閉じた光
自作サイトの小説を手直しした作品です
番外編に近い感じですが、多分これだけでも読めると思います
須田が死んだ。お世辞にも性格のいい男とは言えなかった。
柄だって悪く、いつも擦り切れて色あせした、モスグリーンのパンツを腰履きし、ポケットに手を入れ、不遜な態度で周囲を挑発しているような男だった。
この世の全てを見下しているような、哀しい男だった。
* * *
「え、それって………マジ?」
透明のロックグラスに、俺はウイスキーを並々と注ぐ。琥珀色の世界が手元に広がり、グラスからは氷の乾いた音が響いた。バーから流れるピアノの旋律に釣り合う美しい音色だ。
「ああ、そうか…お前知らねーんだ…。いまけっこうな噂よコレ」
「……ガセに決まってるだろ…」
何と言葉を発すればいいのかを学の無い俺にはよく分からない。
まだバーに入って一時間も経っていなければ、アルコールだって摂取していない俺の視界が酔ってでもいるかのように不自然に歪んでいた。
思わず眉間を寄せ目頭を揉んだ。隣に座する俺の連れが、心配をにじませた声音をだした。大丈夫だと適当に請け負うが、浅黒い顔をした男の面輪は心配を露呈している。浅田という。昔なじみの悪友だが、根はいい奴なのだ。
「俺も始めは信じなかったけど…でも最近の須田はけっこうやばめだったじゃん。月子の話も聞いてたし、妙に納得した」
「…月子の……?」
「あれ、月子から聞いてねえ?あいつさ、須田のことが心配で何度か家に通ってたんだけどよ。そこであいつ見たんだってよ」
「なにを…?」
声が上擦るのを抑えられない。俺の質問に浅田は一度だけ口を噤むそぶりを見せた。
「ササと喋ってたんだってよ」
「…サ…サ…って。おい…それって」
「ああ」
「ササって…須田さんよりちょっと前に事故で…」
「死んだよ-だから…奇行なんだろ」
言うなり浅田がウイスキーを一気に飲み干した。空になったグラスに転がる氷を口に頬張っている。奥歯で氷を噛み砕く音がして、それきり浅田は口を噤んでしまった。
硬い沈黙が俺と浅田の間に流れる。
俺は戸惑った。
俺の躊躇など意に介することなく、浅田は沈黙を持て余すようにポケットからマルメンを取り出し、指先でいじり始めた。手馴れた手つきで紫煙を燻らせると、浅田の黄ばんだ歯がフィルターを、がり、と噛んだ。
「……はぁ」
そうして一息ついた男が、カウンターに肘を置いて頬杖をついた。思い馳せるような眼差しで天井を見上げた。一体そこに何が見えるというのだろうか。
浅田の視線に倣うように見上げるが、そこにはなんてことない。浅田の吐き出した紫煙と、ブルーの淡い光を灯すランプが点々と並ぶ、薄暗い天井があるだけだ。
「ササが死んでから、か…」
「……!」
「須田がおかしくなっちまって…飲みにも姿全然見せなくなったもんなー。でもさ、何もササの後追いかけることもねえのに」
「…追いかける?」
聞き逃せない一言に俺は思わず食いついてしまった。
不快感示す俺に、浅田は首をひねった。心底不思議がる様子で、逆に問い返された時には俺も返事に窮した。
「…お前はそう思わねえの?ササが死んで、半年…ぐらいか。須田が死んでー…」
「……」
「自殺だろ」
「根拠のないこと言ってんなよっ」
堪えきれず俺は声を荒げ、拳をカウンターに打ち付けた。いきりたつ俺に店内の空気が騒いだ。マスターも気が気じゃない様子で俺達の方を伺っている。
俺よりも幾分年をとっているが、まだ三十路もいっていないだろう。神経質そうだが繊細な顔の造作は女性に好感をもたれるはずだ。端正なマスターの容貌は、俺に苛立つだけの要素を与えた。
