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追放された山岳ガイド、サンダルで八千メートルに挑む勇者パーティを見送る

作者: 朝霧ナギ
掲載日:2026/10/10

◆一 銀貨三枚


「ケルン、お前クビな」


 出発前夜の酒場で、勇者ラッシュはエールを飲み干してから言った。三杯目だった。明日から最終決戦なのに。


「えっと、理由は」


「戦えない荷物持ちは不要なんだよ。あと、お前がいると縁起が悪い」


 縁起。


 魔法使いのブラフが、干し肉をかじりながら笑った。


「だってお前、あのアンカーの息子だろ? 二十年前、先代の勇者様を山に置き去りにして逃げ帰った臆病者のガイド」


 酒場の何人かがこっちを見た。この話になると、だいたいいつもこうなる。


 親父は二十年前、先代勇者グロリオスの討伐隊を案内した。帰ってきたのは親父と隊員が二人だけで、勇者は戻らなかった。王都の人たちは「ガイドが勇者を見捨てた」と言い、親父はギルドを追われた。親父は死ぬまで、そのことを一言も話さなかった。


「親父のことは関係ないでしょう」


「あるね」とラッシュが言った。「明日、俺たちは先代が届かなかった場所に行く。臆病者の血はいらない」


 聖女サナが「言いすぎです」と小さく言ったけど、ラッシュは聞いていなかった。


「……わかりました。じゃあ、三年分のお給金を」


「ああ、それな」


 ラッシュは、テーブルに銀貨を三枚置いた。


「お前の給金は、聖剣の手入れ代と相殺した。これが残りだ」


 聖剣の手入れは、毎晩俺がやっていた。


「……明日はヴァルテン山ですよね。山頂まで八千メートルあります。一気に登ると体がおかしくなります。空気が薄くなるので、三千を超えたら、寝る場所は一日に三百メートルくらいしか上げちゃだめです。頭が痛くなったら――」


「ほら出た」とブラフが言った。「親父譲りの『引き返せ』だ」


「頭痛なら、私の回復魔法で治せますから」とサナがとりなすように笑った。


 治らない。たぶん。あれは怪我じゃない。息が足りていないだけだ。


「魔王を倒したら凱旋式だ。お前の名前はどこにも出ない。最初からいなかったことにしといてやるよ」


 三人は出ていった。最後にブラフが振り返って、「水筒、借りてくぞ」と俺の水筒を持っていった。それは返してほしい。


   ◇


 翌朝、宿の二階から出発を見送った。


 ラッシュは聖剣と軽鎧だけ。サナは白い法衣。ブラフはサンダル。


 サンダル。


 部屋に戻ると、パーティの荷物が全部置いてあった。大きなテントも、毛布も、鍋も、三人分のアイゼンも。


 クビになったんだから、もう関係ない。


 関係ないんだけど、窓の外のヴァルテン山は雲ひとつない快晴だった。こういう日は、だいたい午後から崩れる。


 背負子の底には、古い革の手帳が入っている。親父の山行記録だ。ルートと、親父が積んだケルンの位置が全部書いてある。俺はこの麓の村で生まれて、子どものころは親父に連れられて四千メートルあたりまで何度も登った。この山のことなら、王都の誰よりも知っている。


