狂想曲
寝たような、寝ていないような、そんな一夜が明けた。
頭の中はうっすらと重く、ぼんやりとしている。
窓の外からは、陽の光とともに小鳥の可憐な鳴き声も聞こえてくるのに、私の気分は最悪だ。
「今日は一日お休みされてはいかがでしょう。来客対応は私どもでいたします」
いつもの起床時間に様子を見に来た侍女のユリに、私は頭を左右に振る。
「一日ベッドの上にいたら、余計に気が滅入りそう。神経が張りつめていてうまく眠れもしなさそうだし。とりあえず軽く運動をして何も考えずにすむようにしたいわ。……もし、カール殿下がいらっしゃっても今日はお通ししないで。あと帰国の準備をしはじめてちょうだい。持って行くのは必要最低限のものだけでよいわ」
「かしこまりました」
私のこの国での住まいは、王の住まう館と同じ敷地内に建てられた小ぶりな館だった。故郷から私に付き従ってくれた三名と、王の計らいでやってくる通いの数名の人々でつつましやかに運営されている。
同じ敷地内といっても王の館とは歩いて三十分ほど離れており、出入りをする門も別だ。おかげで人と行き会うことも多くはなく、気兼ねなくひっそりと暮らせている。
運動しやすい服装に着替えて、館の外に出る。
日差しは温かく、晴れた青空は寝不足の両目にはまぶしいほどだ。庭師によって整えられた庭へ視線をやれば、薔薇を中心に春先に咲く花で彩られている。
春の女神に祝福されたような光景だというのに、私の気持ちは弾まない。
軽く準備運動をしてから庭の外周に設えられた道をゆっくりとした早さで走る。
周囲の緑に時折目をやりながら、呼吸を整え、手足を動かす。そうしていると頭の中をぐるぐると巡っていた悩みが少し遠ざかった。
走ることに思考が奪われていくのが、今はありがたい。
ほどよく運動して身体をほぐし、お腹を満たせば、何も考えずに眠ることができるのではないだろうか。
「アーヤ」
聞き覚えのある声で名を呼ばれる。
背後を振り返ると、こちらに向かって走ってくる青年の姿が見えた。カールの友人のひとりのジョージだ。
目の前で立ち止まった彼は、乱れた呼吸を整えながら話し始める。
「今日ばかりは邸の中で大人しくしているんじゃないかと思っていたんだが、まさか走り込んでいるなんてね。転んでもただでは起きないってところか」
若干含みを感じる言葉だが、彼自身は褒めているつもりであることを私は知っている。
昨日あんなことがあったのに、タフだと言いたいのだろう。
遠回しな言葉遣いをすることで、時折言葉に微妙なニュアンスを持たせてしまうのが、ジョージの残念なところだ。慣れてしまえばなんてことはないが、はじめは嫌みなのかと警戒した。ただ私以外の友人に対してもこの態度なのだった。
容姿端麗ながらも口の悪い弟ができたようなものだと思って相対するようになったら、色々と楽になった。
「身体を動かしていると気分がすっきりするもの」
笑って見せれば、ジョージも笑う。
「前向きだな」
「泣いて解決するなら泣くけれど、泣いて解決することなんてないでしょう。今日はどうしたの、ジョージ。カールから何か言伝でも頼まれたのかしら? それなら明日まで時間をいただきたいんだけれど」
カール本人の訪問を断ったので、側近のジョージを伝言役としてカールが寄越したのかと思って尋ねれば、ジョージは首を左右に振った。
「リリィにも同じことを言われたよ。殿下からは何も聞いていない。今日は会ってもいないしな。今日訪問したのはオレの個人的な事情だ。昨日は話せなかったから」
リリィとはユリのことだ。この国の人はユリのことをリリィと呼ぶ。我が国の人名はこの国の人には発音しにくい部分があるらしく、本名にまつわる愛称で呼ばれている。
「ああ、そうだわ、ごめんなさい。昨日はあなたもリズと一緒に私を捜してくれたのよね。ありがとう。お礼も言っていなかった。心配をかけて申し訳なかったわ」
「そんなことはまったく問題ないんだ。今日来たのは」
そこでジョージは軽く息を吐いたあと、意を決したような眼差しをした。
「殿下が君と婚約を破棄するのであれば、オレとの結婚を前提につきあってほしい」
ジョージらしくない、直裁な物言いだった。
まじまじと彼の顔を見てしまったが、そこに冗談を言っているような様子はない。
ジョージ、あなたもなの?と叫びたくなるのを堪える。
「昨日から衝撃の展開続きだわ」
「その点は悪いと思っている。だが、早めに伝える必要があった。返答は後まわしでいい。むしろ今すぐ出すのはやめてくれ」
『周りがあなたを放っておかないもの』
リズの言葉がよみがえる。
彼女が想定していた周りとは、ジョージということだろうか。リズはジョージの気持ちを知っていたということ?
