Fallen wings
市場がある中心広場を、俺は両腕いっぱいの荷物を抱えて歩いていた。クモ爺は無言で先を行く。ソネットが肩でくつろいでいる。平和だ。実に平和だ。
その時だった。
――ポンッ。
乾いた破裂音が、真上から落ちてきた。
「……ほぇ? 花火?」
この世界に花火文化があるとは思えないが、音の感じがそれっぽかった。俺だけがきょろきょろしている間に、周囲の虫人たちは一斉に動きを止めた。誰かが空を見上げる。それに釣られて全員が見上げる。
ざわ、と空気が変わる。俺には分からないが“異常”が共有された感じだ。俺も遅れて空を見る。青い空のど真ん中に、黒い点があった。くるくると回転しながら、だんだん大きくなる。
「……なんか落ちてきてない?」
布? いや、鳥だ。虫以外の生物がいたのか?
いや、違う。羽根みたいなものが見えるが、腕もある。
心臓が変な音を立てた。
「……人、じゃね!?」
ラピュタかよ、と一瞬思う。だがロマンに浸る暇はない。落下速度がシャレになってない。あれは助からない系の速さだ。
俺は反射的にクモ爺を見る。
「クモ爺!糸!糸出して!早く!」
クモ爺は無言で俺を見る。
「いや蜘蛛だろ!?糸でキャッチとかあるだろ!?」
「ププーッ!」ソネットが肩で頭を横にぶんぶん振ってる。あ、出せないんだ。俺はまた地球の常識ベースで虫人たちを見てしまっていた。
「じゃ、どうする!?」
空を見上げる。黒い影がどんどん大きくなる。空気抵抗が大きいのか、思ったよりも加速はない。でも、あのスピードで石畳に叩きつけられたら――
俺の背中を冷たい汗が伝う。その時、前に出た影があった。丸みを帯びた甲殻のカナブン型の虫人が数人、落下予測地点に集まり始めた。次の瞬間。
モキュッ。
お尻のあたりから、緑色の半透明な塊が押し出された。
「え?」
モキュ、モキュ、モキュ。
複数体が一斉に同じ動きをする。緑色の物体が地面に積み重なり、ぷるん、と膨らむ。空気を含み、弾力を持ち、瞬く間に巨大なゼリー状の塊が形成される。
「ちょ、待て……あれ、俺がいつも食ってるやつじゃね……?」
この状況で知らされるショッキングな新事実。でも今はそれどころじゃない。黒い影が真上に来る。
――ジュボン!
硬すぎず柔らかすぎない音とともに、緑色の塊が大きく波打つ。衝撃が吸収され、中央が深く沈む。ゼリーの破片が少しだけ散った。
そして静寂。市場のざわめきが完全に消える。緑色の塊の中央に、黒い影。
俺は荷物を投げ出して駆け出した。クモ爺も遅れて近づく。ゼリーの縁をかき分ける。そこにいたのは、見慣れない服装の、まるで大きな鳥のような仮面をかぶった人(?)と、黒い翼を持つ黒髪の少女だった。
俺は思わず呟いた。
「……イベント発生?」
******
俺はしばらく呼吸を忘れていた。
緑色のゼリーの脇に、二つの人影が並べられている。一人は黒髪の美少女。少し変わった民族衣装的なものを着ているがまぎれもなく人間の形をしている。ただし、体のサイズと同じくらい大きな黒い翼が背中についていた。
一方、妙な仮面を被った人間型の何か。一目で人間と判断できないのは、その異様な仮面のせい。
これは、あれだ。いつか歴史の授業でみた、ヨーロッパのペスト医師がかぶってた鳥型のマスクだ。それを頭にかぶっているもんだから、本当に人間なのかまだ確信が得られない。ただ、やはり服を着ているという点では、虫人とは明らかに異なる文化の存在だろう。