「……散歩くらいなら、誰にも怒られないよな」


 宿を出る前に、主人に声をかけた。


「俺の私物だけ持っていきます。ザイルとピッケルとアイゼン、一人用の天幕と、予備の靴と、薬です。ほかは全部勇者様の荷物なので、預かっておいてください」


「テントまで置いてったのかい」


「テントまでです」


 主人は呆れた顔で、持ち出した物と残した物を、一つずつ帳面に書きつけてくれた。



◆二 回復魔法が効かない


 二日目の昼。標高四千メートルで、ブラフが吐いた。


「うぇ……昨日の干し肉、悪くなってたんじゃねえの」


 干し肉は悪くなっていない。俺が仕込んだんだから間違いない。


 サナが詠唱する。今日だけで二十回目だった。光がふわっと広がって、消える。ブラフは顔を上げて、三秒後にもう一回吐いた。


「おかしいです……毒なら消せるし、呪いなら祓えるのに」


「止まるから体が冷えるんだ。行くぞ」


 ラッシュの顔も紙みたいに白かった。それでも誰も「戻ろう」とは言わなかった。言ったら、あの臆病者と同じになる。


 午後には雪になった。その夜、標高四千八百メートルの岩陰で、ブラフが火の魔法を唱えた。指先にろうそくほどの火が灯って、すぐに縮んだ。


「は? なんで?」


 空気が薄ければ、火も弱くなる。三人とも、それを知らなかった。


   ◇


 その頃、俺は標高三千三百メートルの大岩の陰で、天幕を張っていた。


 昨日は二千八百で寝た。今日は五百上げた。目安は三百だけど、俺はこの村の生まれで高さには慣れている。それでも五百が限界だ。


 途中、雪の上にサンダルが片方落ちていた。拾って荷物にくくりつけた。


 大岩のそばに、苔むした石の山があった。膝くらいの高さの、小さなケルン。親父の手帳には「三千三百、大岩の東。ここで一泊。急ぐな」と書いてある。


 二十年たっても崩れていなかった。俺は石をひとつ、てっぺんに乗せた。


 鍋で豆を煮る。この高さだと、湯は九十度に届く前に沸いてしまうから、豆はいつまでも固い。前にブラフが「お前の豆、毎回固いんだよ」と文句を言っていた。山の上では誰が煮ても固いんだよ。


 まあ、鍋は宿に置いてきてたから、あいつらは煮ることもできないんだけど。



◆三 支点は二つ


 三日目、山の上半分は朝から雲に隠れていた。下のほうは昼まで風が弱かったので、俺はそのうちに三千八百まで上がって、天幕を張り直した。午後には、ここも吹雪になった。


 勇者たちは、四千八百の岩陰から一歩も動けなかったはずだ。


 四日目、雪がやんだ。俺は夜明け前に天幕を出た。荷物を減らして、一気に上を目指す。寝るのはまたここに戻ってからだ。高く登って、低く寝る。


 それでもペースは、親父が見たら怒るくらい速かった。でも、のんびりしていたら間に合わない。


   ◇


 昼前、標高五千メートル。


 雪原の向こうに、三つの人影が見えた。


 先頭を歩くラッシュの少し先に、雪面がわずかに沈んだ筋が走っていた。


「止まって!」


 叫んだときには、ラッシュの足元が消えていた。


 雪の下に隠れていたクレバスだった。ラッシュは腰まで落ちて、両手で縁にしがみついた。聖剣が先に落ちていって、だいぶたってから、下でカーンと小さな音がした。


「ラッシュさん!」


 駆け寄ろうとしたサナに、俺はもう一度叫んだ。


「来るな! そこも割れてます。二歩下がって、動かないで!」


 走った。喉が焼けるようだった。


 クレバスの手前で、ピッケルを横にして雪に深く埋めた。ザイルを結び、もう一本を近くの岩に回す。支点は二つ。親父がよく言っていた。「人を繋ぐなら、支点は一つじゃ足りない」。


