58・わかっていた(フロイデン視点)
気づくと、月明りの冴える星空を見上げていた。
周囲では「坊ちゃん! 坊ちゃん!」と僕を呼ぶ声が聞こえてくる。
そしてなぜか、僕の顔をべったりとした感触が覆っていた。
何があった?
僕は一体、どうしていたんだ……?
唇を舐めると、甘くふわふわと柔らかい味が口の中で溶ける。
今まで食べたことがないほど美味いこれは、何だろう。
「フロイデン、大丈夫?」
人質にした、あの綺麗な女が声をかけてきた。
放心したまま目を向けると、彼女は少しほっとしたように息をつく。
「ごめんなさい。とんでもないものを顔に投げつけてしまって」
「このべたつきは一体何だ? 不快なのに驚くほど美味い」
「えっ……あ、味は美味しいでしょう? だから、どんな形だったのかはあまり気にしないでちょうだい。すぐに錬金釜からあなたの顔を拭くものを作って……ではなくて、探してしてくるから待っていてくれる? その間、決して私の姿は見ようとはしないで。見たら色々失うことになるから、絶対に見てはいけないわ」
リシアは相変わらず物騒な言い方で念を押して、来る時に持ってきた袋を肩にかけたまま去っていく。
「おい、待て……」
横たわっていた体を起こすと、このレノマルト王国まで僕に付き添ってくれたトムとサムが泣きついて来た。
「坊ちゃん、姐さんに…‥人に刃を向けてはいけねぇ!」
「あんなことをしては、サリア様が悲しむ!」
でかい男二人が、恥もなく号泣している。
僕はふと、父の形見である護身用の短剣をきつく握りしめていることに気づき、自分のしようとしていたことを思い出して身体が震えた。
今さらのように、後悔と虚しさが押し寄せてくる。
「二人とも、ごめん」
僕の顔にまとわりつく、美味いべたべたが飛んできてからの記憶が飛んでいるので、それがきっかけで何事もなく済んだのかもしれない。
「僕だって、わかっていたさ……」
サリアのことは、心のどこかで気づいていた。
だけどその事実が決定的になってしまった瞬間、僕は正気を保つどころか、気が触れてしまえば楽だと思えるほど苦しくなって……。
心の置き場を失いながら、アドレだけが助かって大切な人と幸せを手に入れていることに、僕は納得がいかなくて。
自分でも驚くほど、同じ目に遭わせてやりたいという衝動に突き動かされて。
僕は事実を知りたかったのに、知ってしまうとそれが許せなかったんだ。
「許せない……」
僕の心と重なるような、しかし背筋が凍るような声が聞こえた。
気のせいか?
戸惑いながら顔を上げると、トムとサムが不安げにあたりを見回して呟く。
「おい……今、何か聞こえなかったか? 姐さんか?」
「いや。綺麗で堂々とした姐さんの声とは違う、いやに薄気味悪い感じだったぞ」
もしかして、僕の許せない思いが強くてつい、呟いていたのか?
そう思い込もうとしても、辺りの静けさに不安はますます濃くなり、うすら寒くすら思えるのはなぜだろう。
頭上に冴えていた月が流れる雲に覆われ、不吉に暗くなる。
僕たちは全員息をのんだ。




