崩壊の兆し
議長室は静寂に満ちていた。
壁際に淡い光を放つ照明が等間隔に並び、鈍色の内壁を照らしている。天井は高く、海図のような絵が刻まれた長楕円体が宙に浮いている。
座標らしき点群は、意味を失ったまま微かに明滅し、やがて消え、また別の線が浮かび上がる。それらは今や誰も理解し得ない古代の記録だった。
中央に据えられた席に、議長の女王蜂は座していた。玉座というよりは制御椅子に近い形状で、壁と同系統の材質で造られているようだった。
彼女は手元の記録媒体上に視線を滑らせるだけで、微動だにしない。長く統治してきた者だけが持つ圧力が、部屋全体に広がっていた。
足音が一つ、扉の外で止まる。続いて、控えめな開閉音。バッタ型虫人が室内へ入ったが、その足音すらほとんど響かない。音が吸われていく。彼は数歩進み、一定の距離で膝を折った。
女王蜂は視線をタブレットから動かさないまま、わずかに息を吐いた。
『……また異物だとか?』
問いというより確認だった。驚きはない。むしろ、予想していた出来事を再確認するような声音だった。長く抑え込まれた疲労が、声の端にだけ滲んでいる。
バッタは一拍置き、言葉を選ぶように口を開いた。
『はい。観測ログ、古代記録双方と照合済みです。前回の異物の混入とは明確な差異が存在します』
バッタが一度、目線を女王蜂に向ける。
『続けろ』
『はい。まず、発生地点は上空。その際、前回のような時空歪曲は見られませんでした。その代わりに、上空から破裂音がしたと多くの方の報告が上がっております』
女王蜂の脚先が、肘掛けをわずかに叩いた。規則性のない、小さな動き。考えているときの癖だった。
『……上空』
女王蜂はようやく視線を報告者へ向けた。黄金に近い複眼が、光を反射せず沈んだ色をしている。
バッタは姿勢を崩さないまま続けた。
『落下した二体のうち、一方は敵性生物ワートゥと判定されます』
女王蜂の肩が、ほんのわずかに下がった。深く、長い息が漏れる。
『はぁ……やはり滅んでなかったか』
嘆きでも驚きでもない。長い年月抱いていた希望的観測が、裏切られたことに対する失望。彼女は視線を外し、天井の暗がりを見上げた。
『……もう一方はヴァーワです。翼が黒であること以外、特筆すべきことはありません』
『黒……。気にするほどのことではないとは思うが……』
『なにぶん当時のログが断片的なので、なんとも言えませんが、色自体に大きな意味はないと考えるのが妥当かと』
女王蜂が腕を組み、椅子にもたれかかる。
『短期間に、こうも不確定要素が増えるとはな……』
バッタは言葉を続ける前に、わずかに躊躇した。それを感じ取り、女王蜂が茶化す。
『あまり良くない報告が残ってるようだが?』
『……観測結果によると、二体は天蓋付近より同時に落下しています』
女王蜂は反応を示さない。続きを待つ沈黙。
『落下直前、上層チャネルに異常開口を確認しました。既存ログに無い挙動です』
言葉は慎重に選ばれていた。 “崩壊”という語を避けている。だが意味は同じだった。
女王蜂の指先が止まる。
『……チャネルが?』
『はい。構造維持値が急落しています。自然劣化の範囲を逸脱しています』
バッタの声は変わらないが、報告の速度がわずかに遅くなる。それが何を意味するかを理解されていると分かっているからだ。
女王蜂は目を閉じた。数秒の沈黙。壁面の光が一つ、完全に消えた。
『とうとうイカレたか……クヴめ……』
低く吐き捨てるような独白だった。
バッタが次の資料を提示しようと腕を上げかける。しかしその動きを、女王蜂が片手で制した。
無言の制止。
報告は止まる。
沈黙が落ちる。
時間の感覚が曖昧になるほど長い数秒だった。遠くに置かれた装置の光だけが周期的に明滅する。
女王蜂の目が開く。その瞬間、議長室の空気がわずかに変わった。迷いが消え、統治者としての判断だけが残る。
『異物をここに呼べ』
命令は短かった。だが即断だった。検討も確認も挟まない決定。
バッタは一瞬だけ顔を上げた。
『最初に現れた方ですね?』
確認のための問い。だが答えは既に理解している。
『そうだ』
間髪入れず返答が落ちた。
女王蜂は背もたれに体を預けたまま、天井を見上げた。長い年月の疲労が、わずかに姿勢に現れる。だが声は揺れない。
『永く停滞した世界がこじ開けられようとしている』
バッタは無言で頷いた。確信に近い予測––。女王蜂が続ける。
『先手を打たねば、待っているのは――』
間。壁面の光がすべて一瞬だけ暗転する。
『速やかな滅びだ』
言葉が落ちたあと、議長室は再び完全な静寂に包まれた。世界の流れだけが、確実に変わり始めていた。