その時、視界にユリと彼女に伴われたウィルの姿が目に入った。ウィルもジョージやリズと同じく昨日の夜会のメンバーで、比較的小柄な、子犬を思わせる愛嬌を持った友人だった。
いやな予感を覚える。
まさかね、と思いつつジョージへ視線を向ければ、彼もあからさまに顔をしかめていた。
ウィルは私たちの視線に気づくと、ユリを追い越して駆け寄ってくる。
「アヤ。単刀直入だけど、結婚しよう」
飼い主に駆け寄ってくるようなウィルの笑顔を見たあと、天を振り仰ぐ。
いったいこれは何の喜劇だろう。
昨晩の夜会会場の食事には惚れ薬でもかけられていたのか。
「ジョージ、悪趣味な賭けをしたりはしていないわよね」
「そんなものにオレが関わると思うか」
心外そうな口ぶりに、ごめんなさいと謝る。確かに彼はそういった人間ではない。
「オレも、たぶんウィルも冗談で言っているわけじゃない」
「僕も冗談なんて言ってないよ。なんで僕よりジョージのほうが行動が早いのさ。いつも何事も億劫そうにしてるくせに」
口を尖らせるウィルに、ジョージがふんと鼻を鳴らす。
「迅速さが求められる時は、素早く行動するさ」
「普段からもっとその積極性を発揮してよ」
「いやだ」
微笑ましささえ感じる言葉の応酬をしつつも、私の発言を待っているふたりの様子に盛大に溜息が漏れた。
冗談であればどれだけ良かったか。
婚約破棄騒ぎに、求婚騒ぎまで加わって、事態はいっそう面倒なことになってしまった。
今、私にできることはなんだろう。
やはり、 事態をこれ以上複雑化させないために、いったん引くことなのかもしれない。
昨日と同じ、逃げの一手。
「ジョージ、ウィル」
意識的に笑顔をつくって、両人に視線を配るようにして口を開く。
芝居がかっているとは自分でも思う。
「おふたりのご用件は承りました。状況を整理した上で、後日何らかのお返事をいたしますので、誠に申し訳ありませんが、本日はお引き取りくださいませ」
慇懃無礼な物言いに、ジョージはふてくされた態度を見せたが、ウィルは笑顔のままだ。
「まあ、それがアヤ的には一番いいかもね。さすがにそろそろ殿下も次の行動に出るだろうし」
「ウィル。賢いあなたにはいったい何が見ているのかしら。私に教えていただきたいわ」
小柄でかわいらしい子犬のような彼は、その見た目や口調に反して、いつも一番冷静に物事を見ている。
「秘密。といってもね、結局、何にしても君と殿下次第だよ。僕やジョージ、他の誰も、些末にすぎないんだ」
「……それはそうね」
すべてはカールの婚約破棄宣言から始まったのだから。
陽はまだ天の頂きに上ってすらいないのに、なんだかとても疲れてしまった。
私たちから少し離れた場所で静かに控えているユリに声をかける。
「ユリ、私、今日はもう誰にも会わないわ。さすがにこれ以上の問題は抱えられる自信はないもの」
「かしこまりました、お嬢様。あとはお任せください」