プロローグ
朝のワンルームは、だいたいいつも同じ匂いがする。コンビニ弁当の空き容器と、カップラーメンのスープと、干しっぱなしの洗濯物が混ざった、生活感100%の匂いだ。換気なんてほとんどしないから、季節が変わっても部屋の空気だけはずっと同じままだった。
ベッドの上で俺は、スマホを顔の真上に掲げたまま寝転がっている。画面に映っているのは、昨日から読み始めた異世界転生モノの小説。
《勇者として召喚された俺は、女神から最強スキルを授かり――》
「はいはいはい、来た来た」
思わずニヤける。
女神、チート、ステータス、最強スキル。この並びを見たときの安心感。この後どうなるか、だいたい分かっているのに、やっぱりワクワクしてしまう。
俺はスマホを置いて、天井を見上げた。
「……いいよなぁ、異世界」
大学二年生、二十歳。講義はサボりがち、バイトはシフト少なめ、将来の夢は特にナシ。別に不幸ってわけじゃない。友達もいるし、両親も健在、飯にも困ってない。
でも、なんというか――
「俺、今の人生、主人公感ゼロじゃね?」
この世界での俺は、完全にモブだ。イベントもないし、フラグも立たないし、レベルアップ演出すらない。
異世界に行けば、なぜか強くなって、なぜかモテて、なぜか都合よく話が進んで、結果世界を救う。意味わからんくらい待遇がいい。そんな世界を夢見る毎日。朝起きて知らない天井かどうかを確認し、大学では『教授の前世は賢者では?』と妄想したり、家に帰ったら角の生えた異世界美少女が入り込んでて…と妄想。異世界テンプレは俺の生活の一部になっていた。
「俺の名前、神崎ユウヤだぞ?どう考えても異世界主人公の名前じゃん」
ステータス画面に表示される前提の名前だ。神の字が入ってる時点で、これはもう伏線だろ。親がそこまで考えて付けたとは思えないけど、結果的に完璧すぎる。
そんな毒にも薬にもならない思考を一旦切り上げ、俺はベッドから起き上がってカーテンを開けた。
外は快晴。通学路。通勤ラッシュ。いつもの日常。
「この世界、普通すぎるんだよな」
もし今日、何かが起きたら。もし今日、異世界に行くとしたら。きっかけはトラックか、次元の裂け目か、召喚陣か。
「……ワンチャン、今日あるかも?」
根拠ゼロの期待を胸に、俺はスマホをポケットに突っ込んで、家を出た。
――この時点ではまだ、
俺は本気で「自分が主人公になる」と信じていた。
*****
「ユウヤ氏、講義終わりましたぞ?」
俺の異世界好きを知る唯一の友人が、妄想から俺を引きずりだす。
「おぉっ? フリーター、サンキュー!」
「……そのあだ名はやめていただきたいでござるよ。このあと、某は書店に向かうでござるが、ユウヤ氏はもう一つ講義でしたかな?」
「あー、そうだったな。今日はなんだか講義中に異世界召喚される予感がするから、巻き込まれないよう、早く帰ったほうがいいぞ!」
「今日は召喚でござるかw」と笑うフリーターと別れ、次の講義の教室へと向かう。部屋を見渡しても、見知った顔がほとんどいないのは、この授業が本来一回生のときに取るべき内容だったからだ。
一番左奥の席に座り、気配を消す。あくまで召喚に巻き込まないように配慮したからであって、きまずかったからではない。しばらくすると、教授が入ってきたので、脳内でいつものシミュレーションに勤しむことにした。
結局、何事も起こらないまま大学が終わった。講義の内容はほとんど覚えていなくて、頭に残っているのは、教室が妙に寒かったことくらいだ。何かに導かれるわけでもなく、ただ惰性みたいに駅までの道を歩く。
秋と冬の中間の季節は、ちょっと居心地が悪いな。風は冷たいのに、空気のどこかにまだ秋の匂いが残っていて、コートを着るほどでもないけど、脱ぐと寒い。
駅前の交差点に差し掛かり、信号待ちの数人の中に紛れ込む。あまり車通りの多い道じゃないけど、みんな律儀に信号が青になるのを待っていた。正直、誰も見てなかったら渡る人もいるんじゃないかな、と思う。一種の同調圧力がここにいる人間たちを支配している。異世界で最強勇者になる予定の俺も、この世界ではその同調圧力にすら逆らえず、異世界ではオーバーテクノロジーとなるであろうスマホで、新しく連載が始まった異世界モノラノベを読み始める。
――信号無視のトラックが突っ込んできた瞬間、僕の人生はあっさりとエンディングを迎えた。目覚めると、何もない真っ白な空間だった。――
親の顔より見た展開。この導入だけでもう脳汁があふれ出す。続きを読むべく画面に指を滑らす。
そのとき、視界の端から白い猫が一匹、横断歩道に飛び出した。え、今行く? と思ったけど、猫は気にした様子もなく、駆け出していく。みんなスマホを見ていて、気づいていない。ノーブレーキででっかいトラックが横断歩道に向かって走ってきていることも。
クラクション。急ブレーキの音。普通ならここで思うべきだ。
――もう間に合わない
――猫より自分の命が大事
――ていうか俺が出る必要なくない?