何不自由なく生まれた人間ほど、俺の嫌悪に値するものはない。そういう人間達が底辺にいる人間を軽蔑こめた眼差しを向けてくるのだ。
胸がざわめいた。見てんじゃねえよ!と悪態をつくと、浅田に肩をたたかれた。
「おいおい…絡むなよ」
俺の態度とは反対に浅田はどこまでも平静だ。浅田はマスターに手を振って応じると、彼は慌てて俺達の傍から離れていった。
「落ち着けよ。こんなところで警察呼ばれるのはごめんだからな」
「…オマエさ…」
「?」
「須田さんが…自殺なんかするわけねえだろ。しかも…」
「ササの後を追って死ぬなんてありえねーって?俺たちのリーダーがって?はっ…相変わらずお前は須田信者だよなぁ」
「そんなことは言ってねえだろ」
「そう言ってるようなもんだろ」
俺はあからさまに浅田に対して不快を示した。
俺の様子を見て取った浅田が幽かに鼻白んだ。
小馬鹿にするような目つきで俺を一瞥すると、当て擦るように肩を竦めた。
息巻く俺を尻目に、浅田は呑気にウイスキーをグラスに注いでいる。
浅田の行動全てが癇に障った。煮え切らない怒りに思わず掴みかかってやろうかという考えもよぎったが、周囲の目もある手前、喧嘩沙汰になるわけにもいかない。
昂然とした気持ちを落ち着かせ、俺は浅田に改めて挑戦的に問いかける。
「…お前、何言いたいの。俺に」
「いんや、別に。…ただ須田信者はやっぱり認めたくねえのかなって。須田の自殺よりもなによりもさ」
「………」
「須田はササのこと好きだった、つーことだよ」
「……てめえ」
「事実だろ。だから、ササが死んでからおかしくなって、ササの幻覚まで見ちゃって、挙句、自殺。どう考えてもササの後追ったとしか考えられなくね?」
「………」
「……お前の…気持ちは、なんとなく分かるけどよ」
「……」
「俺だって、須田のこと崇拝してたし」
お前ほどじゃねーけど。そう一言付け足して浅田がウイスキーをあおった。
―須田。
冷酷な眼差しをたたえる不遜な男の姿が脳裏をよぎった。
須田は、カリスマ性のある男だった。
彼が一声かければどんな女も寄ってくる。彼が落とせない女はいないほどだ。女だけではない。男だって、須田が睨みをきかせればどんな奴も竦みあがる。顔も広いし、金だって有り余るほどに持っている。
難を言えば性格が悪いところであったが、須田という人間を前にすればそれさえも魅力に成り得た。
なによりも親に見捨てられ、社会に居場所のない俺らに唯一、須田は居場所をくれた。
須田だけがこんな底辺で生きる俺を見捨てないでいてくれたのだ。
俺にとって須田は全てだった。
だから、俺は信じたくないのだ。
須田がたった一人の人間に入れ込み、たった一人の人間のために自らの命を絶った。しかもそれが、俺ではない
―ササだということを。
「…須田だって、人間なんだよ」
傾けたグラスの中で氷が儚げな音を立てた。俺は浅田の台詞を耳にしながら、逡巡めいた視線を彼に向ける。寂しげな浅田の横顔が妙に印象に残った。
「浅田………」
「いくら俺達が須田に寄り所を求めたところで、須田だって俺達と同じだ。眩しいものに憧れる…救いを求める」
「……それが」
「ササだったんだなぁ…」
ササ。
屈託なく笑う男だった。
誰からも好かれるような男で、いつも須田の傍にいた気がする。
いや、傍にいたというよりは須田がササを常に傍に置いていたようにも見受けられた。
あの須田がよくササみたいな、軟弱で役にも立たない男を傍に置くものだ、といつも思っていた。
何を隠そう俺はササが嫌いだった。
