追放された山岳ガイド、サンダルで八千メートルに挑む勇者パーティを見送る
◆一 銀貨三枚
「ケルン、お前クビな」
出発前夜の酒場で、勇者ラッシュはエールを飲み干してから言った。三杯目だった。明日から最終決戦なのに。
「えっと、理由は」
「戦えない荷物持ちは不要なんだよ。あと、お前がいると縁起が悪い」
縁起。
魔法使いのブラフが、干し肉をかじりながら笑った。
「だってお前、あのアンカーの息子だろ? 二十年前、先代の勇者様を山に置き去りにして逃げ帰った臆病者のガイド」
酒場の何人かがこっちを見た。この話になると、だいたいいつもこうなる。
親父は二十年前、先代勇者グロリオスの討伐隊を案内した。帰ってきたのは親父と隊員が二人だけで、勇者は戻らなかった。王都の人たちは「ガイドが勇者を見捨てた」と言い、親父はギルドを追われた。親父は死ぬまで、そのことを一言も話さなかった。
「親父のことは関係ないでしょう」
「あるね」とラッシュが言った。「明日、俺たちは先代が届かなかった場所に行く。臆病者の血はいらない」
聖女サナが「言いすぎです」と小さく言ったけど、ラッシュは聞いていなかった。
「……わかりました。じゃあ、三年分のお給金を」
「ああ、それな」
ラッシュは、テーブルに銀貨を三枚置いた。
「お前の給金は、聖剣の手入れ代と相殺した。これが残りだ」
聖剣の手入れは、毎晩俺がやっていた。
「……明日はヴァルテン山ですよね。山頂まで八千メートルあります。一気に登ると体がおかしくなります。空気が薄くなるので、三千を超えたら、寝る場所は一日に三百メートルくらいしか上げちゃだめです。頭が痛くなったら――」
「ほら出た」とブラフが言った。「親父譲りの『引き返せ』だ」
「頭痛なら、私の回復魔法で治せますから」とサナがとりなすように笑った。
治らない。たぶん。あれは怪我じゃない。息が足りていないだけだ。
「魔王を倒したら凱旋式だ。お前の名前はどこにも出ない。最初からいなかったことにしといてやるよ」
三人は出ていった。最後にブラフが振り返って、「水筒、借りてくぞ」と俺の水筒を持っていった。それは返してほしい。
◇
翌朝、宿の二階から出発を見送った。
ラッシュは聖剣と軽鎧だけ。サナは白い法衣。ブラフはサンダル。
サンダル。
部屋に戻ると、パーティの荷物が全部置いてあった。大きなテントも、毛布も、鍋も、三人分のアイゼンも。
クビになったんだから、もう関係ない。
関係ないんだけど、窓の外のヴァルテン山は雲ひとつない快晴だった。こういう日は、だいたい午後から崩れる。
背負子の底には、古い革の手帳が入っている。親父の山行記録だ。ルートと、親父が積んだケルンの位置が全部書いてある。俺はこの麓の村で生まれて、子どものころは親父に連れられて四千メートルあたりまで何度も登った。この山のことなら、王都の誰よりも知っている。
「……散歩くらいなら、誰にも怒られないよな」
宿を出る前に、主人に声をかけた。
「俺の私物だけ持っていきます。ザイルとピッケルとアイゼン、一人用の天幕と、予備の靴と、薬です。ほかは全部勇者様の荷物なので、預かっておいてください」
「テントまで置いてったのかい」
「テントまでです」
主人は呆れた顔で、持ち出した物と残した物を、一つずつ帳面に書きつけてくれた。
◆二 回復魔法が効かない
二日目の昼。標高四千メートルで、ブラフが吐いた。
「うぇ……昨日の干し肉、悪くなってたんじゃねえの」
干し肉は悪くなっていない。俺が仕込んだんだから間違いない。
サナが詠唱する。今日だけで二十回目だった。光がふわっと広がって、消える。ブラフは顔を上げて、三秒後にもう一回吐いた。
「おかしいです……毒なら消せるし、呪いなら祓えるのに」
