婚約破棄は狼の恩返し
これはヒェムス王国、クーランジュ公爵邸でのとあるひと騒動である。
雪深い北国のヒェムス王国の貴族の屋敷は、どこもしっかりとした造りをしていて、見方を変えればちょっとした宮殿ほどにも財を投じた立派なものばかりだ。
その中でも一等豪華で、由緒あるクーランジュ城はクーランジュ公爵家が代々暮らしてきた居城であり、物理、呪術、気品、備蓄、あらゆる備えは万全と言っていい。
クーランジュ公爵の次女アイリスは、自らのテリトリー内であればたとえ王族であっても勝手な真似はできない、と知っていた。
ゆえに、今回の騒動は起きたのである。
白金の巻き毛を揺らして、クーランジュ公爵家令嬢アイリスは迷っていた。
(どうしよう)
アイリスの目の前には、灰色の髪の第三王子ロディオン——アイリスの婚約者で、二人きりでティーサロンに使われる上等な応接間にいる——が勝ち誇った表情でアイリスを指差していた。
「アイリス! クーランジュ公爵の企みはもう破綻した! お前との婚約は破棄する!」
ふふん、と上機嫌な鼻息まで聞こえてきそうなほど、ロディオンは己の勝利を確信した婚約破棄宣言を繰り出す。
ところが、アイリスはそれどころではない。婚約破棄も企みもどうでもいい、とピンクの瞳が明らかに泳いでいるアイリスへ、ロディオンは勝者の余裕とばかりに即刻話を打ち切ることもなく、続けていく。婚約を破棄するとわざわざ他人の家に乗り込んでまで宣言しにきた以上、彼の目的はそれ以外にもあるのか、ただ単に間抜けなだけなのか。
「何だ、申し開きのしようもないのか? 謝ってももう遅いぞ、お前には」
調子に乗ってきたロディオンを、ピンクの瞳はチラチラと見ている。
しかし、それはロディオンへ恐れ慄いているわけではなく、自らの不明を恥じているわけでもなく、アイリスは視線の先にある『モノ』がここにあることがあまりにもおかしくて、動揺しているだけである。
(どうしよう……指摘したほうがいいのかしら)
やっとアイリスがまるで話を聞いていないことに気付いたロディオンは、憤慨する。
「黙っていないで何とか言え!」
(あああ、どうしようどうしよう! い、言っちゃっていいのかしら!?)
もはや話は噛み合っていないが、確かにアイリスは黙っていてはどうにもならないと覚悟を決めた。
視線の先、ロディオンのジャケットとズボンの境目あたり、腰の向こうにチラチラさっきからアイリスの目に映るそれは——。
(ロディ様、尻尾が見えているのですけれど!?)
本来ならないはずのそれは、ロディオンの髪の色と同じ、灰色のふさふさの尻尾だった。
先日、アイリスは父であるクーランジュ公爵から相談を受けていた。
「王家の中に、狼の悪霊が紛れ込んでいる?」
防音仕様の書斎で、筆ひげのクーランジュ公爵は自身の子女の中でも特に頭脳明晰な次女アイリスへ、荒唐無稽とも取られかねない話を始めたのである。
「うむ。お前と婚約している第三王子にもその疑いがあるわけだが、さてどうすべきか……」
「お父様、国王陛下にはその旨をお伝えしているのですか?」
「もちろんだ。しかし、王位争いが激化してきている最中、このことを漏らせばどの勢力も相手を非難する材料に使うだろう。濡れ衣を着せ、強硬手段に出かねない輩もいる以上、下手に陛下が動くわけにはいかぬし、騒ぎを大きくしたくはない」
「なるほど」
ヒェムス王国の現国王からの信頼厚いクーランジュ公爵は、政治の表舞台ではさして高名でも何でもないが、こうして国王が自ら動くことが難しい案件を差配して解決する顧問的な役割を負っていた。第三王子ロディオンを最低限守るために、自慢の次女アイリスとの婚約を成立させたこともその一端だ。
現在、ヒェムス王国には三人の王子がおり、まだ立太子はなされていない。謀略よりも直接的な手段——暗殺や襲撃によって数多の王族が命を落としてきたヒェムス王国の歴史を鑑み、情勢は国王の制御下に置かれ、各勢力が物騒な手段を持ち出さないよう絶妙なバランスを保っているところだ。
であれば、『王族の誰かに狼の悪霊が憑いている』などとひとたび人の口に上ってしまえば、どうなるか。間違いなく非難の応酬が始まり、目障りな相手を狼憑きであると決めつけ暗殺の口実にしかねない。瞬く間に王城は血の海と化すだろう。