何の苦労も知らないような綺麗な顔をして、愛されて育っていなければ出来るわけのない屈託のない笑顔を惜しげもなく浮かべる。
ササという男の存在は、俺に嫌悪感すら覚えさせた。
こんな苦労知らずが須田の傍にいるべきではない。いつもそう思いながら俺はササに接していた。
その矢先の、ササの死は俺にとって朗報以外に他ならなかった。
喜ばしいことだったのに。
『ササが死んだら俺…どこに行けばいいのかな』
ササの葬式の日に、突如須田にされた質問を思い出した。いつものような不遜な態度ではなく、周囲を威圧する瞳の光は消えうせていた。まるで幼児のように親指の爪を噛みながら、俺は尋ねられた。
『住むところっすか?だったら俺のとこはどうっすかね?アヤがいますけど、まあ追い出せばいいっすから。それかアヤも込みで一緒に住んじゃいます?』
ササの遺影は相変わらず笑っていた。死んだ者が、この場に集う中で一番のいい笑顔をしているのは少し間抜けだ。最後まで俺の大嫌いな笑顔を向けてくるササ。けれど死んだ。
ササは死んだ。須田の傍にいるのは、俺だ。
『……』
『え?』
『もういい……疲れた…』
『須田…さん?』
彼らしからぬ発言に、俺は須田に視線を向けた。
盗み見た須田の横顔には、なんの感慨も浮かんでいない。海の底のように暗く鬱屈とした瞳が、光をともさず、ササの雪一面を想像させる真白い棺おけと対峙していた。
俺は戦慄した。
須田が仄めかした眼差しの意味が今になって分かった。哀しみに暮れるにはもっと深くほの暗さを宿していた、あの意味を。
あれはもしかしたら、ササが死んだ時点でこの世の全てを諦めていた須田の諦観の色だったのか。
須田の自殺が、あの時の葬式での彼の全てを鮮明に物語っている気がした。
須田にとって、そう
「…ササは希望だったのかね」
俺の台詞に浅田が眦を裂いた。
次いで複雑な感情の渾然した目を瞬かせ、喉の奥を鳴らした。冗談かと思われたらしい。俺の発言に最初は軽薄めいた笑顔を浮かべたものの、浅田は直ぐにその笑顔を引っ込めた。
「くさいけど………そうかもな」
「くさいけどな」
「じゃあ俺達の希望はさしずめ須田ってところか?」
「……いや、俺にとったら須田さんは神だったし」
「大きくでたなーお前」
「ははは……」
喉の奥から熱を帯びて搾り出した笑い声は、乾いていた。
喉の奥の乾きを潤そうと俺はもう何杯目になるか分からないウイスキーを浴びるように飲み干した。
本当は。
浅田に怒ってみたものの、俺は嫌というぐらいに分かりきっていた。
須田がもしかしたら自殺で、ササの後を追ったのではないかということも。
須田がササを愛しているということを。
誰よりも須田を見ていた俺は知っている。
ただ、認めたくなかったのも事実だ。
俺ではない。須田に後を追わせるほどに愛されていた男のあの、憎たらしい笑顔を思い出す。
ほんのすこしだけ、ササの乗っているバイクに仕掛けを施した。
事故でも起こしてケガをすればばいい、とほんの軽い気持ちだ。
まさかあんなことで死ぬなんて思わなかった。
そしてササを失ったことにより須田までもが、こうなるとは思わなかった。
「浅、田…」
「あー?」
「………何でもねえ」
「ちょ、な、なにお前泣いてんだよ。うけるー。感傷的になってんのかぁ?らしくねえ」
「ち…っげえよ…畜生…」
「泣くなよなぁ」
とうとう嗚咽を漏らし始めた俺の背中に、僅かに感じる温もりがあった。温かい。
俺の背中を行き交う浅田の手の温もりは今の俺にとって何よりも残酷な仕打ちだった。
愛は歪んでいた。憎しみが形になってしまった。
身も焦げそうなほどの嫉妬に、俺は狂っているのだろう。
狂ってしまっていた。