無力
翌朝、石壁に反射する淡い光で目が覚めた。朝といっても、この街では鳥の声も喧騒もない。ただ遠くで微かに脚音のような振動が続いているだけで、時間の感覚が曖昧になる静けさが広がっている。
寝返りを打ちながら、昨日の出来事を思い出しかけてやめた。思い出したところで飲み込める気がしなかったからだ。
ベッドでウダウダしてたら、部屋の入口に影が差した。ノックはない。気配だけが現れる。この世界ではそれが訪問の合図らしい。
体起こしてそちらをみると、顔馴染みのカマキリが立っていた。長い前脚を静かに折り、こちらを見ている。表情は読めないが、急かしている様子でもない。ただ、待っている。
数秒の沈黙のあと、前脚がゆっくりと通路を指した。来い、という意味だけは分かる。
苦笑しながら言う。
「おはよう。お迎えご苦労さん。」
当然返事はない。カマキリは微動だにせず立っている。
ユウヤが立ち上がろうとすると、腹の上にいたソネットが肩の上までよじ登る。産まれてから数日しか経ってないのに、気がつけば肩が凝るほど重く大きくなっていた。そろそろ降りてくれません?
訪問の理由を聞いても無駄だともう学習していた。だけど、何もしゃべらないのもどうかと思ったので、何気なく口を開く。
「そういえばさ、カマキリのおっさん――」
言い終わる前に、ソネットが頬を尻尾で叩く。
「え!?何が?」
最近のソネットは、俺が間違っている時、声じゃなくツッコミを入れる。反抗期かしら? 重量が増えたもんだから、なかなか効く。
「何だってんだよ……。あー、ごめんごめん、おっさん、お恥ずかしいところをーー」
さらにもう一撃。明確な抗議だった。ソネットさんは何だか呆れ顔?
先ほどの自分の言葉を分解して、一瞬考え、一つの答えを導き出す。
「……え、まさか、女性でした?」
生きてきた中で、1番失礼な質問だったと思う。ソネットの反応を見て、ユウヤは慌てて背筋を伸ばした。
「すみませんでした!」
勢いよく頭を下げる。反動でソネットがずり落ちて、ものすごく怒ってる。
カマキリは目の前で何が起こっているのか、わからない様子だったが、こういうのは誠意が大事だ。言葉が通じないからと言って、うやむやにしちゃいかん。
カマキリは、「そろそろいいか」というような仕草で再び外を指し示す。
俺は床で怒ってるソネットを拾い上げ、OKの意味を立てた親指で示した。指のない世界では無意味だが。
「じゃあ……案内よろしく!マキちゃん!」
我ながら安直だが、カマちゃんだとマズイと思ったからな。
カマキリ––マキちゃんは否定もしない。姿勢も変えない。ただ、先ほどまで感じていた微妙な圧が消えた気がした。
肩の上のソネットも満足したように動きを止める。どうやら問題は解決したらしい。なんか、朝からどっと疲れたな……。
マキちゃんの後を追いながら街中を進む。石壁の連なる道を進むにつれ、見覚えのある方へ向かっていることに気づいた。
「あー……何だか妙に懐かしく感じるわ」
この世界で最初のマイルーム。予想通り、そこには昨日空から降ってきた2人が収監されていた。
*****
檻の周囲には、以前とは違う緊張が漂っていた。見張りの虫人たちは数こそ多くないが、みんな緊張感を漂わせていた。誰も近づきすぎない距離を保ち、互いに位置を確認し合うように立っている。その空気が、ここに収容されている存在の危険性を無言で伝えていた。
ユウヤは鉄格子の向こうを覗き込む。奥の壁際に、小さな影が縮こまっていた。黒い翼、それは装飾品などではなく、生き物の一部だと理解するまで少し時間がかかった。翼が身体を包み込むように閉じられ、外界を拒絶している。少女は既に目を覚ましていた。だが顔は見えない。わずかな動きにも反応し、翼の端がぴくりと震える。
ユウヤは慎重に一歩近づく。敵意を見せないよう、両手を軽く上げた。
「えっと……大丈夫?」
声をかけた瞬間、翼の隙間から鋭い視線が覗いた。恐怖と警戒が混ざった目だった。次の瞬間、聞き取れない言葉が鋭く放たれる。高低差のある古い響き。怒鳴るというより、拒絶の宣告に近い声音だった。
意味は分からない。だが拒否されていることだけは痛いほど伝わる。少女は後ずさり、翼をさらに強く閉じた。明確な距離の拒絶。
ユウヤは立ち尽くしたまま苦笑する。
「……あー、やっぱり通じないかー」
期待していたわけではない。それでも、どこかで会話できる可能性を考えていた自分に気づき、少しだけ肩が落ちた。
背後でマキちゃんが腕を組むような姿勢を取っている。どうすればいいのか分からないという点では同じらしい。
檻の奥では少女が、依然としてこちらを睨み続けていた。恐怖が消える気配はない。むしろ、人型であるユウヤの存在が警戒を強めているようだった。
希望は、声をかけた瞬間に終わっていた。言葉が通じないという事実が、静かに場を冷やしていく。
*****
檻の反対側、壁際にはもう一つの影が横たわっていた。最初は荷物か何かに見えたが、近づくとそれが若い人間の男であることが分かる。年齢は自分と同じか、少し若いくらいか? 呼吸は浅く、不規則だった。服はあちこち破れて、地肌が見えていて、ところどころ血が滲んでいた。
右腕は肘から先が存在しなかった。子供が落とされた腕と同じ方の腕であることに気づき、思わず息を呑む。紐状のもので止血はされていたが、完全に止まってはいないようで、赤黒いシミが地面に広がっていた。それ以上の治療の痕跡は見当たらず、死ねばそれまでという虫サイドの意思がそこにはあった。
ユウヤは思わず視線を逸らしかけるが、踏みとどまる。残酷というより、結果だけがそこにある光景だった。昨日の混乱が頭をよぎる。子供虫の腕。悲鳴。そして群がった虫人たち。報復は早く、そして容赦がなかった。
青年は意識を失ったまま動かない。口元からかすかな呼吸音だけが漏れている。生きてはいるが、会話など到底できる状態ではない。
ユウヤは小さく息を吐いた。
「……このままじゃ、死ぬよな」
返事は当然ない。マキちゃんが一歩前へ出て、青年の様子を確認するように屈む。その動作は事務的だった。感情ではなく管理に近い。
檻の空気は重かった。少女は怯え、人間は半死。何かをしなければならない気がするのに、何もできない。
そのとき、肩の上でソネットが動いた。小さな体がゆっくりと前へ降りる。床に着地し、ためらいなく男の方へ進み始めた。
周囲の虫人が一斉に反応する。何をするつもりなのか、と視線が集中する。
ソネットが青年の傷口の前で止まる。次の瞬間、口元がわずかに開いた。