アイリスは少し考えたのち、クーランジュ公爵へ確認を取る。
「つまりは、私たちがその狼の悪霊を見つけ、秘密裏に退治すればいい、というわけですね?」
「うむ、それが最善だな。何か案はあるか?」
「では、こうしましょう、お父様。狼の悪霊の目的は、おそらく国の混乱もしくは乗っ取りだとして……上手く行ったように見せかけるのです。そうして喜び勇み、必ず王家の一員らしからぬ振る舞いを我慢しきれなくなるはずです。そこを狩人や司教たちとともに捕らえて、退治を大々的に喧伝するのです」
アイリスの狼退治の提案を、クーランジュ公爵はふむふむと頭の中の算盤を弾き、やがて「可能である」と結論づけた。国の最高権力者の一族である王族に取り憑くのであれば、その目的も自ずと絞り込める。ましてや狼だ、傾国の浪費よりももっと実際主義的な実利を取ろうとするのではないか。
そこまで推理できるのなら、取り憑かれそうな王族の人間に当たりをつけて、すみやかに化けの皮を剥いでいくこともできる。
「なるほど。我々は、容疑者一人ずつにそれぞれかまをかけていく、というわけだな」
「はい。差し当たって、国の乗っ取りに利用される可能性が高いのは三人の王子殿下たちです。私の見立てではおそらく、神学を修め敬虔な信徒である第一王子殿下、文武両道で銃の扱いにも長けた第二王子殿下、このお二方は狼の悪霊程度が入れ替わることは難しいかと」
「確かに、お二方は公的な行事では陛下の代理として派遣されることすらあるからな。それに、取り巻きも国で頂点を争う有力な家臣たちだ。万一、狼の悪霊が王子のふりをしてもすぐに見抜かれるだろう」
「それに比べ、第三王子……ロディオン殿下はお二方には何かと見劣りし、正妃の子であることが最大の売りという有様です」
自分の婚約者についてではあるが、言ってなんだが、とアイリスは少しバツが悪そうだった。クーランジュ公爵も苦笑いをしている。
そもそも、ヒェムス王国第三王子ロディオンには、王位を継げずとも殺されるわけにはいかない政治的な理由がある。だからこそ、クーランジュ公爵はアイリスを婚約者にと決めたのだ。
「ロディオン殿下はお優しいし、もし王位争いから脱落しても正妃の実家である隣国の援助でどこかしらの貴族の跡継ぎになれるからな。それを見越してお前と婚約を結んだわけだが、うん」
「いえいえ。私はロディオン殿下が好きですわ、お父様。お優しい心根は頼りないと見られるでしょう、しかし」
アイリスはほんのりと頬を染め、ロディオンを想う。確かに後ろ盾もなく、長じた実力もなく、魅力も人並みの第三王子だが、だからと言って嫌う理由にはならない。
「何も、国に必要なのは秀でた才能ばかりではありません。必ず、ロディオン殿下はひとかどの人物となりえますわ」
アイリスはそう断言した。
クーランジュ公爵は「お前がそこまで言うのなら」とあっさり納得する。
かくして、クーランジュ公爵とアイリスは、まず最有力候補の第三王子ロディオンからかまをかけていく、もとい狼の悪霊が取り憑いていないかを確かめていくことにしたのだった。
あとは簡単である。国王の側近から、第三王子ロディオンへそれとなく『クーランジュ公爵に他国との密通の嫌疑がかかっている。証拠となるであろう密書を手に入れたが、ロディオン王子の婚約者の実家のことであるゆえ、どうすべきか指示を仰ぎたい』と相談を持ちかけさせる。
それと同時に、ロディオンを即日クーランジュ公爵邸へと招くのだ。何が目的であれ、普段と違うおかしな様子であれば、アイリスが直接見抜ける。万一不測の事態があったとしても、クーランジュ城は堅固な守りを誇り、呪術的な防護も完璧である。狩人や司教にも別室で待機させておけばいい。
その計画は首尾よく進み、ロディオンはアイリスと面会して——クーランジュ公爵へ面会して嫌疑を確かめる前に婚約破棄を言い渡してきたことはいまいち謎だが——見事、尻尾を見せたのだった。文字どおり、いつのまにか狼のふさふさ尻尾が生えているのである。
ロディオンの腰の異変に我が目を疑うアイリスだが、おずおずと手を挙げ、とりあえず当初の計画へと頑張って軌道修正することにした。
