7. 私と彼
私の両親は仲が悪かった。
だから小学二年生だった私は、子どもながらもそろそろ両親が『りこん』するんじゃないかと思っていた。
『りこん』という言葉はテレビドラマで知った。そんな幼い私は、私の家でもテレビの様にテーブルを挟んで、二人が”紙”にハンコを押す日が来るのではないかとワクワクしていたのを覚えている。
別にドラマと同じシーンが見られるからという意味じゃなくて、単純に両親が離れて暮らしてくれるのを期待していた。要するに私は、二人が一緒に暮らしている姿をこれ以上見たくなかったのだ。
母親は毎日父の愚痴を私にしてくるし、父は帰って来るなり母と大喧嘩。食器が飛び交うようなドラマ的演出は一切なかったけれど、我が家の空気はいつも負のオーラで散らかり放題だった。
けれど、私の両親が離婚する事はなかった。理由は簡単、世間体だ。二人とも自分の経歴にバツが付く事をひどく嫌ったのだ。二人にとって大切な物は世間体で、平穏とか団欒とかそんなものはまったく関係なかった。
そんな不安定な環境で育ったからか、私はとても空気を読む子どもになっていた。人と会えば上手に愛想笑いをし、余計な事は言わず、けれど程よく会話に加わる。
常に人の顔色を窺って、当たり障りのない対応をする。そんな能力は小学生の時には既に身につけていて、学校の中でも近所の間でも、私の評判は上々だった。行く先々で娘の事を褒められるものだから日中の母は大体ご機嫌で、私が愚痴に付き合わされる心配はほとんどなくなった。
それでも夜になれば相変わらずで、両親の喧嘩の声を聞く度に私は、より一層外面の良さに磨きをかけていった。その反面、心の奥底にいる本当の私は何も感じない、つまらない人間になっていった。人間を第三者目線から観察するだけの存在。それが本当の私が持つ唯一の役目だった。
そんな八方美人の私が未完成だった、確か私が小学一年生の時、毎日続く両親の喧嘩に嫌気が差して一度だけ家出を決意した時があった。
その日が具体的にいつなのかは覚えていないけれど、どんな物を持ち出したかは今でも思い出す事が出来る。
ぱんぱんに膨らんだ赤いランドセルとキャラクターの絵柄の入ったかわいらしい手提げ。手提げにはお気に入りのワンピースとその他に着替えが少々、それに全財産の入った貯金箱を入れていた。それじゃあランドセルはと言うと、何故か全教科の教科書とノートをきっちり詰め込んでいた。どうして家出するのに勉強道具なんて持ち出したのか今となっては判らないけれど、思い出すだけでおかしくて笑ってしまう。まだ私は子どもだったんだなと思える、唯一の出来事だったと思う。
そんな不可思議な格好のまま、私は二人の喧嘩に乗じて夜の住宅街へと飛び出した。けれど小学生の私に行くあてなんてなくて、すぐ途方にくれてしまった。
そんな私が行き着いた先は、近所にある行き慣れた公園だった。田んぼに囲まれたこの公園はとても小さくて、遊ぶ物といえばブランコと小さな砂場しかなかった。
ひとまず座ってから考えよう。
重たいランドセルに疲弊していた私は、通りかかった公園のブランコで休もうと公園へ足を踏み入れた。
けれど、そこには先客がいた。
月明かりに照らされる小さな身体。
ブランコに揺られるその姿は私と同じくらいの大きさで、服装から男の子だとすぐに判った。
重たい荷物によろめきながら、私はその男の子の元へと向かった。
「こんばんは」
私は横から声を掛けた。もちろんにこっとよそ行きの表情で男の子に微笑み、第一印象の向上に努める。
「こん、ばんは……」
ザザッと足で減速させ、ブランコがその振り子運動を停止させたところで、男の子は私の方を向き、口を開いた。
「となり、いい?」
私は手提げを持っていない方の手で、奥のブランコを指さした。
うん。と男の子が言ったのを確認してから、私はよろよろと歩き出し、ブランコに勢いよくと腰掛けた。するとランドセルの重みで私の乗ったブランコは後ろに傾いてしまった。
わわわ、と焦りながらも手提げを放し、両手でしっかり鎖を掴んで何とか耐えしのぐ。
ふーっ、と安堵の溜息をついていると、隣からクスクスと笑い声が聞こえた。見ると、男の子が私を見て笑っていた。
男の子は私の視線に気付いたのか、気まずそうな表情で私から目を逸らした。
わ、見られた。そう思った私は、恥ずかしくなりブランコの鎖をぎゅっと握りしめて下を向いた。ブランコはかしゃんと弱々しい音を立てた。
これが、私とアイツの初めての出逢いだった。
