夜襲、そして落下
山の麓の宿場町は、夜になると本来の姿を現す。昼は荷車と家畜の町だが、夜は金の匂いのする町だった。酒場の扉が開くたびに冷たい外気と埃が入り込み、代わりに笑い声が外へ漏れる。
壁には欠けた金属片や歪んだ器具が打ち付けられている。用途の分からない物品ばかりだが、ここでは装飾より価値の証明だった。
酒の回った声があちこちから上がる。
「この前出たのが銀貨三十だぞ、ただの板切れでだ」
「板じゃねえ、魔導具の外装だ。学者に売ったら跳ねた」
「結局使い道もわからず飾るだけだろ」
笑いが起きる。誰も否定しない。
「昔は近づくだけで死んだって話だがな」
「ひい爺さんのそのまたひい爺さんの頃の話だろ?魔族が出る山だのなんだの」
「どうせ酔っ払いがエルクと見間違えたとかじゃねぇのか?」
また笑い声が重なる。危険の記憶は酒の肴になっていた。
窓の外に見える山は、ただ大きいだけの黒い塊だ。険しく、登る意味がない。それが共通認識だった。
酒場にまた一人、新参者が姿を現した。常連たちは、その出で立ちにわずかな異質さを感じ取ったが、入れ替わりの少なくないこの業界、新参を気にするだけ無駄だと、すぐにまた自慢話に華を咲かす。
新参は酒場の隅でぬるいワインを飲みつつ、周囲の会話に耳を傾けていた。
「夜に飛ぶ影を見た」
「鳥だろ」
「違う。ありゃあ、きっとハーピィってやつだ」
「ハーピィはもっと南の湿気ったところに住むだろ?まるで正反対の土地だぞ、ここは」
「大方、巨大鷲が運ぶ死体を見間違えたんだろう」
話はそれ以上広がらず、誰も結論を出さない。どうでもよい話に、どうでもよい推論を混ぜて、与太話を完成させていく。日々こんな会話で盛り上がっているのだ。
ある程度話が落ち着いたころ、新参が先ほど話題の起点になった古参に、少し高価な酒をもって近づく。
「山の上の方って、夜は冷え込むか?」
新参に高い酒を奢られ、古参の男は上機嫌に重そうな舌を回した。
「おう、気が利くじゃねえか。……山はブツが出ねぇから登ったことあるやつは久しく聞かねえな」
「なるほど。そういえば、さっき夜空を飛ぶ影を見たとか……」
「たまーに、話が出んだ。まぁ、みんなお宝探しが目的だから、昼間は地面ばっか見てるし、夜に掘るもの好きもいねぇ。別に襲われるわけでもねえから、それ以上話題にはならねぇがな」
「群れか?」
「いや、一つだな。何年か前からだ。どうせ乾いた土地に住み着いたハーピィの亜種とかだろう」
古参の話を適当に切り上げ、新参が酒場から出ていく。出たすぐ先の路地裏に待機していた仲間へ視線を送る。短く、確認の合図のようだった。そのまま、一団は闇夜に姿を消した。
相変わらず酒場からは笑い声が漏れていた。
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朝の光が崖の上からゆっくり差し込む。風は強いが、ここではそれが普通だ。タウシィは竈に火を入れ、干した実を砕いて粥に落とす。湯気が立つころ、上空を仲間たちが横切っていく。翼が光を受けてきらめき、挨拶代わりに軽く旋回していった。タウシィは窓辺に器を置き、少しだけ位置をずらす。直射を避ける、いつもの角度だ。
広場では女たちが紐を編みながら話している。タウシィが座ると、すぐに話題が向いた。
「ねえタウシィ、この前の集まりでも話してたけど、あんまり一人で抱え込まない方がいいよ」
「そうそう、ほら、時間も経ったしね。まだ若いんだからさ、またそのうちって考えてもいいんじゃない?」
「旦那と二人で飛び回ってばっかりじゃ、考える暇もないでしょ。少し休みなさいってことよ」
