第二部 莉菜視点:私が話しかけた日
最初に治樹さんを見たのは、春の終わり、雨が降りそうな午後だった。
喫茶店に入ったとき、窓際の席に座っていた人は、どこか透明だった。
他人の目に映らない人って、たまにいる。喋るわけでもなく、存在を主張しない。でも、その静けさに、不思議と目が惹きつけられる。
私のスマホは残り3%。ノートパソコンの充電もギリギリで、図書館の席は埋まっていた。焦って探したコンセントが、その人の足元にあった。
「すみません、充電だけ……」
正直、話しかけるのは少し怖かった。けど彼は、すごく自然に「どうぞ」と言ってくれた。
あの人の声は、雨のにおいに似ていた。強くないけど、ずっと残る。
私、父とほとんど会話をしない。家にいても、テレビの音と、母の小言が流れているだけ。
でも、治樹さんといると、音が少なくて落ち着いた。
二回目に話しかけたとき、彼は本を読んでいた。
そのページをめくる仕草とか、目線の角度とか、どこか品があった。
「伊坂、読んでるんですね」
って言ったら、少しだけ笑った。
その笑い方が、たまらなく好きだった。
恋……だったのかもしれない。でも、普通の恋とは少し違ってた。
手を繋ぎたいとか、名前を呼んでほしいとか、そういうのじゃなくて――。
彼の時間に、私も静かに座っていたい。
それだけだった。
映画に誘ったのは、あの時間をもう少しだけ延ばしてみたかったから。
でも断られて、少しほっとした自分がいた。
ほんとうに彼に踏み込んでしまったら、私はきっと壊れていた。
だから、手紙を書いた。
ちゃんと「ありがとう」と伝えたかった。
いつかまた、どこかで。
午後四時の空気の中で。