冷蔵庫の音
最初に気づいたのは、音だった。
冷蔵庫の、低く唸るような駆動音に混じって、たまに、小さな擦れが入る。硬いものが内側から壁を引っかくような、乾いた音だった。
沙也加はそのたびに箸を止めたが、止めるたびに自分が馬鹿らしくなった。ワンルームの台所は狭く、古い冷蔵庫は去年からときどき機嫌が悪い。霜取りがうまくいっていないのかもしれないし、製氷皿がずれただけかもしれない。そういうことはいくらでもある。
それでも、三日続くと気になる。
夜の二十三時すぎ、カップ味噌汁の湯気を顔に受けながら、沙也加は冷蔵庫の前にしゃがみ込んだ。白い扉の表面は少しだけ黄ばんでいて、取っ手の下に拭き残しの跡がある。会社から帰って、化粧だけ落として、スーツのスカートのまま床に膝をついている自分がなんだか疲れて見えた。
耳を寄せる。
ぶうん、と、機械の音。
それから、しばらくして、
……かり。
喉の奥が、ひゅ、と細くなった。反射的に身体が引いた。霜だ、と考えるより先に、肩甲骨のあたりが冷えていた。ぞわ、と皮膚が立つ。耳の穴だけ熱くなって、手先は冷たいままだった。
扉を開ける。
中にはいつものものしかなかった。作り置きの肉じゃが、半分の豆腐、チューブのしょうが、昨日買った卵。上段の隅にヨーグルト。製氷室を見ても、白く凍った氷しかない。
しばらく開けたまま見ていたせいで、庫内灯が指に当たって妙に明るかった。
笑ってしまう。ひとりで。
「何してんの」
声にすると、部屋の中に自分の声だけが浮いた。
扉を閉め、流しで手を洗って、味噌汁を飲みきった。スマホで動画を見ながら歯を磨いて、ベッドに入った。冷蔵庫はベッドからも見える。正確には、台所の角が少し見えて、その先に扉の白い縁があるだけだった。
電気を消すと、白いところだけがぼんやり残る。
眠りかけたころ、また、かり、と鳴った。
翌朝、卵が一つ割れていた。パックの中で、殻の上半分だけが内側から押し上げられたみたいにひび割れて、透明な白身が少しだけ流れている。生卵を床に落としたときみたいな派手さはなくて、なにかが中からゆっくり押したような裂け方だった。
気持ち悪い、と思った。思った瞬間、胃がきゅっと縮んで、何も飲んでいないのに酸っぱいものが上がりかけた。
けれど、出勤前だった。燃えるゴミの日で、乗る電車も決まっている。沙也加は割れた卵を流しに捨てて、パックごとビニール袋に入れ、冷蔵庫の棚をアルコールで拭いた。拭いているうちに、卵なんて古かったら中で圧がどうとか、そんな話を前に聞いた気もしてきた。
会社でその話をすると、隣の席の野村が「あるあるじゃない?」と笑った。
「うちの実家の冷蔵庫なんて、夜中ずっと変な音してたよ。たぶん古いやつ」
「卵、内側からああいうふうに割れる?」
「知らない。爆発でもしたんじゃない?」
適当な言い方で、野村はパソコンに向き直った。会議のチャット通知が鳴って、その話は終わった。
終わったはずなのに、昼休みにコンビニで卵サンドを見たとき、沙也加は少しだけ足を止めた。白身の断面が、妙に生々しく見えた。買わなかった。
帰宅すると、部屋が少し冷えていた。朝、エアコンは消した。窓も閉めた。なのに、玄関を開けた瞬間、冷気というより、湿った暗いところに手を差し入れたような感じが足元に触れた。
冷蔵庫は動いていた。ぶうん、と鳴っている。いつも通り。
靴を脱いで、買ってきた牛乳を入れようとしたとき、違和感に気づいた。上段の奥、豆腐のパックの向きが変わっている。昨日、ラベルが正面を向くように戻したはずなのに、今日は横を向いていた。
その程度のこと、見間違いかもしれない。自分で朝なにか触ったのかもしれない。
でも、その瞬間、背中に汗が出た。
誰か入った、という発想より先に、冷蔵庫の中だけが少しずつ勝手に動いているような嫌悪感がきた。部屋全体じゃない。家具でも窓でもない。あの白い箱の中身だけが、留守のあいだに、こちらの知らない順番で触られている。
