影のヒーロー
治療所の空気にも、だいぶ慣れた。焦げた匂いと乾いた石の床、炉の赤い光。最初は「うわ医療現場こわ」とか思っていたのに、今では白糸の束を見ても「あーはいはい、こいつね」くらいのテンションで手が動く。
俺は、彼をクモ爺と呼ぶことにした。地下にいて、たくさんの手でいろいろなことを同時にする姿が、誰かを連想させたからだ。ここで働かせください、ってやつね。
今日も、目の前では虫人の患者が横たわる。関節の隙間と呼吸孔にはいつもの白い糸が見える。クモ爺が器具を当て、俺が指で引き出す。呼吸孔の奥に入り込んだやつは俺の担当だ。手が器用なのと、この糸が俺にはまとわりつこうとしないからだ。
クモ爺の金属っぽい材質の脚もそうらしい。たまに千切れて飛んできた糸が生身の関節部分につくが、器用に自分で焼いていた。
クモ爺が短く音を鳴らす。たぶん「そこ」だ。もう言葉はなくても分かる。俺も無言で頷いて引き抜く。
「はい、摘出完了。今日もいい仕事してますね、先生」
返事はない。クモ爺は虫人にしても無口なほうだ。いわゆる職人肌ってやつかな。
処置が終わり、灰を密封する。俺が蓋を閉めると、クモ爺はもう次の器具を整えている。動きに無駄がない。俺も流れに乗る。数日で、助手ポジションが既成事実になった。誰も正式に決めてないのに、気づけば「そこにいる」前提で動いている。
それにしても……
「この糸みたいなのは一体何なんだ?」
俺の呟きを聞いてかどうだかはわからないが、クモ爺が俺を呼ぶ。処置室の奥の居室、さらにその奥にある地下への階段を降りていくと、不意に武骨な金属扉が目の前に現れた。
クモ爺が何かをしたのか、扉が、ゴン、ギィィと音を立ててひとりでに開く。その先は、サイズにして六畳程度の狭めの薄暗い部屋だった。クモ爺が壁のレバーを引くと、青白い光が天井の玉から広がる。
部屋が明るくなって一番最初に目に入ったものに俺は言葉を失った。透明な大きな筒状の容器に、クモ爺と同じフォルムの蜘蛛型虫人が入っていた。でも、これは……。
「死んでるのか……?」
俺がそう思ったのは、容器がホルマリン漬けのように液体で満たされているからでもあるけど、何よりもその蜘蛛の腹部から、つくしみたいな形のものが突き破って出ていたからだ。
「――冬虫夏草?」
まさか、あの糸が育ち切るとこうなるのか?俺が何の気なしで引き抜いていたあの白い糸は、どうやらこいつの菌糸だったらしい。俺は、今更ながらこの菌糸に、嫌悪を含んだ恐ろしさを感じた。
よく見ると、このホルマリン漬けの蜘蛛の脚も何本か機械仕掛けだ。
(クモ爺とはどういう関係なんだろう)
言っても伝わらないだろうけど、その疑問を口に出すのは何だか憚られた。
――クモ爺が容器を見つめる目があまりに寂しそうで。
*****
クモ爺に促されて俺は上階へと戻った。
悶々としながら片付けを終えると、クモ爺が奥の棚から袋を出した。脚で俺を軽く示す。
「買い出し?」
無言。
「はいはい、荷物持ちですね。助手ですもんね」
否定はない。つまり肯定だ。俺は肩を回し、ソネットを乗せ直す。
「行きますか、クモ爺」
市場は相変わらず騒がしい。乾いた声と甲高い音が混ざり、匂いも色も濃い。石の通路を行き交う虫人たちは、誰もが穏やかだ。
その中をクモ爺が進む。ざわ、と空気が一瞬揺れる。完全に静まるわけじゃない。ただ、ほんの少しだけ音量が落ちる。道が自然に開く。視線が逸らされる。でも、頭を下げる者もいる。子供は母に引き寄せられながらも、じっと見ている。
俺は、その雰囲気がとても気になった。
「クモ爺……、避けられてんのか?」
体を張って、危険な菌糸と孤独に戦っているクモ爺に対するこの対応に、俺は少し腹が立った。クモ爺のこの脚だって、本当は……。
その時、ソネットが肩で小さく鳴く。見ると、頭を小さく横に振っていた。あらためて、周りをよく見てみる。
誰かが小さな袋を差し出す。薬草だろうか。クモ爺は受け取る。礼は言わない。だが拒まない。別の店で野菜を量る虫人が、秤を傾ける。明らかに多い。代金を受け取らない。クモ爺は何も言わず袋を持つ。嫌われている、わけじゃない。避けられてはいる、でも、背中は向けられていない。
距離だ。嫌悪じゃない。恐れと尊敬が混ざった距離。クモ爺の地下にあった光景が一瞬チラつく。
「なんだ……、クモ爺、人気者じゃん」
返事はない。だが脚の運びがわずかに軽くなった気がした。