「止まるから体が冷えるんだ。行くぞ」
ラッシュの顔も紙みたいに白かった。それでも誰も「戻ろう」とは言わなかった。言ったら、あの臆病者と同じになる。
午後には雪になった。その夜、標高四千八百メートルの岩陰で、ブラフが火の魔法を唱えた。指先にろうそくほどの火が灯って、すぐに縮んだ。
「は? なんで?」
空気が薄ければ、火も弱くなる。三人とも、それを知らなかった。
◇
その頃、俺は標高三千三百メートルの大岩の陰で、天幕を張っていた。
昨日は二千八百で寝た。今日は五百上げた。目安は三百だけど、俺はこの村の生まれで高さには慣れている。それでも五百が限界だ。
途中、雪の上にサンダルが片方落ちていた。拾って荷物にくくりつけた。
大岩のそばに、苔むした石の山があった。膝くらいの高さの、小さなケルン。親父の手帳には「三千三百、大岩の東。ここで一泊。急ぐな」と書いてある。
二十年たっても崩れていなかった。俺は石をひとつ、てっぺんに乗せた。
鍋で豆を煮る。この高さだと、湯は九十度に届く前に沸いてしまうから、豆はいつまでも固い。前にブラフが「お前の豆、毎回固いんだよ」と文句を言っていた。山の上では誰が煮ても固いんだよ。
まあ、鍋は宿に置いてきてたから、あいつらは煮ることもできないんだけど。
◆三 支点は二つ
三日目、山の上半分は朝から雲に隠れていた。下のほうは昼まで風が弱かったので、俺はそのうちに三千八百まで上がって、天幕を張り直した。午後には、ここも吹雪になった。
勇者たちは、四千八百の岩陰から一歩も動けなかったはずだ。
四日目、雪がやんだ。俺は夜明け前に天幕を出た。荷物を減らして、一気に上を目指す。寝るのはまたここに戻ってからだ。高く登って、低く寝る。
それでもペースは、親父が見たら怒るくらい速かった。でも、のんびりしていたら間に合わない。
◇
昼前、標高五千メートル。
雪原の向こうに、三つの人影が見えた。
先頭を歩くラッシュの少し先に、雪面がわずかに沈んだ筋が走っていた。
「止まって!」
叫んだときには、ラッシュの足元が消えていた。
雪の下に隠れていたクレバスだった。ラッシュは腰まで落ちて、両手で縁にしがみついた。聖剣が先に落ちていって、だいぶたってから、下でカーンと小さな音がした。
「ラッシュさん!」
駆け寄ろうとしたサナに、俺はもう一度叫んだ。
「来るな! そこも割れてます。二歩下がって、動かないで!」
走った。喉が焼けるようだった。
クレバスの手前で、ピッケルを横にして雪に深く埋めた。ザイルを結び、もう一本を近くの岩に回す。支点は二つ。親父がよく言っていた。「人を繋ぐなら、支点は一つじゃ足りない」。
「ラッシュさん、これを腕に巻いて。手は離さないで」
「お前……なんで……」
「話は後で聞きます。巻いて」
サナとブラフにもザイルを握らせて、三人がかりで引き上げた。ラッシュは雪の上に仰向けになって、空を見ていた。
「……聖剣、落とした」
「そうですね。下りましょう。ブラフさんの足、早く手当てしないと指がなくなります」
ブラフが真っ青になった。サナがすぐに凍傷の足に手をかざしたけど、もう光すら出なかった。一日に何十回も唱えたせいで、魔力が尽きていた。サナはそのまま泣き出した。
ラッシュだけが、黙って俺を睨んでいた。
◇
午後いっぱいかけて、三千八百の天幕まで下りた。着くなり、ブラフが「あれ、頭痛くねえ」と言った。
回復魔法より、千メートル下りるほうがよく効く。最初からそう言っていた。
一人用の天幕に、三人をなんとか押し込んだ。俺は外の岩陰でビバークすることにした。
拾ったサンダルを返して、代わりに予備の靴を貸した。豆を煮て配ると、ブラフが「固え」と言った。