タウシィは困ったように笑って頷く。手は止めず、風の向きの話へと自然に流した。相手もそれ以上は踏み込まない、そういう距離の優しさだった。タウシィは作業を終えると、会釈をして帰路へとつく。
家の窓は閉めてある。皆が皆、若い夫婦が我が子の死産で塞ぎ込んでいるため、と勘違いしているのは、心苦しいがとても都合が良かった。
少し汚れた食器が流しに置かれて、鍋の中の粥も少し減ってる。タウシィは少し微笑み、食器を洗い始める。
午後、夫のコロンゴは屋根を直し、タウシィは羽を整える。水を汲み、実を選り分ける。二人とも声をかけないが、互いを気にかけてる様子が垣間見える。
風が変わるたびコロンゴの視線が麓へ向き、タウシィの手が止まる。タウシィは戸口の陰を一度確かめてから竈に戻った。
深夜、家の奥で小さな気配が動く。窓がわずかに開く音。コロンゴとタウシィは気づいているが、寝返りを打つだけにとどめる。昼と満月の夜だけは外に出ないこと。家族以外には姿を見られないようにすること。それさえ守ってくれれば良い。
何気なく窓を開けて夜空を見上げる。最近、風の匂いが変わった気がする。タウシィは何も言わず、静かに窓を閉めた。
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新月の夜、麓の街とは真逆の位置にある、山頂近くの小さな集落。家々の戸は閉じられ、窓は布で覆われ、通路に動く影はほとんどない。上空に広がる空は広いのに、誰も飛ばない。静まり返った地上だけが生活の気配を残していた。
その静けさの中を、地を這う影が進む。仮面を被った人影が、翼を持たぬ歩き方で家々の間を抜ける。長い嘴のような面が揺れ動き、視線の先が不自然に尖る。彼らは歩幅を揃え、足裏を滑らせるように移動する。
「報告通りだな」
「やはり夜は外に出ない。目が利かないらしい」
「神の遣い、とはよく言ったものだ。空の民が地に縛られる夜か」
細い筒が戸の隙間へ差し込まれ、煙がわずかに流れる。中で物音が起き、戸が半ば開く。出てきた影は状況を把握する前に針を受ける。すぐに昏倒するわけではない。だが一歩、二歩と足取りが鈍り、やがて膝をつき、音を立てず倒れる。
別の家でも同じ光景が続く。抵抗は遅い。理解する頃には力が抜けている。叫びは短く、長く続かない。
仮面の一人が押し殺した声で笑う。
「麻酔が問題なく効くのは幸いだったな。羽を傷つけずに済む。」
「運ではない。観察の成果だ。飛ばぬ時間を選べば、空の優位は消える」
「なるほどな……しかし本当にいた。聖典の記述は偽りではなかったか」
興奮が抑えきれず滲む。彼らの動きはより滑らかになり、ためらいが消えていく。
そのとき、離れた家の戸が開いた。白い翼が闇の中揺らめく。コロンゴだった。異様な雰囲気に気づき、外へ出た瞬間、複数の気配が迫る。明らかな敵意に反射的に槍を構え、離陸の態勢をとる。刹那、翼に重い紐状のものが絡みつき、うまく羽ばたくことができずに無様に転倒する。すかさず腕に針が打ち込まれる。立ち上がろうと腕を踏ん張り、翼を広げようとするが力が入らない。
コロンゴは歯を食いしばり、声を張る。
「逃げろ!」
外から聞こえたコロンゴの声に、タウシィはすぐ反応した。躊躇わず家の一番奥の部屋の前へ駆け寄る。その時、扉が乱暴に開き、鳥のような仮面をした一人の男がのそりと入ってきた。そして、カンテラで照らされたタウシィの姿を見るや、仮面の奥から息を呑む声が漏れる。
「……なんという色彩。大聖堂の天使画など霞むほどだ」
