はじまりは婚約破棄
白い小さな花片が風にのってバルコニーに届く。その様に、この国でも桜が散れば春は終わりなのかしらと呟くと、傍ら座るカールが小さく溜息を吐いた。その吐息に悲しみが滲んでいた気がして彼の端整な面を振り返る。
カールはいつも浮かべている笑みを消して、まっすぐ私を見つめながら口を開いた。
「アヤ。やはりあなたとの婚約は白紙に戻すべきだと思う」
言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。
婚約を白紙と頭の中で繰り返す。
視界の端で白い花びらは舞い落ち続けている。彼の目にもその様は映っていることだろう。
なるほど、花の散る様を見て、人は婚約破棄を決めることもあるのかもしれない。
カールの友人であるジョージの持ち物の一つだという館を使用しての夜会は、内輪のものではあったが、参加しているのは将来を嘱望される若者ばかりだった。
きらびやかなドレスを身に纏う淑女、彼女らをエスコートする燕尾服の紳士たちがホールのあちらこちらで談笑し、華やかな賑わいを見せている。
会のはじまりを主催者が告げたあと、この「王冠と剣の国」の王子であるカールの周りにも、それなりの人数が挨拶に訪れていたが、今はそれも一段落をしていた。
カールと私、そしてカールの親しい友人たち五人は場所をバルコニーに移して、気安い会話を楽しんでいたところだった。
冬は日暮れが早く、夏は夜遅くまで陽が残るこの国では、春のこの時期の「夜会」はまだ西の空を橙色の光が照らしている。ぼんやりとした夕暮れの明るさの中での語らいは、装いこそかしこまった格好ではあったが、どこか放課後の教室のような軽やかな雰囲気があった。交わしていた内容も意味があるようなないような他愛のないものだった。
そこに婚約者である私に対して、突然の王子からの婚約白紙発言。
今、このタイミングで、なぜ。
カールの発言を耳にした者はそう思ったのだろう。
私ばかりでなく、私たちふたりを取り囲んでいた面々も時間が止まったかのように動きを止めた。誰もすぐに口を開くことができず、カールをただ凝視する。
金髪碧眼の、時に玲瓏と称されるどこか作り物めいたその面は無表情なようで、複雑な感情が入り交じっているのが見て取れた。
苦しみ、悲しみ、愛惜、怒り、あとは何かしらの期待だろうか。
発言とそぐわない表情を奇妙に思ったが、それよりも彼がなぜこの場で婚約破棄を申し出たのかのほうに気を取られていた。
「な、何を言っているのか分かっているのですか、殿下」
はじめに口を開いたのはリズだった。
カールが特に親しくしている五人の友人の中で、唯一の女性であり、私のメンターを勤めている女性だった。カールと同じく金髪碧眼の、美しく聡明な人で装ったふたりが並ぶと童話の王子と姫君のように見える。
カールが再び口を開こうとする。その表情はゆるぎなく、眼差しはまっすぐ私に向けられていた。
だからこそ、カールが先ほどと同じ言葉を告げるのが分かってしまった。
この人はあの台詞をもう一度、皆の前で言うことをためらわない。
「ごめんなさい。わたくし、身体を冷やしてしまったみたい。気分が悪くなってしまって。これ以上の不調法をしないうちに、失礼させていただきます」
これ以上この場で彼に発言をさせてはならない。椅子から立ち上がり、声をこれ見よがしに張り上げる。そして口元を扇で隠し体調がわるいように見せながら、カールの傍らから離れた。
このまま振り返らず、走り出してしまいたいのをぐっと我慢する。扇の陰で息を吸い込み、炭田に力を込めて振り返った。
私に向けられる顔。誰の表情も見ないようにしながら、口角を無理矢理上げて微笑を形作る。楽しくもないのに、笑顔をつくるのは得意とするところだ。
「申し訳ございません、皆様。あとのことはよろしくお願いいたします」
事態をこの場に残る人たちに押し付けていくことになるので、内心とても申し訳なく思う一方で、この場に居続けることはできないという思いのほうが強かった。
きびすを返し、走り出してはいないものの、優雅とは言えない速度でホールへ戻る。
最低限の体裁は保っているものの、冷静にはほど遠い。頭がしびれたようにうまく働いていないのが分かる。
本来であれば状況を判断して、次に何をすべきか考えなくてはならないのに、ただ、ここから立ち去りたいとだけ思う。早く、早く。
けれどその一方で私の体面はみっともなく逃げ出すことを許さず、すれ違う人あれば会釈をし、受付では中座をわびながら、迎えの車の手配をする。
婚約破棄を言い渡されたというのに、この国の王子の婚約者としての最低限の立ち振る舞いをしてしまう。
いっそ取り乱してしまえれば、この一時だけでも楽だったろうか。
自分への問いかけに、いや、と即座に否定を返す。私はそんな私を許せないだろう。
煌々とした広い玄関ホール、しかし出入り口のその向こうには、夕闇が先ほどまでよりも色濃く広がっていた。
ここが私の生まれ育った国であれば、たとえ暗闇の中であろうと、いますぐ走り出していくのに。
かつての私であれば、どんな立場であろうとも、どんな格好をしていたとしても、思いのままに駆けて行けたのに。
玄関先の車止めに現れた専用車に乗り込む。
邸の門を通り過ぎてようやく、こわばっていた心と体が少しほぐれたような気がした。もう誰の目を気にする必要もない。
深く息を吐いて吸い込む。
車窓に情けない表情をした自分の顔が映っていることに気づき、とっさに手で顔を覆った。
途端に喉奥からあふれる嗚咽をとどめるために口を堅く結んだ。
カールとの婚約が決まり、母国から遠く離れたこの国にやってきて一年。慣れぬ異国での生活にもようやく慣れてきたと思っていた頃に、私は婚約者として不合格の判定をもらったのだった。
人もすなる悪役令嬢なるものを我もしてみんとするなり、ということで、悪役令嬢もののお約束をいくつか踏まえつつ、お話を書いてみました。公開することに意味があるの精神で、構成、校正にあまいところがありますが、お付き合いいただけると幸いです。連載が終了したら改稿を入れるかもしれませんが、まずはエンドマークをきちんとつけるが目標です。