「ラッシュさん、これを腕に巻いて。手は離さないで」


「お前……なんで……」


「話は後で聞きます。巻いて」


 サナとブラフにもザイルを握らせて、三人がかりで引き上げた。ラッシュは雪の上に仰向けになって、空を見ていた。


「……聖剣、落とした」


「そうですね。下りましょう。ブラフさんの足、早く手当てしないと指がなくなります」


 ブラフが真っ青になった。サナがすぐに凍傷の足に手をかざしたけど、もう光すら出なかった。一日に何十回も唱えたせいで、魔力が尽きていた。サナはそのまま泣き出した。


 ラッシュだけが、黙って俺を睨んでいた。


   ◇


 午後いっぱいかけて、三千八百の天幕まで下りた。着くなり、ブラフが「あれ、頭痛くねえ」と言った。


 回復魔法より、千メートル下りるほうがよく効く。最初からそう言っていた。


 一人用の天幕に、三人をなんとか押し込んだ。俺は外の岩陰でビバークすることにした。


 拾ったサンダルを返して、代わりに予備の靴を貸した。豆を煮て配ると、ブラフが「固え」と言った。


「山の上では誰が煮ても固いんですよ。水が九十度で沸いちゃうので」


 ブラフは黙って豆を噛んだ。それから、ばつが悪そうに俺の水筒を差し出してきた。


「返す」


「中身、空ですね」


「……悪い。その、豆も。毎回固いとか言って、悪かった」


 夜、天幕からサナが出てきて、俺の隣で膝を抱えた。


「ケルンさん、私……あの酒場で、止められたはずなんです。言いすぎですって言っただけで、それ以上は何も」


「サナさんのせいじゃないですよ」


「いいえ」とサナは首を振った。「私のせいでもあります」


 天幕の中から、ラッシュの声がした。


「……余計なことしやがって」


 小さな声だったけど、ちゃんと聞こえた。



◆四 記録官


 二日後、麓の村に戻ると、王都からの使者が待っていた。


 勇者の出発を記録するために王が送った記録官で、出発には一日遅れで着いたらしい。護衛の騎士を二人連れていた。俺と同じくらいの年の女性で、分厚い帳面を胸に抱えている。


「王宮記録官のクロニカです。勇者様、ご報告を」


 ラッシュは、クロニカの前で片膝をついた。


「標高五千を越えたところで撤退しました。原因は、元荷物持ちのケルンです。この者は追放を逆恨みし、我々の装備を持ち去りました」


 俺は思わず顔を上げた。


「テントも防寒具もなく、やむなく撤退を。こいつはあの臆病者アンカーの息子です。親子そろって、勇者の道を阻む血筋なのです」


 村人たちがざわついた。


 二十年前も、こうだったんだろうか。親父も、こうやって指をさされて、何も言わなかったんだろうか。


 俺は言うことにした。


「記録官殿。俺はガイドなので、山に入るときは記録をつけています。何時にどこにいて、何を見たか」


 手帳を差し出すと、クロニカは受け取って、ページをめくった。めくる手が、途中で止まった。


「……一時間ごとの天候、気温、標高、同行者の体調。全部書いてある」


「仕事なので」


「王宮の記録より正確です」


 クロニカは、少しだけ笑った。それから顔を引き締めて、読み上げた。


「出発前夜、酒場にて追放。給金は聖剣の手入れ代と相殺、銀貨三枚を受領。翌朝、勇者一行出発。パーティの装備は、すべて宿に残置」


「残置?」


「宿のご主人の帳面と照らし合わせてください。俺が持ち出したのは、自分の私物だけです」


 宿の主人が帳面を抱えてやってきた。


「ええ、ええ。テントに毛布に鍋にアイゼン、三人分。全部うちの二階にありますよ。ケルンさんが持っていったのは、自分の小さい天幕とザイルとピッケルと靴と薬だけ。ほら、ここに書いてあります」