リーダー格の男がゆっくり近づく。観察するような視線が、恐れよりも好奇心を帯びていた。タウシィは隠し持っていたナイフで男へ切りかかる。男はあっさり受け止め、間近でタウシィの姿を観察する。
「ふむ……、容姿も素晴らしい。これはよい報告ができそうだ。……やれ」
男の後ろから、麻酔針が放たれる。身体が重くなり、視界の端が暗くなる。重力に従い、体が床へと沈む。頭上から、男の声がぼやけて聞こえる。
「あの部屋を気にしていたな。まだお宝が隠れていると見た」
一歩踏み出す男の足に、縋りつく。そして、絞り出すように叫んだ。
「クク…! 逃げて…!」
タウシィの手はむなしく振りほどかれ、扉が開かれる。明かりのない暗闇の中、黒い影が窓へ走る。開かれた窓に手をかけた瞬間、ワイヤーが翼に向かって投げられる。重りが翼に絡み、窓から落ちるように小さな影が飛び出した。
「追え。逃がすなよ」
リーダーが一人の部下にに命じる。部下は、一瞬戸惑った仕草をとったが、急かされると闇の中に駆けていった。
黒い影は何度も飛び立とうとして失敗し、崖下へ落ちかけて踏みとどまる。絡みついたワイヤーは容易くほどけそうにない。
少女は飛ぶことをあきらめ、漆黒の中、地上を駆けた。
*****
肺が焼けるように痛い。羽ばたくたびに体が傾く。足が地面を打ち、走るしかないと理解する。背後で灯りが揺れる。人の足音が追う。影が伸び、逃げ道が狭まる。
「こっちか!?あぁ……、なんでこんなことに……」
追手の声が徐々に近づく。崖際の細道は曲がり、視界が途切れるたびに心臓が跳ねる。いつもなら空へ逃げる高さが、今は壁になる。地上を走ったのではどこをどう進んだのか全く分からず、暗闇の中ただがむしゃらに走った。気が付けば眼前に洞窟が口を開けていた。
幼い頃から、この山にはいくつか禁忌の洞窟が存在すると聞かされていた。理由は教えてもらえなかったが、絶対に入ってはいけない洞窟だと。直感でここがそうだと理解した。洞窟全体が生き物の体内のように感じたのだ。振り返ると灯りが迫ってきている。迷う余地はない。闇へ踏み込む。
中の空気は異質だった。外の風音が消え、足音が反響する。奥へ進むほど灯りが弱まり、追手の影が壁を這う。
「足跡……、まさか、この中に?……おーーーい!!」
追手の声が跳ね返り距離感が狂う。闇の中で呼吸が荒くなる。出口は見えない。奥へ進むしかない。
*****
行き止まりに突き当たった。岩ではない壁が立ちはだかる。湿り、わずかに脈打つ。背後の灯りが近づき、影が覆う。
明かりが少女を照らし、闇の中からその姿を引きずり出す。明かりの中心に、少女が立っていた。息を呑むほど白い肌に、夜を溶かしたような黒髪。背に広がる翼は光を持たず、洞窟の闇と同化するほど漆黒であった。濡れた羽根の先から滴が落ち、石を打つ小さな音がやけに大きく響いた。肩は震えているのに、逃げ場を探すように視線だけが鋭く動く。追い詰められた獣の怯えと、何かを悟ったような諦観が同居した眼だった。
灯りを掲げた男は思わず足を止める。
「……まだ、子供じゃないか……」
追手が呟く。
「でも……、アリッサ……。――すまない」
一瞬、逡巡する仕草を見せるも、迷いを振り払うように腕を伸ばしてくる。掴まれそうになった瞬間、足元の空気が抜ける。壁が呼吸するように開き、風が引き込まれる。縁が崩れ、湿った糸のようなものが裂ける。踏みとどまろうとしても足が持っていかれる。追手の手が肩を掴み、同時に地面が消える。
闇へ落ちる。声が遠ざかり、カンテラの光が線になる。風の向きが変わり、下から吹き上げる流れが逆転する。
音が一瞬だけ澄み、次の瞬間すべてが遠のいた。




