人に混ざって、何をしているのだろう。私はCDを聴くのをやめてピアノを弾いた。ミスティ、ひかりさんみたいに誰かを震わせるようなことを私もしてみたい、でもその手段は何なのかわからない。今夜も私は自分の胸を抱いて寝た。
仕事納めの夕方、事務所には私と部長しかいなかった。社長は知り合いの弁護士と仕事納めの飲み会で、他の探偵たちは素行調査の後、現地解散だと言っていた。喉が渇いたので、甘い紅茶を二人分作って、少し休憩しませんか、と部長に声をかけた。部長とソファにこしかけて、紅茶を飲んで、ほうとため息をついた。今年ももうすぐ終わるねえ、と部長が言った。
「部長はお正月も名古屋ですか?」
「うん。名古屋だよ」
「帰るところが他にあるんじゃないですか?」
「あるような、ないような、あるとしても、いまはまだ帰りたくないんだ。帰れないんだ」
しばらくの沈黙のあとで、電話が鳴った。私が電話に出ると、少しの間をおいて、声がした。
「みっちゃん?」
幼馴染の声だった。私は、うん、そうだよ、と言った。
「いま、名古屋に帰ってきたんだ。みっちゃんの家に電話したら、お母さんがここの電話番号を教えてくれた。仕事が終わったら会えないかな。テレビ塔で待っているから」
私は、うん、とだけ言って電話を切った。部長を見ると、誰から? と言った。
「幼馴染です。名古屋に帰ってきたみたいです。仕事が終わってから会おうって。テレビ塔で待っているって」
「じゃあ今すぐ行きなさい。早く会いに行きなさい」
部長はそう言って紅茶を飲み干して、自分のカップと私のカップを給湯室に運んで洗い始めた。私は帰り支度をして、部長に、本当に帰ってもいいんですか? と聞いた。いいんだよ、と部長は言った。
「会いに行ってもいいんでしょうか」
行っておいで、と部長は言い、良い夜を、と言った。
小走りで道を通り抜けて、たくさんの人を追い越して、私はテレビ塔に向かった。チケットを買い、エレベーターで展望台に向かった。展望台にはたくさんの人がいて、みんな夜景を眺めていた。その中で幼馴染は一人で、ぼんやりと夜景を眺めていた。私が隣に立つと、私の顔を見て、久しぶり、と言った。私は、うん、とだけ言った。しばらく夜の名古屋を二人で眺めていた。
「東京は、人がたくさんいる?」
幼馴染は、うん、たくさんいるよ、と言った。
「お正月が終わったら、また東京に行くの?」
幼馴染は、うん、仕事が始まるからね、と言った。
「さびしい時、どうしてる?」
幼馴染は何も言わなかった。しばらく夜の名古屋を眺めて、幼馴染が帰ろうか、と言った。私は、うん、とだけ言った。
エレベーターの中で、私たちは小指で手をつないだ。地上に降りてゆっくりと歩きながら駅に向かった。電車に乗っても、何も話さず、私たちは静かなままだった。
電車を降りて、シャッターの降りた商店街を通り抜けると、幼馴染は、ああ、久しぶりだな、と言った。私が幼馴染の小指をきゅっと握ると、幼馴染は大きな手で私の手を包んだ。私は、少し寄り道しない? と言った。幼馴染は、そうだね、と言い、公園に寄った。公園のベンチに座り、手を握り合ったまま、しばらく空を眺めていた。私は自分の体の中がとてもあついと感じていた。体の真ん中にすじがあって、そのすじがじんじんとあつくなっているような感じだった。
「さびしいことは、よくあるよ」
幼馴染が言った。そして、みっちゃんは? と聞いた。
「ときどき」
「そっか」
近くでガサガサと音がして、その音に驚いて私は幼馴染の手を強く握った。幼馴染は私の肩を抱いた。音がした場所から猫が出てきて、こちらをちらりと見てから、しゃがみこんでじっとしていた。私たちは猫をしばらく見てから、お互いの顔を見合った。そしておでことおでこをくっつけた。
「ねえ、私のこと、考えた?」
「考えた」
「いやらしいこと、想像した」
「いっぱいした」
「私もした」
私は幼馴染の肩にもたれた。幼馴染は私の髪を撫でた。彼の指が動くたびに、私は体の真ん中のすじを触られているような気持ちになった。私はその気持ちが抑えきれなくなって、頭を起こして彼の唇に触れた。唇の温度を確かめるように、静かに唇を合わせていたら、彼の唇の間から、舌が出てきて、私の口の中に入ってきた。髪を撫でていた彼の手がするりと降りてきて、私のコートのボタンをはずして胸に触れた。私の息が荒くなって、幼馴染の唇が離れた。幼馴染は私のコートのボタンをすべてはずして、ブラウスのボタンもすべてはずした。ブラジャーをめくって、直接、胸に触れた。彼の手の温度を感じたら、少し落ち着いた。猫はさっきと同じ場所で私たちをじっと見ていた。
「猫が見てる」
幼馴染に言うと、月も見ている、と彼は言い、私の胸にキスをした。彼の温度を感じながら、私は東京のことを考えた。ホレスおじさんのブルースが頭のすみで響いていた。私は少し声が出てしまった。幼馴染は私にそっとキスをすると「風邪ひいちゃうよ」と言ってブラジャーとブラウスを直して、コートのボタンも留めてくれた。私はもっとその先のことがしたかったけれど、幼馴染がコートのボタンを留めてくれたとき、ああ、今は冬なんだ、と思い、急に寒くなった。私はぎこちなく幼馴染に抱きついた。幼馴染は優しく私の背中を撫でた。しばらくそうしていたけれど、幼馴染の「帰ろうか」という言葉に頷いた。
誰も居ない道を二人で手をつないで歩きながら、私たちは話をした。幼馴染が、まだジャズやってるの? と聞いたので、吉岡さんや山下さんやひかりさんの話をした。幼馴染は、うん、うん、と頷いて聞いた。
私の家と幼馴染の家の方向が変わるところで、私たちは立ち止まった。私は幼馴染の手をきゅっと握った。幼馴染はきゅっと握り返した。私たちはまたキスをした。そして、おでことおでこをくっつけた。幼馴染は優しい顔をして目を閉じていた。
「気をつけて帰ってね」
幼馴染は頷いた。
「東京も寒いかな」
「寒いね。でも、一緒ならさびしくないからね」
幼馴染はそう言って私の手の指の間に自分の指を絡ませた。私はふと、数時間前、一緒に居たテレビ塔のことを思い出した。
「ねえ、東京タワーはテレビ塔と一緒?」
「少し違う」
「そうなんだ」
私は、東京でピアノを弾いたり、ジャズを歌う自分を想像した。そして、東京タワーで幼馴染と手をつなぐことを想像した。
「今度は私から連絡するね」
幼馴染は、うん、待ってるよ、と言った。
(了)