この世界に来てから、初めて見る“自分に近い形”。心臓がどくんと鳴る。混乱より先に、期待が湧いた。
(イベントだ)
脳内で鐘が鳴る。空から落ちてくる黒翼の天使。鳥頭の人。物語が急展開を迎えたってやつだ。
周囲を見れば、虫人たちは半円を描いて距離を取っている。誰も近づかないが、誰も逃げない。敵意というより警戒。様子見の空気だ。ざわめきだけが低く広がる。
俺は一歩踏み出す。そのとき、鳥頭の中から低く唸るような声が響き、体が少し動いた。
何か声を発しながら、体を少し起こし、周囲を見渡す。肩がびくりと跳ね、荒い呼吸が漏れる。仮面の奥の目が見開かれ、視線が泳ぐ。次の瞬間、恐怖で絞り出したような悲鳴が広場に響く。
鳥頭は囲みから転がるように逃げ出し、尻もちをついたまま後退する。俺は反射的に手を伸ばしかけるが、間に合わない。男は腰から短剣を抜いた。刃がギラリと光る。
「ちょ、待て!」
俺の声より先に、男の腕が振られる。狙いは定まっていない。ただ、近づく影を払うための無差別な動き。虫人たちは後ずさるが、逃げ遅れた小さな影と短剣が重なり、乾いた音がした。次の瞬間、透明な赤い体液が弧を描く。小さな腕が、遅れて石床に落ちた。
子供虫の悲鳴が、広場を裂く。空気が裏返る。
さっきまで様子を見ていた虫人たちが、一斉に男へ飛びかかる。殴打、衝突、蹴り。短剣は弾かれ、男の身体が地面に叩きつけられる。
「あ……、やめ……」
声が出ない。体が動かない。ここ数日、見て感じた虫人たちの生活は平穏そのものだった。この世界は何事もなく、このまま平和に続いていくんだろうなという予感すらするほどに。それが、突如現れた異物によって一変した。
みんな、穏やかな生活を送っていたときと同じ表情。でも、目だけがいつもと違って燃えるように赤くなっていた。
グッ、と奥歯をかみしめて、勇気を振り絞り、飛び出す。
「ま、待ってくれ!!」
甲殻と脚の壁が前を塞ぐ。割り込もうとするが、跳ね飛ばされてなかなか入れない。
(あいつはたぶん人間だ。俺と同じ形の。早く助けないと。でも、あいつは子供の腕を切った)
頭がぐちゃぐちゃになる。虫人側からすれば当然だ。子供を傷つけた存在を放置できるわけがない。理屈より先に守る本能が出る。
殴打の音が続く。俺はみんなを止められず、拳を握るしかなかった。
*****
鋭い衝撃音が地面を叩いた。いつものカマキリ型が割って入る。鎌を石床に打ちつけ、もう一度強く鳴らす。高い音が広場を震わせる。
みんなの動きがようやく止まり、荒い呼吸だけが残る。鳥頭を嬲っていた虫人たちは数歩後退する。怒りは消えていないが、統制が戻る。男は半死状態で横たわり、息も絶え絶えだ。仮面は少しずれている。
カマキリ型がそれを弾き飛ばす。露わになった顔は、若い人間の男だった。血と土にまみれ、目は虚ろだ。
「……やっぱり……」
現実感が一気に押し寄せる。こいつ、本当に人間だ。
黒翼の少女はまだ意識がない。クモ爺が静かに近づき、状態を確認している。指示が短く飛び、二人は担がれる。向かう先は、以前俺が入れられたあの檻のようだ。観察対象だった俺の時とは違い、明らかに敵対生物に対する監視体制がとられた。
広場のざわめきは徐々に収まる。俺は立ち尽くしたまま、遠ざかる背中を見る。クモ爺に肩を軽く叩かれ、家に帰れという合図を受ける。カマキリも俺を見てうなずく。肩のソネットはジッと檻のほうを見ている。
物語の匂いは、さっきよりもずっと重くなっていた。




