青天白日1
「あの、お話があるのですが」
その声にアヤは手元の本から目を上げた。ずり落ちた眼鏡の位置を指先で直す。静けさの保たれた図書館、その一隅の机を囲んでいた人々の視線が、一斉に話しかけてきた少女に注がれる。
年の頃は十六、七といったところだろう、おそらくアヤと同じ地域出身と思われる、黒髪、黒い瞳を持つ可愛らしい顔だちをした少女だった。知り合いではない。どこかで見かけたことがあるような気がしたが、アヤはすぐには思い出せなかった。
少女の眼差しには尖った感情は見受けられなかった。何らかの理由でアヤを非難しに来たわけではなさそうだ。
アヤは最近、話があると見知らぬ女性から声をかけられることが増えていた。剣呑な空気を身にまとった彼女たちは遠まわしに、あるいは直截的に「婚約破棄の話があったのは本当か」と問うた。どうやらどこからか先日の話が漏れたらしい。
密室での密談というわけでもなかったから当然といえば当然のことではある。一方であの場にいた誰かが故意に漏らしたという可能性もあるが、情報源を探ることに今はあまり意味はない。
婚約破棄をしていない旨伝えれば、彼女らの口からは心地よいとは言い難い言葉が発せられるため、アヤは五人目をやり過ごしたところで、周囲から勧められていた大学内で身辺護衛をつけることに承諾した。罵倒だけならまだしも刃傷沙汰は避けたい。
今アヤの周りに座るのは護衛としてついている人間だった。
婚約破棄は視野に入っているが時期未定など、誰にも言えない。言ったところで誰が信じるだろうか。激昂されるのが関の山だ。
「お邪魔をしてしまってすみません。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
緊張した面持ちながらも丁寧な口調で告げる少女に対応をしようと立ち上がった警護の人間を「大丈夫よ」とアヤが制する。
「場所を移してお話を伺いましょう」
アヤが少女に笑みを向けると、物々しさに身体を強張らせていた少女の肩から力が抜けた。
「感謝いたします。ありがとうございます」
図書館の屋外に設けられたベンチに少女と隣り合って腰かける。空は晴れ、ベンチの背後に並ぶ木々の梢からは陽ざしがこぼれる。風もあまりなく過ごしやすい気候だ。
護衛の人間はふたりの近くにいるものの少し距離をおいていた。図書館へ出入りをする人間はあまり多くはないが、それでもベンチ周辺の物々しい様子にちらりちらりと視線を向けられる。
「ごめんなさいね。少し話しにくいとは思うんだけれど」
「いいえ。むしろお時間をいただきありがとうございます」
微苦笑を浮かべたアヤに対して、少女は首を横に振って微笑んだ。やはり彼女からは害意は感じられない。
「わたしのことはビッキーと呼んでください。姫様には一度両親とともにご挨拶に伺ったことがあります。その後も何度かお見掛けしたことがありますが、こうしてお声がけしたのは初めてです。このたびは不躾に申し訳ございません」
会ったことがあると言われてアヤは目の前の少女の顔を観察しながら記憶を探る。じっと見つられてビッキーは恥ずかしそうに目を伏せたり、顔を赤らめたりしている。
まず思い浮かんだのは彼女本人ではなく彼女と微笑み方がよく似た壮年の男性だった。目元がよく似ている。
「思い出した。あなた外交官のお嬢さんね」
脳裏に浮かんだその人は、水と祭礼の国の外交官として各国をめぐっていたが、この国で妻子を得、その後は長くこの国に住んでいるのだと以前話していた。確かに一度彼の家族にも挨拶をした記憶がある。
「はい、父がお世話になっております」
ビッキーの物言いにアヤが笑みをこぼす。
「私のほうがお父様のお世話になっているのよ。ご両親はお元気かしら」
「はい、おかげさまで。あの、実はこのたび父が本国に戻ることになりました。母と私も一緒に国を出ることになりまして」
「初耳だわ。最近お父様の姿をお見掛けしないのは、準備に忙しくなさっているためだったのね……」
「わたしだけ残るという選択もあったんですけれど、父の国に行ったほうがわたしの場合は選択肢が増えるので、ついて出ることにしました」
ビッキーは膝の上に置いた手を握りしめ、視線をわずかに落とした。その表情からは迷いや不安が見え隠れするが、それを振り払うように笑顔を見せる。
確かに両親と遠く離れこの国でひとりで生きていくという選択は彼女の年齢では選び難いだろう。両親とは今生の別れになる可能性が高く、またこの国での後ろ盾は何もない状態で生きていかねばならない。
一方で「水と祭礼の国」に向かえば、この国に再び戻ることは難しいが、彼女は性による制約を受けずに生きることができる。
ただ「水と祭礼の国」は父の生国といえども彼女にとっては異国だ。見知らぬ土地に他ならない。婚姻に関しても住まう土地に関しても制限は受けずに済み、彼女は両親の庇護のもと新しい生活を組み立てることができるはずだが、それでも心は揺れるだろう。
「ご両親が一緒なら心強いわね」
「働きはじめていたり、結婚していたりすればまた話は違ったとは思うんですけれど、仕方ありません」
ビッキーの口から思わずといった態でため息が漏れる。それを恥じるように彼女は小さな声で「すみません……」と謝った。
「あなたにとっては見知らぬ国だもの、不安になるのは当然だわ」
「はい、でも期待もあるんです。父譲りの髪や肌、目の色はこの国では少し生きづらい部分もありましたから」
少女の表情に、今までとは異なる苦みのある笑みが浮かんだ。
どんなに多様化を推し進めようと、異物への拒否反応は何かしら生まれてしまうものだ。父親が自国民でないビッキーにも、手厳しい視線は向けられたのだろう。
ただそれはこの国に限らず、アヤの生まれ故郷とて同じだろう。この少女はおそらく新天地でも小さな失望を繰り返し覚える。どうかその失望を超える希望があることをアヤは祈ることしかできない。
「あなたの未来が明るいことを心から祈っているわ。もしかして声をかけてくださったのは、水と祭礼の国のことをお聞きになりたいのかしら。どんなことをお話ししましょうか」
気を取り直すようにアヤがことさら朗らかな声をあげれば、ビッキーが慌てた様子で、大仰に首を横に振る。
「いいえ、あの、ちがうんです」
落ち着きを失った少女の様子に周囲に控える護衛が少し身構えた気配をアヤは感じた。
「あの、もう二度とこの国に戻れないかもしれないので、心残りをできるだけなくそうと思ったんです。それで姫様にまずご挨拶をと思ってお声がけをさせていただきました。あの、こんなことを姫様にお願いするなんて父には怒られるのは分かっているんですが、それでも、どうしても」
「ビッキー? 落ち着いて」
ずいっと身を迫り出したビッキーを落ち着かせようと、アヤが両の手を胸の前で広げると、その手をぱっととられる。すがるような手を振り払うわけにもいかず、警備の人間には目で問題ないことを伝える。
頬を赤く染めた彼女はしっかりとアヤの手をつかみ、抱きつく勢いでずいっと身を乗り出してきた。
「出国の前にカール様とお話をする機会をいただけないでしょうか」
ようやく最後まで書き上げました。1月中に最後までアップ予定です。私なりのハッピーエンドです。お付き合いいただければ幸いです。