「で、殿下。恐れながら、申し上げます」
「ん、言ってみろ!」
「その……婚約破棄をおっしゃられましたが」
「ああ、言ったぞ!」
「我が国の法律では、婚約破棄はできないのです。特に、王家の法たる王家令の範囲では、約定を違えてはならぬという建国の祖が明示した精神に反しますので、口にすることすら許されぬかと」
いきなりの法律論を畳み掛けられたロディオンは、目を丸くして「え? え?」とばかりに動揺している。その動揺っぷりは、ふりふり興奮して振られていた尻尾が一瞬で止まって下を向いたほどだ。
(尻尾が大人しくなった……分かりやすすぎて助かるわ)
とはいえ、狼の悪霊とやらがその程度で引き下がるとはアイリスも思っていない。ロディオンはなりふり構わず反論する。
「だ、だから何だ! お前の父が他国と密通していたことには違いあるまい、罪人の娘と王子が結婚など許されるものか!」
「いえ、それも……密通に関してはさておき、我が国には基本、連座制はございません。親の罪は親のもの、子に報いてはならぬとの法律家たちの見解はよく知られたもので、また近年取り入れられた人権の観点からも独立した人格を認められるならば」
「ああもう、うるさいなぁ!」
王子にあるまじき口調で、ロディオンは苛立ちを吐き出す。
まだ正体がバレていないと思っているらしいロディオンは、どうにかしてアイリスを負かしたかったのだろう。
『アイリスの婚約者であるロディオン』として、言ってはならないことを口走った。
「こ、こほん。と、とにかくだ、俺はお前が嫌いだ! 見損なったぞ、アイリス!」
みっともない大声を発したというのに、しん、と応接間は静まり返る。
困惑するロディオン、狼狽えることをやめたアイリス。二人は自然と視線を合わせ、あまりにも見つめてくるピンクの瞳が真っ直ぐすぎて、ロディオンは抗おうとしつつもアイリスから目を離せない。
すでに尻尾は巻いている。それでも、アイリスは一歩、また一歩とロディオンへ近づき、冬の湖のような冷たく、底知れぬ口調で——ロディオンへとささやく。
「殿下。それは、一番あなたが口にしてはならぬ言葉です。お忘れですか。死が二人を分かつまで愛する、しかし僕が床に伏せ、死に抗えなくなったそのときは……僕を嫌い、愛を忘れ、別の人間と幸せになってほしいと、そうおっしゃったではありませんか」
叱責するでもなく、恨むでもなく、アイリスは冷徹に、ロディオンから贈られた言葉を噛み締めるように唱える。
アイリスとロディオンは政略結婚によって婚約した身だ。しかし、政略を理由にした婚姻だからと、そこに愛がない理由にはならない。
それは、ロディオンに取り憑いた狼の悪霊の誤算だったのだろう。
「あ、ぅ……そ、それは……」
ロディオンの口からさらなる冒涜が生まれる前に、アイリスはロディオンの眼前に立ち、見上げ、両頬へと手を伸ばした。
愛する人が困っているなら、どうすべきか。すっかり覚悟の決まっているアイリスは、迷うことなくロディオンへの想いの丈を語った。
「ロディ様。あなたはお優しいお方です、きっと狼の悪霊にも同情されて、その身に憑かせてあげたのでしょう。でも、あなたを深く知る私は、これ以上あなたが傷つくことを見過ごすわけにはまいりません」
アイリスのピンクの瞳には、灰色の髪と青灰色の目を持つ王子が映っていた。残念ながら才女であってもアイリスには神の加護もなく、呪術の心得もなく、狼の悪霊を祓うなどできない。しかし、ロディオンのためであれば躊躇うことなく、最良の手段を選択することができる。
すなわち——。
「今なら間に合います。すべてなかったことにしましょう。これ以上害を加えないのなら、無理に祓うことはいたしません。狩人や司教たちに見つからないうちに、早く城の外へ逃げるのです、狼よ」
しばし二人は見つめあったのち、真っ直ぐに見つめるピンクの瞳は、青灰色の目に渦が巻いた瞬間を捉えた。
同時に、ロディオンの体が崩れ落ちるように力が抜け、床に倒れ伏していく。アイリスは必死にロディオンの体を受け止めて支えようとする。その最中、ロディオンの腰あたりにあったはずのものがないことにアイリスは気付いた。