「山の上では誰が煮ても固いんですよ。水が九十度で沸いちゃうので」
ブラフは黙って豆を噛んだ。それから、ばつが悪そうに俺の水筒を差し出してきた。
「返す」
「中身、空ですね」
「……悪い。その、豆も。毎回固いとか言って、悪かった」
夜、天幕からサナが出てきて、俺の隣で膝を抱えた。
「ケルンさん、私……あの酒場で、止められたはずなんです。言いすぎですって言っただけで、それ以上は何も」
「サナさんのせいじゃないですよ」
「いいえ」とサナは首を振った。「私のせいでもあります」
天幕の中から、ラッシュの声がした。
「……余計なことしやがって」
小さな声だったけど、ちゃんと聞こえた。
◆四 記録官
二日後、麓の村に戻ると、王都からの使者が待っていた。
勇者の出発を記録するために王が送った記録官で、出発には一日遅れで着いたらしい。護衛の騎士を二人連れていた。俺と同じくらいの年の女性で、分厚い帳面を胸に抱えている。
「王宮記録官のクロニカです。勇者様、ご報告を」
ラッシュは、クロニカの前で片膝をついた。
「標高五千を越えたところで撤退しました。原因は、元荷物持ちのケルンです。この者は追放を逆恨みし、我々の装備を持ち去りました」
俺は思わず顔を上げた。
「テントも防寒具もなく、やむなく撤退を。こいつはあの臆病者アンカーの息子です。親子そろって、勇者の道を阻む血筋なのです」
村人たちがざわついた。
二十年前も、こうだったんだろうか。親父も、こうやって指をさされて、何も言わなかったんだろうか。
俺は言うことにした。
「記録官殿。俺はガイドなので、山に入るときは記録をつけています。何時にどこにいて、何を見たか」
手帳を差し出すと、クロニカは受け取って、ページをめくった。めくる手が、途中で止まった。
「……一時間ごとの天候、気温、標高、同行者の体調。全部書いてある」
「仕事なので」
「王宮の記録より正確です」
クロニカは、少しだけ笑った。それから顔を引き締めて、読み上げた。
「出発前夜、酒場にて追放。給金は聖剣の手入れ代と相殺、銀貨三枚を受領。翌朝、勇者一行出発。パーティの装備は、すべて宿に残置」
「残置?」
「宿のご主人の帳面と照らし合わせてください。俺が持ち出したのは、自分の私物だけです」
宿の主人が帳面を抱えてやってきた。
「ええ、ええ。テントに毛布に鍋にアイゼン、三人分。全部うちの二階にありますよ。ケルンさんが持っていったのは、自分の小さい天幕とザイルとピッケルと靴と薬だけ。ほら、ここに書いてあります」
ラッシュの顔から、血の気が引いた。
「四日目、五千。勇者がクレバスに転落。ザイルにて救助。聖剣、亀裂内に落下」
「……救助?」
クロニカがラッシュを見た。ラッシュは口を開けたまま、何も言わなかった。
「あの」とブラフが手を上げた。包帯ぐるぐるの足で、ふらふら立っている。村に戻ってからサナがつきっきりで魔法をかけて、指はどうにか全部残った。
「全部ほんとです。オレら、ケルンに助けられました。あと、オレがサンダルで登ったのもほんとです」
それは言わなくてよかった。
「私も証言します」とサナが言った。「ケルンさんは、何度も引き返すように言ってくれました。聞かなかったのは私たちです。……それから、私は酒場で、止めませんでした」
二人とも、ラッシュのほうを見なかった。
クロニカは帳面に何かを書きつけてから、静かに言った。
「勇者ラッシュ。虚偽の報告、ならびに国宝である聖剣の紛失。王国法第十二条により、勇者の任をこの場で停止します。聖剣の件は、王都で別途裁かれることになります」
ラッシュが、その場に崩れた。
「それから、これを」
俺は一枚の紙を差し出した。
