なんかやっちゃいました?
白い糸が、ソネットの口から静かに吐き出された。
粘りを持つ繊維が空気中で細く伸び、光を受けて鈍く輝く。その瞬間、周囲の空気が凍り付いた。見張りの虫人たちが一斉に後退する。誰も声を出さないが、恐怖だけが伝播していく。
菌糸。
誰もが同じものを連想していた。白い繊維というだけで背筋が冷える。この世界で何度も聞かされた死の象徴が、目の前に現れたように見えたからだ。
だが糸はゆっくりと青年の傷口へ落ち、絡みつくように巻き付いていく。侵入ではない。覆うような動きだった。繊維が幾重にも重なり、失われた腕の切断面を固定していく。
数秒後、血の滲みが止まった。少しだけ、彼の呼吸が落ち着いたように見えた。
沈黙が続く。誰も近づかない。やがて、最初にマキちゃんが一歩前へ出た。観察するように青年の傷口を見下ろす。
周囲の虫人たちも、徐々に警戒を解き始める。菌糸ではない。理解が遅れて広がる。
ユウヤは息を吐いた。
「……お前、そんなんできたん?」
ソネットは何事もなかったように振り返り、てててと歩いて戻ってくる。その仕草に誇示はない。ただ自然に行動しただけという様子だった。
その行動の意図や意味は、ソネットのみぞ知るのだった。
*****
空気が落ち着きを取り戻したあと、ユウヤはもう一度黒翼の少女へ近づいた。今なら少しは警戒が解けているかもしれない。そう考えたのは、完全に希望的観測だった。
少女の近くにしゃがみ込み、できるだけ穏やかな声を作る。
「えっと……俺、敵じゃないから」
少女は反応した。だが翼がばさりと動き、顔を完全に隠す。震えが伝わってくる。拒絶というより恐怖だった。
短い言葉が再び発せられる。鋭く、速い異世界言語。意味は分からないが、近づくなと言っていることだけは理解できた。
「ダメかぁ……」
背後でマキちゃんも小さく肩を落としたように見えた。方法がない。言葉が通じない以上、どうしようもない。
彼女までの距離は数歩しかないのに、埋められない隔たりが横たわっていた。
何も進展しない時間が流れる。誰も動かないし、何も変わらない。
その停滞を破ったのは、軽い足音だった。
振り向くと、これまた馴染みの学術バッタが通路の奥に立っている。
「……ライダー?」
命名の理由は言わずもがな、である。相変わらず整った姿勢で、感情を読ませない目をしていた。
彼は言葉を発しない。ただ腕を上げ、こちらへ来るように指示する。
理由は分からないが、呼ばれたのならついていくまでだ。ここに残っても、現状、自分にできることはなさそうだ。
ユウヤは最後に檻を振り返った。黒い翼はまだ震えている。状況は何一つ解決していない。おそらく、虫人たちはどうしたらいいか困り果てた末に、ユウヤに期待を寄せたんだろうけど、彼は何もできなかった。
無力感と情けなさから、ユウヤは小さくため息をつき、歩き出した。
*****
ライダーに導かれ、ユウヤは街の中心区画へ向かって歩いていた。見慣れた市場の喧騒は背後へ遠ざかり、石造の建物が次第に規則正しく並び始める。通行する虫人の数も減り、代わりに広い空間と整えられた通路が増えていった。自然と背筋を伸ばしてしまうような、用途の分からない威圧感が周囲に漂っている。
やがて視界が開け、例の尖塔が真正面に現れた。ユウヤは足を止める。
街へ来たばかりの頃から何度も遠目に見ていた建造物だった。どこからでも見える、街の中心そのもの。巨大な山のようでありながら、表面は不自然なほど滑らかで、自然物ではないと分かる奇妙な存在。遠くから見上げた時にも十分に異様だったが、間近で見ると尺度が完全に狂う。
思わず首を反らせる。
「……近くで見ると、やっぱデカいなこれ」
独り言のように呟く。初めて見たわけではない。だが“入る側”に立つと印象がまるで違った。街の景色の一部だったものが、急に目的地へ変わったことで現実味を帯びる。
肩の上のソネットへ小声で話しかける。
「観光スポットとかじゃないよな、ここ。絶対、遺跡か何かだよな」
ソネットは「分からない」といった感じに小さく頭を傾ける。
塔の基部には巨大な開口部があり、そこへ続く道だけが不自然なほど空いていた。周囲の虫人たちはユウヤを見ても近寄らず、自然に距離を取って道を譲る。その態度が歓迎ではなく、立ち入る資格を持つ者への無言の配慮のようにも見えた。
ユウヤは落ち着かない様子で歩き出す。
「いやほんと、どこに連れてく気なんだよ……」
入口をくぐった瞬間、空気が変わった。外の石造建築とは明らかに異なる質感。壁面は滑らかで継ぎ目が少なく、均一な淡い光が縦に走っている。光源が見当たらないのに明るさが保たれていることが妙に現実離れしていた。
ユウヤは周囲を見回しながら歩く。
「……なんかさ、これ、高層ビルの中みたいじゃない?」
声が自然と小さくなる。天井は高く、吹き抜けのような空間が上方へ続いている。階層構造らしき通路が幾重にも重なり、見上げても終わりが見えない。石の街とは別世界だった。
壁に手を触れる。
「エレベーターとかありそうな雰囲気なんだけど」
冷たい感触が指先に伝わる。石ではないが、金属とも断言できない不思議な素材だった。ところどころに埋め込まれた透明な板の内部では微かな光が流れ、完全には死んでいない設備であることを示している。
歩くほどに周囲の虫人の姿が減っていく。やがてライダーとユウヤ以外の気配が消え、足音だけが静かに続いた。
反響しない静寂が耳に残る。
ユウヤは小さく息を吐く。
「……なんか入ってみると、会社の本社ビルの奥に連れてかれてる気分なんだけど。俺なんかやっちゃいました?」
ソネットへ視線を向けるが、幼虫は変わらず静観しているだけだった。その落ち着きが、逆に逃げ場のなさを感じさせる。
「さっきから俺、ずっと独りごと言ってるみたいじゃね? ラノベの序盤読んでて、たまに『この主人公、独り言多すぎィ!』って思ってたけど、なんか気持ちわかってきたわ」
妙な緊張感を紛らすように、軽口を叩きながらしばらく歩くと、通路の先に巨大な扉が現れた。円形構造の重厚な扉で、周囲とは明らかに格の違う装飾が施されている。ここが中心部なのだと説明されなくても分かった。
ライダーが操作板へ触れる。低い振動が床を伝い、扉がゆっくりと左右へ開き始めた。
内部から流れ出る冷たい空気に、ユウヤは思わず肩をすくめる。
「……ここに入るの?」
ライダーが態度で促す。
開かれた先は、まだハッキリとは見えないが、重苦しい雰囲気が漂っているのを肌で感じた。
ユウヤは一度だけ振り返り、逃げ道がないことを確認してから、小さくため息をつき、議長区画へ足を踏み入れた。