「あ、尻尾がなくなった……?」
アイリスは床に尻もちをつき、何とかロディオンの背に両腕を回して抱き止める。十六歳の少女の身には二歳年上の青年の体は重すぎるが、せめて頭を打たないようにゆっくりと床へ寝かせる。
ロディオンの頭を膝に乗せ、ドレスのポケットに入れてあった金属製のシンプルな笛を取り出したアイリスは、笛を吹いて部屋の外に待機している人々へ合図を送った。その甲高い音を聞いて駆けつけた兵士、狩人、司教、そしてクーランジュ公爵は、アイリスから「無事狼の悪霊は退散しました」と聞くなり、安堵しつつ倒れたロディオンを慌てて運んでいく。
別れ際、ロディオンはアイリスへとこうこぼした。
「ごめん、アイリス。つらい思いをさせてしまった」
「いいのです、ロディ様。さあ、お疲れでしょうから、寝室へ。ゆっくりなさってくださいね」
色々と後で聞くべきことはある、けれど今はロディオンが無事であったことを喜ぼう。
アイリスは、やれやれと狼の悪霊が去っていった窓の外、雪の舞う針葉樹の林を一瞥する。
積もった新雪の上に、獣の足跡がついている。それはすぐに降る雪に覆われ、見えなくなった。
☆
ロディオンの記憶が正しければ、それは十年も前のことだったらしい。
そのころ、幼い三人の王子たちは、冬には南の離宮に集まって暮らしていた。今ほど王位争いの機運が熾烈ではなかったため、仲睦まじく勉強や狩猟に励んでいた。
特に第二王子スレフは森に入っての狩りを好み、熟練の狩人たちを引き連れて害獣である兎や狐、ときには熊の巻狩りに参加するほどだった。
国の南方とはいえ、地面を霜が覆う冬の森で、その日もスレフ少年率いる狩猟団が獲物を探していた。葉の落ちた木々の隙間を縫って、一匹の灰色狼が走っていく。
「いたぞ、狼だ!」
狩人たちは灰色の狼を追い込む。やがて、狩人たちが仕掛けていたロープの罠に足を取られ、灰色の狼は転んでしまう。足に食い込むロープを外そうともがくが、その間にも狩人たちは接近して、猟銃を構える。
獲物を見つけたスレフは叫び、自ら猟銃を手に前へ出ようとする。
しかし、スレフのコートの袖を、灰色の髪の少年が引っ張った。
「兄上、その狼は雌です。乳も張っていて、きっと小さな子どもがいます」
猟銃を持ち、すでに大人と同じ背丈となっていたスレフと違い、六つも違う小柄な弟ロディオンにとっては初めての狩りだった。目の前で無闇に命が奪われることを嫌い、温厚なロディオンは必死に灰色狼の助命を嘆願する。
確かに、倒れた灰色の狼は雌だった。腹の毛が若干薄く、乳房も見える。ロディオンの言うとおり、子育て中なのだろう。
獲物を前におあずけを食らったスレフはムッとして、弟を諭そうとする。
「だから何だ? 家畜を盗む狼を駆除しないと、民が困るんだぞ」
「ですが、かわいそうです。せめて、追い払うくらいにしてあげてください。痛い目を見て、もうここへは来ないでしょうから」
それはあまりにも甘い考えで、周囲の狩人たちは呆れていた。子どものわがままと一蹴し、飢えた狼を逃すことは人や家畜を襲わせてしまうのだという現実の残酷さを教えてやらなければならない、スレフでさえそう考え、葛藤していた。
しかし、スレフは猟銃を持つ腕を下げ、ロディオンの頭を撫でた。
「分かった分かった、ロディは優しいな。おい、罠を外してやれ。山のほうへ追いやるんだ」
第二王子の命令とあれば狩人たちも逆らえない、数人がかりで灰色狼の罠を外し、村落と逆方向の山へと音を立てて追いやる。
何度か振り向きつつも、灰色狼は森の中へと去っていった。罠にかかった足は無事だったのだろう、駆けていく。
それを見送って、スレフたちは帰途に着く。スレフは怒ることなく、ロディオンへこう言った。
「ロディは狩りには向いていないな」
「はい……申し訳ありません」
「気にするな。兄上もお前は優しすぎるから心配だとこぼしておられたぞ」
ロディオンはうつむき、小さくため息を吐いた。いつも出来のいい兄二人と比べられてしまうからこそ、ロディオンは自分の性分をよく知っていた。自由闊達で競争を厭わない兄たち、それに比べて争いごとが得手ではないおっとりとした自分。優しいという言葉は、王子という身分の少年にとっては褒め言葉にはならないのだ。もちろん、兄たちは褒めているのだとロディオンも分かっているが、それはどうやっても武器にはならない。