「山岳救助の費用です。ギルドの規定どおりに計算しました。日当、燃料、食料、薬、ザイルの損耗、ブラフさんに貸した靴の損料。全部で金貨四十二枚です」
「よ、よんじゅう……」
「ただ、追放のときに銀貨を三枚いただいているので、それを引きます。銀貨十枚で金貨一枚なので、金貨四十一枚と銀貨七枚です」
村の誰かが吹き出した。
「あ、三年分の給金のほうは、王都のギルドを通して別に請求しますね。聖剣の手入れ代と相殺されるような契約は、していないので」
それを合図に、あちこちで笑いが広がった。クロニカまで、帳面で口元を隠していた。
◇
笑いが収まると、クロニカが帳面を閉じた。
「王からは、勇者が戻らなかったとき、あるいは任に堪えないときは、山を知る者を探して案内させよと命じられています。ケルンさん。記録官の権限で、改めて魔王城までの案内を依頼します」
断る理由はなかった。
「私も行きます」とサナが言った。
「オレも。足が治ったら。今度はちゃんと靴履いて」とブラフが言った。
◆五 今さら
その夜、宿の部屋の戸が叩かれた。
開けると、ラッシュが立っていた。
酒場で銀貨を投げた男と同じ人間とは思えなかった。目の下が真っ黒で、肩が落ちている。
「……頼む。戻ってきてくれ」
「はい?」
「お前がいれば、もう一度山に行ける。魔王を倒せば、聖剣のことも帳消しになる。勇者に戻れるんだ。給金は払う。倍、いや、三倍払う」
金貨四十一枚と銀貨七枚も払えないのに。
「ラッシュさん。俺、記録官殿から、王の名で正式に依頼を受けたんです。護衛の騎士二人と、サナさんとブラフさんを連れて、魔王城まで案内します」
「なら、俺も――」
「勇者じゃなくなったんですよね」
ラッシュの顔が、ゆがんだ。
「戦える人は騎士がいます。山で本当に必要なのは、引き返せる人なんです」
俺は、ラッシュが酒場で言った言葉を、そのまま返した。
「戦えない荷物持ちは不要だって、あなたが言ったんですよ。山では、引き返せない勇者のほうが、よっぽど不要です」
ラッシュは何か言い返そうとして、何も言えずに、ゆっくり戸を閉めた。
廊下を去っていく足音は、ずいぶん長く続いた。
◆六 最後のページ
しばらくして、また戸が叩かれた。
今度はクロニカだった。
「夜分にすみません。どうしても、お伝えしておきたいことがあって」
クロニカは帳面を開いた。
「この討伐を記録するにあたって、前例として二十年前の記録を調べてきました。先代勇者グロリオス様の隊の記録です」
「……親父の」
「はい。それが、おかしいんです。七千メートルより上の数日分だけ、ページが抜き取られていました。記録官として、あんなものは見たことがありません」
抜き取られた。
誰が。何のために。
「あなたのお父様が臆病者だという話は、その欠けた記録の上に成り立っています。私は、記録官として、それが気持ち悪いんです」
クロニカは、まっすぐ俺を見た。
「ケルンさんの手帳は、正確でした。お父様の手帳も、きっとそうだと思います」
◇
クロニカが帰ったあと、親父の手帳を開いた。
最後のページは、ずっと開けずにいた。親父が死んでから、なんとなく怖くて。
そこには、震える字でこう書いてあった。
「七千六百。グロリオス様の命により、隊員を連れて下りる。必ず迎えに戻る」
その下に、違うインクで一行だけ。
「戻った。間に合わなかった。石を積んだ」
臆病者が、わざわざ迎えに戻るだろうか。
窓の外で、ヴァルテン山が月明かりに白く光っていた。七千六百メートル。親父が最後に石を積んだ場所。
王宮から抜き取られた記録の答えは、たぶん、あの石の下にある。
俺は、確かめに行くことにした。
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