大使館にて
化粧の崩れた顔を直すこともなく訪れた大使館で、私から婚姻白紙の話を聞いた大使は天を仰ぎ見た。
「なんということを。おいたわしい」
いつもきれいに整えられている白髪を手で押さえ、ゆっくりと頭を左右に振る。端正な口髭もどことなく疲れたように見える。
「お力になれずに申し訳ございません。わたしどもも、どこからも何も伺ってはおりません」
どこからもというのは、母国側からも「王冠と剣の国」側からもということだろう。
「そうですか」
ということは、少なくともカールは「水と祭礼の国」側へは何も伝えないまま、今回の決定を下した可能性が高い。だがカールの父、英明なる「王冠と剣の国」の王が、国同士の交渉を前に事を進めることを許すだろうか。
まさかカールの独断ということ?
「今夜中に集められる情報は集めますが、王室の意向に関しては明日になるかと」
「問題ありません。一刻を争うような事態ではありませんもの。たかだかわたくしの婚約がなくなっただけですから」
「姫さま」
眉間にしわを寄せ困り顔の大使に、はたと自分の発言がどう聞こえるか気づく。どうやら、どうせ私の婚約破棄なんて急ぐ必要もない小さなことでしょうよ、という嫌味に聞こえてしまったらしい。
「ごめんなさい、あの、嫌みで言っているわけではないのよ。わたくしにとっては重大な話ではあるけれど、国が転覆するような事態にも、人の命が失われるような話ではないから、だからそう急く必要はないと思っているの。本当よ」
そう、戦争が始まるといった喫緊の事態ではないのだ。あまたある国の、そのうちの一つで王子と王女の婚約話がだめになっただけ。今後は少しばかり二つの国の関係が悪化して、それにともなう諸手続が増えるけれども、それだけだ。
政略結婚が破談になったからといって、ならば戦争だとはならない。
仮に父がこの仕打ちを契機に戦争などしかけようものなら、賢者が現れて両国の王をすげ替えてしまうことだろう。国は王のためのものではない。王は賢者が世界を治めるための駒の一つにすぎない。だから、もし戦争の準備などしようものなら、禍根である両国の王、その一族が賢者によって除かれるだけだ。
「あの、わたくし、父に連絡をとってもよいかしら。今後どうすべきか相談したくて。そのことであなた方の業務に、なにか不都合が生じるなら、明日以降の連絡にします」
気遣わしげな様子でこちらを見る大使は、少し考えるそぶりを見せた後、ゆっくり首を横に振った。
「わたしから先に事情をお話させていただければ、問題ございません。少々お待ちいただけますでしょうか。そうですね、紅茶のおかわりをお持ちしましょう。焼き菓子もどうぞ」
秘書に飲み物と茶請けを用意させたあと、大使は広く大きな業務用デスクに座り、笑みを消して電話をかけた。
私に聞こえぬような声音で、やりとりをしている。
視線を手の内のティーカップへ注ぐ。温かいものというのはそれだけで心をほぐす効果があるのだと今更なことを思い、大使の気遣いに心のうちで感謝する。
婚約を破棄されてしまいました。
それを聞いた父や母は私の不出来を怒るだろうか。それとも呆れるだろうか。あるいは慰めてくれるだろうか。帰ってこいというだろうか、帰ってくるなというだろうか。
ただ、帰っても私は長くは父母のもとにはとどまれないのだ。私も来年で二十歳となる。成年の女性は住み慣れた土地を離れなければならない。
どうしようかしら。
別の国の方と結婚するなんて気分にはなれない。
しかし結婚をしなくても王女である私は国を出なければならない。
どこへ行く?
他国の王女を雇ってくれるような職場はあるのかしら。腐っても王女、ほかの人にとってはとても扱いづらくはないだろうか?
それならどこかの家へ養女として入ってから働くとか。
でも、そもそも私にできる仕事って何があるのかしら。リズのように役人を目指してみる?
ぼんやりととりとめのないことを考えていると、父と話し終えたらしい大使が電話を差し出してくる。受け取り、何から話したものかと逡巡していると、「話は聞いた」と父が口火をきってくれた。
久しぶりに聞いた母国語だった。この国では普段共通語を使って喋るので、とても懐かしい響きに聞こえる。
「このようなことになりまして申し訳ございません」
私の口からもするりと母国語が出た。
久々の父との会話に緊張して、少し口調がかたいのが自分でも分かる。父と娘というよりは王と姫の会話だ。
「こちらからも至急先方に事実確認をする」
父もなかなか事務的な口調である。
「ありがとうございます」
この雰囲気のまま会話を終えてはいけないと思ったのだろうか。息を整えた気配が電話の向こうから聞こえる。
「難しいかもしれないが、今日はゆっくりやすみなさい。今後のことは今は考えなくていい。おまえのことだからすでに色々考え始めているかもしれないが、帰国してから考えても問題ないことだ」
少しばかり和らいだ口調と、私の帰国を父が問題視していないという言葉に、ほっと胸を撫で下ろした。私は逃げ帰ってもいいのだ。国に。両親のもとに。
「くれぐれも疲れた脳を酷使するようなことはしないように」
「はい、善処します」
どうやら私があれこれ考えていることなど、父にはお見通しのようだった。ただ、意図的に物を考えないというのは、私にとって少し難しい。私は思考を煮詰めてしまうタイプであるし、今回の件は残念ながら考えがいのある出来事だ。それが自分を傷めることであったとしても。
「それから最終的な結論は現時点では出ていないことを忘れるな。まだ確定事項ではない。だからこそ、おまえは少なくとも、もう一度は婚約者殿と対話をせねばならないだろう」
「……それこそ今はあまり考えたくないことですね」
「情報をあつめ、課題を見定めなさい。そしてどこを終着点とするかをおまえ自身が決める必要がある。ただ、今は何も考えずに休みなさい」
「お心遣いありがとうございます、お父様」
電話を切ったのち、大使に何か分かった際には知らせるように伝えて、大使館の扉を出る。
外はもうすっかり夜の闇が広がっている。
父はゆっくり休めと言うけれど眠れるかしらと思いながら足元に向けていた視線をふとあげると、意外な人物が大使館の入り口に立っているのが見える。
その人は私の姿を認めると、曇りのない笑顔を浮かべた。
「アヤ、良かった、出てきてくれて。出てこなかったらどうしようかと思ったわ」
「リズ? どうしてここに?」
手を大きく振りながらほっとした表情を浮かべていたのは、カールの側近にして私のこの国でのメンターであるリズだった。