その夜、沙也加はコンビニで小さい見守りカメラを買った。ペット用、と箱に書いてある。スマホで見るやつ。こんなものを買っている自分を、誰にも知られたくなかった。部屋の本棚の上に置き、レンズが冷蔵庫の前を向くようにした。
設定を終えてから、少し迷って、冷蔵庫の中にもスマホを入れてみようかと思った。もちろん無理だ。冷えるし、撮れたところで曇る。そんなことまで考えている自分に腹が立った。
ベッドに入って、アプリの映像を見る。画面の中の自分の部屋は、実際の部屋よりよそよそしく見えた。冷蔵庫の扉はただの白い板で、そこに何かあるようには見えない。
午前一時すぎ、眠気に負けて目を閉じた。
喉がひどく乾いて目が覚めたのは、三時二十二分だった。
最初、自分が何で起きたのかわからなかった。耳の奥で、まだ音が続いていた。かり、ではなく、もう少し長い。濡れた爪で、内側から面をなぞるような音。
沙也加は起き上がれなかった。頭はまだ半分寝ているのに、身体だけがはっきり怯えていた。心臓が速い。布団の中で膝が震えて、歯の根が浅く合う。音は続く。冷蔵庫から。
スマホを探る。落としそうになりながらカメラのアプリを開く。少しラグがあって、真っ暗な画面のあと、部屋が映った。
冷蔵庫の扉が、少し開いていた。きちんと閉めたはずなのに、一センチか二センチほど、口を開けている。その隙間から庫内灯の白い線が漏れて、床に細く落ちていた。
そこで、映像が一度乱れた。
ぶつ、とノイズが走り、次の瞬間、冷蔵庫の前に誰か立っていた。
息が止まった。
暗くて輪郭しか見えない。背の低い人影。髪が長いのか、頭のまわりが黒くぼやけている。こちらに背を向けて、扉の隙間を覗き込んでいた。
叫ぼうとして、声が出なかった。肺が固まったみたいに、吸うことも吐くことも下手になる。全身の毛穴が開いて、指先が痺れた。
人影が、ほんの少し、首だけこちらへ傾けた。
映像が止まった。
スマホの画面には読み込み中の丸が出たままになり、沙也加はベッドの上で凍りついた。部屋は静かだった。冷蔵庫の駆動音もしない。静かすぎて、耳鳴りがした。
警察、と思った。けれどもし今、部屋の中に誰かいるなら、通話の声を聞かれる気がした。起き上がって玄関まで走ればいい。けれど、その途中で台所を横切る。視界の端に白い扉が入る。そのことを考えただけで、胃がよじれた。
長い数分が過ぎた気がした。
やがて、ぶうん、と冷蔵庫がまた鳴り始めた。
その音で、逆に少しだけ動けた。沙也加は布団から抜けて、靴も履かずに玄関へ行った。目を冷蔵庫に向けないようにしたのに、結局、途中で見てしまった。
扉は閉まっていた。
白く、まっすぐに。
玄関を開けて廊下に出ると、脚の力が抜けて座り込んだ。冷たい床に手をついて、しばらくそのままだった。向かいの部屋のドアの下から光が漏れていて、人が起きていることがありがたかった。
結局、その夜はビジネスホテルに泊まった。
朝になって部屋へ戻ると、荒らされた様子は何もない。財布もパソコンもある。窓も閉まっている。カメラを確認すると、三時二十二分以降のデータだけが壊れていた。そこだけ再生できない。
管理会社には、防犯カメラの確認を頼んだ。でも、エントランスにも廊下にも、夜中に出入りした人はいないと言われた。合鍵の管理も問題ない、とのことだった。
「最近お疲れじゃないですか」
電話口の女の人はやわらかく言った。
その言い方が、妙に残った。
その日から、沙也加は冷蔵庫を買い替えるつもりで家電サイトを見た。見たが、寸法を測る気になれない。扉を長く開けるのが嫌だった。中を見たくなかった。数日、コンビニ弁当で済ませた。
牛乳は台所に置いたまま腐らせた。