背中の重しを地面に降ろすと、私の身体はとても軽くなった。今の私なら何だかこのまま飛べそうな気がした。けれど人間が飛べるはずもない事は、幼い私にも判っていた。
「とびたいなぁ」
月が煌々と輝く夜空を見上げながら、私は呟いた。
もし飛べたら、私はお父さんとお母さんのいない所に飛んでいけるのかな。そんな事を夢想しながら、私はぼんやりと空を見つめた。
「そら、とびたいの?」
突然隣から声が飛んできた。見ると隣に座る男の子が、私に視線を向けていた。
「うん。鳥みたいにとんで、どこか遠くに行きたいなぁ」
ちょっと子どもっぽいかな思いつつも、小学一年生の私はそんな言葉を口にしていた。
「それならぼく、いい方法しってるよ」
そう言うと男の子は、突然ブランコの上に立った。そしてしっかり両手で鎖を掴むと膝をめいっぱい使って立ち漕ぎを始めた。
私は何が始まるのか今ひとつ理解出来ていなかった。
そんな事はお構いなしに、男の子はぐんぐんブランコを加速させ、その振り子運動をどんどんと大きくしていった。そして気が付くと、このままいったら半円を描いてしまうんじゃと言うほど振れ幅は大きくなっていた。
「あ、あぶないよ!」
私の心配を余所に、男の子は私に笑顔を見せた。そしてブランコに揺られたままゆっくりと膝を曲げると、ストンと素早く板の上に腰掛けた。
何をするのかな?
私が首を傾げた瞬間、トップスピードに乗ったブランコからフッと黒い影が射出されるのを私は目撃した。
なに!?
そう思って飛んでいった影を目で追うと、そこには両手をめいっぱい広げて宙を舞う男の子が、真っ白な月明かりに照らされて輝いていた。
Tシャツの裾を翻して宙に浮かぶその姿はまさに大空を舞う鳥のようで、私はその姿に見とれてしまっていた。
ザザーという男の子の着地音と共に、私の意識も地上へと戻ってきた。
男の子は、ブランコの周りにある安全柵を跳び越え、更に遠くまで跳んでいた。うろ覚えだけど、恐らく一メートル半か二メートル、もしかしたらそれ以上跳んでいたような気がする。大昔の記憶なので曖昧だけれど、それくらい遠くへ跳んだと言う印象が強かった。
砂の上を滑り無事静止した男の子は、くるっとこちらを向くと、ニッとこちらに笑いかけてきた。
呆気にとられた私は、しばらく男の子の顔をぼけーと見つめていたが、正気を取り戻すと私はめいっぱいの拍手を男の子に送った。
「す、すごい!! すご〜〜い!!」
普段会話の中で驚いたように振る舞う事はあったけれど、今回の私は素直に心の底から驚いていた。遠くに跳んだ事もそうだったけれど、何より華麗に舞っている姿がとてもきれいだった。凍った湖から飛び立つ一羽の白鳥のように優美で繊細な動きだった。本当にここから飛んで行ってしまうのではないか。そう思わせるほど、男の子は美しく跳んでいた。
始めは得意げに笑顔を見せていた男の子だったけれど、私が大絶賛すると顔を背けて斜め下を向いてしまった。月明かりに写し出されるその子の顔は少し赤く、照れているのが遠くからでもよく判った。きっと恥ずかしがり屋さんなんだな、と私は察した。
しのづかけいた。
ブランコに戻ると、男の子はそう名乗った。
篠塚圭太。彼の漢字は後々知ったけれど、当時は音で聞いただけだった。そもそも小学一年生で書ける漢字がほとんどないので、訊いた所で判らなかったと思う。
そんな彼とはすぐに仲良くなった。理由は簡単で、彼も私と境遇が同じだったから。彼の家もうち同様、両親の仲が悪かったのだ。
「いつもケンカが終わるまで、ここにひなんしてるんだ」
男の子が、圭くんがそう言っていたのを私は今でも覚えている。その時の顔がちょっぴり哀しそうだったのが印象的だった。
「だからさ」
男の子が私を真剣な顔で見てきた。
「きみも……」
「ちづる」
「えっ?」
「さえきちづる。下の名前でよんでね」
私がにこっと笑いながら言うと、男の子は照れながら私の名前を呼んでくれた。
「じゃあ、ちづる……ちゃん。ちづるちゃんも何かあったらまたここに来ればいいよ。だから、家出はやめよ! ねっ!」
バレていた。
私が家出をしようとしていると、男の子にはバレバレだったようだ。
まあ確かにこんな時間にあんなたくさんの荷物を持って歩いていたら、それ以外あり得ないのだけれど、幼い私は男の子の言葉にドキリとしてしまった。大人にいたずらがバレた瞬間のような心境だったのだと思う。
「う……うん」