森から街道に出ると、長兄である第一王子アグリスが供を引き連れて弟たちの帰りを待っていた。
「ロディ、スレフ。そろそろ離宮へ戻ろう。そういえばロディ、お前の小さな婚約者が探していたぞ。お前のことが心配でたまらないそうだ」
「アイリスが? 彼女も来ていたんだ」
「ははっ、何だ、早くも仲がいいな!」
「からかわないでください、もう!」
ムキになってロディは兄たちへ抗議するが、弟の可愛い反応にアグリスもスレフも思わず笑顔になる。
三人は仲のいい兄弟だった。おそらくは今でも仲はいい、ただ立場がそれを表に出すことを許さないだけだ。
この数年後、第一王子アグリスと第二王子スレフは王位争いを激化させていく。家臣たちを巻き込み、ヒェムス王国の貴族たちの支持を得るべく活躍し、立派に成長を遂げる。
だが、その一方で第三王子ロディオンは正妃である母が病に倒れたことをきっかけに、王のそばを離れて実母の治療のために奔走する——できるかぎり争いの中枢である王城から遠ざかろうという意図は誰の目にも明らかだった。
次の国王は、第一王子か第二王子か。国中が好奇の視線を向ける中、誰もが第三王子を忘れつつあった。
だからだろう、灰色の狼は恩人の行く末を心配していたのだ。
☆
回復したロディオンはアイリスを連れて、冬の離宮へ向かうことにした。
先年死去した母の墓参り、という名目で王城から離れ、金の鎖と小さなプレートでできたネックレスを手に、記憶を頼りに森へ足を踏み入れる。
相変わらず霜の降りた森は寒々としていて、近くの村落の人々はもう何年も狼を見ていないとのことだった。ロディオンとアイリスは護衛の兵士を二人連れたほかは警戒することもなく、比較的大きな木の根元にあるウロへネックレスと干し肉を置く。
ネックレスのプレートには『Endla』と文字が刻まれていた。遠い遠い昔の伝承では、極北には冬をもたらす雌狼がいて、その名をエンドラと言った。ロディオンはその名を、お節介な灰色狼に与えたかったのだ。
時と生命が止まったような冬の森の中で、ロディオンは空へと語りかける。
「エンドラ、お前は僕の代わりに動いて、王位を取らせてあげようと考えたんだね」
誰が聞いているでもなく、ましてや獣に人間の言葉が分かるなど誰も信じていない。
ロディオン自身も、そんな都合のいい話を信じるほど子どもでも信心深くもなかった。
それでも、『区切り』なのだ。エンドラが狼の悪霊となってまでもロディオンを助けてあげようと考えたことは、裏を返せばそれほどまでにロディオンが頼りなく見えていたのだ。
そう考えた上で、ロディオンはエンドラへ約束する。
「春になったらお前のために狼の土地を用意しよう、僕はそこの領主に封じてもらおう。そうすれば、お前は安全な住処を得て、子々孫々暮らしていける。僕も子孫の代までお前を守っていける」
ついにロディオンは決心した。
王位争いから身を引いて、どこかの領主となって身の丈に合った暮らしをしよう、と。
アイリスは傍で、ロディオンの決意に頷く。
「ロディ様はそれでよろしいのですね?」
「ああ。アイリス、嫌かな?」
「いいえ。あなたのお傍にいられるなら、どこへでも行きます。狼たちもきっと喜ぶことでしょう」
それが二人の出した答えだった。二人が森を離れたあと、狼の遠吠えが聞こえた。
一匹の灰色の狼が金のネックレスを、器用に自らの首へとかける。干し肉をくわえ、森の奥へと帰っていく。
それからずっと、この土地では狼は現れなかった。
三年後、ヒェムス王国に新たな王が誕生した。アグリス王と摂政スレフによる政治体制が本格的に始まり、ヒェムス王国は急速に発展していくことになる。
そんな折、ヒェムス王国南方、名もない辺境の地に封じられた領主がいた。高い山と深い森に囲まれ、長い冬には雪に埋もれる土地を、新たな爵位を得た元王族の青年が開拓に乗り出した。