 ラッシュの顔から、血の気が引いた。


「四日目、五千。勇者がクレバスに転落。ザイルにて救助。聖剣、亀裂内に落下」


「……救助?」


 クロニカがラッシュを見た。ラッシュは口を開けたまま、何も言わなかった。


「あの」とブラフが手を上げた。包帯ぐるぐるの足で、ふらふら立っている。村に戻ってからサナがつきっきりで魔法をかけて、指はどうにか全部残った。


「全部ほんとです。オレら、ケルンに助けられました。あと、オレがサンダルで登ったのもほんとです」


 それは言わなくてよかった。


「私も証言します」とサナが言った。「ケルンさんは、何度も引き返すように言ってくれました。聞かなかったのは私たちです。……それから、私は酒場で、止めませんでした」


 二人とも、ラッシュのほうを見なかった。


 クロニカは帳面に何かを書きつけてから、静かに言った。


「勇者ラッシュ。虚偽の報告、ならびに国宝である聖剣の紛失。王国法第十二条により、勇者の任をこの場で停止します。聖剣の件は、王都で別途裁かれることになります」


 ラッシュが、その場に崩れた。


「それから、これを」


 俺は一枚の紙を差し出した。


「山岳救助の費用です。ギルドの規定どおりに計算しました。日当、燃料、食料、薬、ザイルの損耗、ブラフさんに貸した靴の損料。全部で金貨四十二枚です」


「よ、よんじゅう……」


「ただ、追放のときに銀貨を三枚いただいているので、それを引きます。銀貨十枚で金貨一枚なので、金貨四十一枚と銀貨七枚です」


 村の誰かが吹き出した。


「あ、三年分の給金のほうは、王都のギルドを通して別に請求しますね。聖剣の手入れ代と相殺されるような契約は、していないので」


 それを合図に、あちこちで笑いが広がった。クロニカまで、帳面で口元を隠していた。


   ◇


 笑いが収まると、クロニカが帳面を閉じた。


「王からは、勇者が戻らなかったとき、あるいは任に堪えないときは、山を知る者を探して案内させよと命じられています。ケルンさん。記録官の権限で、改めて魔王城までの案内を依頼します」


 断る理由はなかった。


「私も行きます」とサナが言った。


「オレも。足が治ったら。今度はちゃんと靴履いて」とブラフが言った。



◆五 今さら


 その夜、宿の部屋の戸が叩かれた。


 開けると、ラッシュが立っていた。


 酒場で銀貨を投げた男と同じ人間とは思えなかった。目の下が真っ黒で、肩が落ちている。


「……頼む。戻ってきてくれ」


「はい?」


「お前がいれば、もう一度山に行ける。魔王を倒せば、聖剣のことも帳消しになる。勇者に戻れるんだ。給金は払う。倍、いや、三倍払う」


 金貨四十一枚と銀貨七枚も払えないのに。


「ラッシュさん。俺、記録官殿から、王の名で正式に依頼を受けたんです。護衛の騎士二人と、サナさんとブラフさんを連れて、魔王城まで案内します」


「なら、俺も――」


「勇者じゃなくなったんですよね」


 ラッシュの顔が、ゆがんだ。


「戦える人は騎士がいます。山で本当に必要なのは、引き返せる人なんです」


 俺は、ラッシュが酒場で言った言葉を、そのまま返した。


「戦えない荷物持ちは不要だって、あなたが言ったんですよ。山では、引き返せない勇者のほうが、よっぽど不要です」


 ラッシュは何か言い返そうとして、何も言えずに、ゆっくり戸を閉めた。


 廊下を去っていく足音は、ずいぶん長く続いた。



◆六 最後のページ


 しばらくして、また戸が叩かれた。


 今度はクロニカだった。


「夜分にすみません。どうしても、お伝えしておきたいことがあって」


 クロニカは帳面を開いた。


「この討伐を記録するにあたって、前例として二十年前の記録を調べてきました。先代勇者グロリオス様の隊の記録です」


「……親父の」


「はい。それが、おかしいんです。七千メートルより上の数日分だけ、ページが抜き取られていました。記録官として、あんなものは見たことがありません」


 抜き取られた。


 誰が。何のために。


「あなたのお父様が臆病者だという話は、その欠けた記録の上に成り立っています。私は、記録官として、それが気持ち悪いんです」


 クロニカは、まっすぐ俺を見た。


「ケルンさんの手帳は、正確でした。お父様の手帳も、きっとそうだと思います」


   ◇


 クロニカが帰ったあと、親父の手帳を開いた。


 最後のページは、ずっと開けずにいた。親父が死んでから、なんとなく怖くて。


 そこには、震える字でこう書いてあった。


「七千六百。グロリオス様の命により、隊員を連れて下りる。必ず迎えに戻る」


 その下に、違うインクで一行だけ。


「戻った。間に合わなかった。石を積んだ」


 臆病者が、わざわざ迎えに戻るだろうか。


 窓の外で、ヴァルテン山が月明かりに白く光っていた。七千六百メートル。親父が最後に石を積んだ場所。


 王宮から抜き取られた記録の答えは、たぶん、あの石の下にある。


 俺は、確かめに行くことにした。

※連載版はじめました。ぜひご覧ください!

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