冷蔵庫を使わないと決めても、音はする。夜になると、ぶうん、と鳴る。ときどき、その間に、かり、と混じる。使っていないのだから気のせいだと、自分に言い聞かせる材料はいくらでもあるのに、音を聞くたびにみぞおちのあたりが冷たくなる。
ある晩、帰宅して電気をつけたとき、流しの横に水滴が落ちていた。天井からではない。冷蔵庫の下から、細い筋になって床へ伸びている。霜でも解けたのかと思って近づいた瞬間、甘いような、生臭いような匂いがした。
しゃがみこんで、床を拭くためにティッシュを当てる。
透明だと思った水は、少しだけぬめっていた。
手のひらがすぐ離れた。反射だった。ぞっとして、尻もちをつきそうになる。ティッシュの上で、液体はほんのり白く曇って見えた。
冷蔵庫の扉を開ける勇気が、しばらく出なかった。
でも、開けないままにもできなくて、沙也加は口元を手で押さえながら取っ手を引いた。
庫内は、明るかった。
そして、見慣れないものが一つ、上段の奥に置かれていた。
透明の小鉢だった。
自分のものではない。安っぽいガラスで、縁に欠けがある。その中に、水が半分ほど入っている。水だと思ったのは一瞬で、よく見ると少し濁っていた。
中に、髪の毛が一本沈んでいた。
長い、黒い髪だった。
声が出たかどうか、自分でもわからない。喉が勝手に閉じて、視界が揺れて、胃の底がひっくり返る。扉を閉めようとして手が滑り、小鉢が揺れた。ちゃぷん、と音がした。
その音で、沙也加は後ろへ飛びのいた。
小鉢の水面が、揺れながら、冷蔵庫の灯りを映していた。そこに、顔みたいなものが一瞬見えた気がした。自分ではない。もっと平たくて、白くて、濡れているような。
扉を強く閉めた。
そのあと何をしたのか、順番が曖昧だ。鍵とスマホと財布だけ持って、また部屋を出た。駅前のファミレスで朝までいた。途中で何度か涙が出たが、怖いのか疲れているのか、自分でもよくわからなかった。
翌日、兄を呼んだ。
ひとりで戻りたくなかった。兄は最初、半信半疑だったが、沙也加の顔を見て何も言わなくなった。部屋に入ると、兄はまっすぐ冷蔵庫へ向かった。
「開けるぞ」
「待って」
止めた声が震えた。胸の奥が急に冷たくなって、脚が一歩も動かなくなる。兄が怪訝そうにこちらを見た。
「何」
「……なんでもない」
兄は扉を開けた。
中には、見慣れた空の棚しかなかった。
小鉢はない。水滴もない。匂いもしない。
「何もないじゃん」
「昨日あったの」
「写真は?」
「……撮ってない」
兄はしばらく黙っていた。責めるでも慰めるでもなく、ただ少し困ったような顔をした。そういう顔をされるのが、いちばん堪えた。
結局その日に冷蔵庫は処分した。兄と業者が運び出していくあいだ、沙也加は玄関の脇に立っていた。白い箱が横倒しになったとき、一瞬だけ、扉が自分から開きかけたように見えた。中は暗くて、よく見えなかった。
新しい冷蔵庫が届いてから、音は静かになった。卵も割れない。豆腐の向きも変わらない。水滴もない。生活は元に戻ったように見えた。会社に行って、帰って、食事をして、シャワーを浴びて眠る。誰かに話すこともなくなった。兄とも、その件には触れない。
ただ、ときどき、スーパーで小鉢売り場の前を通ると足が止まる。縁の欠けた透明の器なんて、どこにでもあるはずなのに、同じものは見つからない。
それと、冷蔵庫の卵パックを取るたび、ひとつだけ、必ず数えてしまう。
六個。六個ある。
昨日も六個だった。
今日も六個。
けれど今朝、閉める直前に見えた上段の奥に、卵ではない、白い丸いものが一つあった気がした。見間違いだと思って、扉を閉めた。
閉めたあとで、買ったのは六個入りではなく、五個入りの特売だったことを思い出した。
思い出したのは、駅へ向かう途中だった。足が止まりかけて、でもそのまま歩いた。引き返す理由が、うまく言葉にならなかった。
冷蔵庫の中は見なければ静かだ。
見なければ、たぶん、ただの冷たい箱のままでいてくれる。