でも、俺の脳内で鳴り響いたのは、そんな常識じゃなかった。
(あっ……これ……)
スローモーションみたいに迫ってくるトラック。猫。俺。道路。
(これ、異世界転生の“導入イベント”じゃね?)
のちのち考えてみると、直前まで読んでた異世界モノラノベに意識がとらわれていて、正常な判断ができてなかったのかもしれない。。
「よっしゃ来たぁぁぁ!!」
叫びながら、俺は道路に飛び出していた。フリーズしている猫を拾い上げ、トラックを見る。
――グシャッ!!
次の瞬間、世界がひっくり返り、俺の意識は闇へと落ちていった…。
*****
目が覚めるとそこは神殿でも、謁見の間でもなく、女神の前でもなく、アスファルトの血溜まりの中だった。
「……っっっ!?!?」
痛い。めちゃくちゃ痛い。骨がきしむ感覚も、肺が潰れたみたいな苦しさも、全部リアルだ。
(あれ……?)
目を開けると、普通に空は青いし、周りで普通の日本人が騒いでいる。救急車の音。血の匂い。強烈な耳鳴り。聞いたことのある誰かの声が遠くから聞こえる気がする。
(……転生も転移もしてない……いや、ちょっと待って……)
辺りを見渡そうとしたが、首すら動かない。
(……ここ、転生する流れだろ!?トラックに轢かれる=異世界、って相場が決まってるじゃん!!)
声に出したつもりだったが、満足に呼吸もできず、ヒューヒューという間抜けな音が口から漏れる。
ど こにも光のトンネルは開かないし、神も出てこないし、ステータス画面も表示されない。あるのは、激痛と、救急隊員の声だけだった。
――――白い空間を見渡すと、一柱の女神が俺に微笑みかけているのに気づいた。
「あなたはまだ死ぬ運命にない。残りの人生を別の世界で――――――
最高に皮肉のきいている文章が、すぐ横に落ちているスマホに表示されていた。
「……」
しばらくして、ふっと力が抜けた。
(……ま、そうだよな…)
そりゃそうだ。現実でトラックに轢かれたら、普通は病院送りか、そのまま死ぬだけだ。異世界なんて、9割5分がフィクションに決まってる。
(……俺、何やってんだろ……)
なんか急に、自分がちょっと恥ずかしくなって涙が出た。……血かもしれないが。
異世界行きたいとか、主人公になりたいとか、全部ただの妄想で、現実逃避で、我ながらガキみたいな夢だったな。
意識が、だんだん遠のいていく。また、遠くから聞いたことのある声。
「……ウヤ氏!……しっかり…、すぐ救急……」
俺の手を取るフリーターの姿がぼんやり見える。よく見ると手が俺の血で真っ赤だ。汚してしまって申し訳ない。……お前、いいやつだな。
(あー……結局、俺の人生、何も始まらなかったな……)
そう思った瞬間。
――世界が、再びすとんと暗くなった。
――――――完――――――
浮華の次回作にご期待ください。