内心バクバクだった私は、一も二もなく了承するしかなかった。
歯切れの悪いながらもイエスの返事をすると、男の子の表情がぱあっと明るくなった。
「ホントに! じゃ、決まりだね!」
そう言うと男の子はひょいっとブランコから立ち上がった。
「じゃ、帰ろ。ちづるちゃんもそろそろ帰った方がいいとおもうよ」
そう言って男の子は空中を指さした。私がそちらを見るとそこには時計があって、時間は九時四〇分を指そうとしていた。
「……うん、そうだね。それじゃ、帰ろうかな」
そう言って、私たちは夜の公園で別れた。男の子と私は、お互い家が逆の方向だった。
その日から毎日、私はその公園に行く様になった。
圭くんは、私が着く頃にはいつもブランコにゆらゆらと揺られていた。私はその隣に座ると、一緒にブランコに乗りながらたくさんのお話をした。学校の事、両親の事、テレビの事。私にとってその時間は、心休まる唯一の時間だった。その時間だけは、相手を意識しながらする学校での会話と違って、とてものびのびと話す事が出来た。何でなのかは判らないけれど、きっと同じ境遇にあるという仲間意識というか同族意識が、私を安心させたのだと思う。
でも本当は、彼の人柄が一番の要因かもしれない。明るくて、優しくて、でもちょっぴり恥ずかしがり屋な男の子。それが圭くんだった。私はそんな彼の優しさに甘えた。いや、甘えきっていたのかもしれない。
だから私は、彼の苦しみにまったく気付いてあげる事が出来なかった。
私と彼は市立の学校に通っていて、学年も一緒だったけれど、学区の境界付近に住んでいたので小学校も中学校も別々だった。
だから私たちが普段会うのは夜の短い時間だけだった。しかもお互いの両親が喧嘩している日だけ。もちろん成長するにつれ、休日の昼間に二人で出掛けるなんて事もあったけれど、外面モードを行使してしまう私には、ちょっぴり辛い時間でもあった。なので、ふたりで落ち着ける時間は夜の公園だけだった。だからその夜の時間はとても貴重で、私にとって至福のひとときだった。
けれどそんな時間は、突然私の目の前から姿を消してしまった。
彼が、自殺したのだ。
中学三年生の、梅雨の日だった。そしてそれを最初に発見したのは私だった。ちょうどこの場所で彼は首を吊っていた。海風に揺れて、まるでブランコに乗ってるみたいに……。でも彼は笑顔でもなければ、楽しそうでもなかった。ただ苦しそうな顔で、まっすぐあの灰色の海を見つめていた。まだ温かい身体を揺らしながら、圭くんはあの冷たい海とどんよりした梅雨空を見つめていた。
私は急いで降ろそうとしたけど、いつの間にか大きくなっていた圭くんの身体は、小柄な私ではびくともしなかった。携帯で救急車を呼んで、病院に運ばれたけれど、彼は助からなかった。
いじめ。
遺書にはそう理由が書いてあったらしい。
静かで地味だったから、狙いやすかった。
いじめの主犯格はそう言っていたらしい。
『らしい』
私はすべてに対して受動的になっていた。だから彼に関する話を聞かされた時も、こういう理由だったらしいというだけで、私はそれ以上その話題に突っ込む事はなかった。
彼が死んだ。
毎日の様に会っていたのに……。なのに私は、圭くんの苦しみに気付けなかった。その事だけが私の頭の中をぐるぐると回り続けていた。
中学三年の私にとって、彼は既に家族だった。私の両親なんて知った事じゃない。あの人たちは私に興味なんてなかった。ただ毎日喧嘩するだけ。ただそれだけ。だから私にとっての家族は、同じ境遇で同じ苦しみを共有する彼だけだった。
なのに……
なのに彼は私に何も相談せず、独りで逝ってしまった。
――君には心配をかけたくなかった。
最期に彼が送ってきたメールには、そう書かれていた。私が彼を首吊りの状態で発見するきっかけとなった一通のメール。どうしてそのメールで、相談ではなく自殺の宣言をしたのか。私には到底理解が出来なかった。そして何より、悔しかった。ただただ悔しかった。
彼は学校では物静かだったという。だったら私の前で見せていたあの笑顔は、元気は一体何だったのか。今となってはあれが”本当の彼”だったのか、それとも”表面上の彼”だったのか知る余地はない。それがとても悔しかった。彼をちゃんと知る事が出来なかった、その事が悔しかった。
私はこの悔しさで受験を、この二年強を乗り切ってきた。彼と一緒に行くと約束した北高に受かるために。北高に通うために。
だけどこの二年は、私にとって地獄でしかなかった……。