妻の実家クーランジュ公爵家と隣国の親族から援助を受けつつ、彼——ヴォルチェメスト辺境伯ロディオンは一から道、村落、畑を作っていくことになるが、そこでロディオンの眠っていた才能が開花する。王子としては不十分でも、辺境伯として民に寄り添いながら一歩一歩善政を敷いていくことは、彼にとっては天職だった。善人であり、現国王の弟であり、才女と名高い夫人の支えがある。人望厚く、民を導くことに長けたロディオンのもとには、多くの開拓民たちが集まった。
そして何よりも、彼の領地では不思議なことがたびたび起きていた。
ヴォルチェメスト辺境伯領領都イェヴゲニア、亡き母の名を冠した都市を作った青年辺境伯の家臣団はひっきりなしに出入りして、多忙ながらも充実した表情で仕事をこなしていた。
「ヴォルチェメスト辺境伯」
家臣の一人が、ロディオンを肩書きで呼ぶ。
雄大にそびえる雪冠を被った山脈を眺めていた、毛皮のコートを着た灰色の髪の青年ロディオンは、春の花のように朗らかに笑って応える。
「ああ、何だい?」
「今年やってきた開拓民たちの定着は随分と進みました。街道の整備が大きかったですね、どこの領地よりも街道が安全だと評判になっているようです。辺境だろうと山賊や野盗の類が一切出ない、住みよい土地だと」
「そうか。きっと狼たちが守ってくれているんだろう」
そうですね、と家臣は深く頷く。
ヴォルチェメスト辺境伯領には熊も猪も生息するはずなのに、なぜか人間の被害は一つも出ていない。その代わり、街道を行く人々にはいつも少し距離を空けて狼たちがついてくる。狼たちは人間を襲うことはなく、開拓民たちも次第に狼たちへ感謝を表すようになり、食料を分け合って助け合って暮らす村落も少なくはなかった。
辺境伯邸の一角に、その象徴となる平屋がある。
ロディオンがそこへ行くと、大きな寸胴鍋から肉を煮たスープの香りが漂ってきていた。平屋の前にある頑丈なテーブルで、エプロン姿の女性たちが煮えた肉を取り出し、ナイフで小さく刻んでいる。綺麗に肉が削がれた骨は集められ、テーブルの下で座って待つ仔犬——正確には子犬ではなく十数匹の仔狼たち——がキラキラしたつぶらな瞳で「それが欲しい」とじっと要求していた。
大皿に積まれた刻んだ肉をそのまま仔狼たちに与えると、入れ食い状態になるほど暴れて食事どころではなくなってしまう。しかし、待ちきれない仔狼はキューンキューンと物悲しく鳴いている。
白金の髪を一つにまとめ、ピンクの瞳をしたエプロン姿の辺境伯夫人が、そんな仔狼たちに囲まれておおわらわになっていた。
「あっ、まだだめだってば! 熱いからだめ! 待て!」
小皿に分けた肉を手早く地面に並べ、仔狼たちに待てを命じる。数秒ののち、「よし!」の号令を得て仔狼たちは我先にと肉にかぶりついた。
「はい、よく噛んで食べなさいね。お肉はまだまだあるから」
すっかり仔狼の世話が板についた辺境伯夫人アイリスは、額の汗を拭い、やっと夫の来訪に気付いた。
「あら、ロディ」
「やあ、忙しそうだね」
「ええ。今年は難産の子が多かったから、ここで保護する子たちもこんなに。幸い、頑丈に育ってくれているし、中にいる雌狼がよく世話をしてくれるから心配はいらないわ」
政務の傍ら、アイリスは各地で保護された仔狼たちの世話を担っていた。ある程度育った仔狼たちは大人の狼たちのもとへ帰され、次世代を担う群れの一員となっていく。狼のおかげで開拓民たちの安全があることを知ったアイリスの発案でできた『幼稚園』は、怪我や病気で保護された狼たちとともに運営されている。
まるで人間の言葉が理解できているかのようなヴォルチェメスト辺境伯領の狼たちは、もちろんきちんとした意思疎通ができるわけではないが、互いに『助け合う』ことは不思議とできていた。
ロディオンはそれを、きっと灰色の雌狼エンドラの教育の賜物だろう、と信じている。
「今年もたくさん狼の仔が育ったね」
「エンドラは元気かしら?」
「多分ね。たまに遠吠えを聞くよ」
山嶺を望むロディオンの懐かしむような横顔を、アイリスは満足そうに眺める。
あの日、二人の婚約破棄を望んだ『狼の悪霊』も、もうそんなつもりはないようだった。
おしまい。
モフモフ動物恩返しはファンタジーです。イエア。
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