悪役令嬢は「ボンバイエ!」と叫ぶ〜その後の甘いお話〜
残暑お見舞い申し上げます!
わたくしの名は、シェリンダ・フォートンという。
美姫として名を馳せる、ちょっぴり……いや、かなり有名なフォートン伯爵令嬢だ。
貴族の一人娘として大切に育てられたわたくしは、その才能と美貌に磨きをかけながらすくすくと育ち、才色兼備の輝ける令嬢となり、やがてガスラクト国のハインリヒ王子の婚約者候補となった。
これは大変名誉のあるお話だ。そして、すらっと細身のハインリヒ王子は、輝く金髪に青い瞳をした、まるで妖精のような美しい王子だと評判の美青年だ。
けれど。
しかし。
弾けるアレが、燃えるアレが、熱いアレが、彼には足りなかったのだ。
そう、筋肉が。
筋肉が!
ボンバイエーッ!
このガスラクト国では、美少年系の男性がもてはやされ、がっちりした筋肉質の男性はあまり人気がない。社交界でも、おしゃれでダンスが上手くて、楽器を嗜んで、女性に気の利いたことが言える男性がモテている。
わたくしは、それは絶対に間違っていると思う。なぜなら、殿方の魅力の80パーセントは筋肉にあるのだから。
ヒョロヒョロしたお坊ちゃんのどこがいいのか、わたくしにはまったく理解できない。理解できるのは、暑苦しいほどのたくましい筋肉だけ!
そんな考え方のわたくしなので、まったく好みでないヒョロヒョロのハインリヒ王子との婚約は、内心では避けたいと思っていた。
だって、服を着ている時ならまだしも、結婚したら、筋肉のない生っ白いヒョロヒョロの裸体で迫られるわけで……おお、嫌だわ! なんて気色が悪いのでしょう! そんなことをされたら、無意識のうちに鳩尾に蹴りを入れてしまうわ!
腹直筋が仕事していない鳩尾に、ガツンとね。
こんなことを口に出すと両親に泣かれそうなので、伯爵令嬢という立場のわたくしは言わなかったけれどね……。
そんなわたくしの運命を、卒業パーティーの夜が変えたのだ。
そう、素晴らしき筋肉との出逢いがございましたのよ、ハァハァ!
ボンバイエーッ!
「……ねえ、フェルナードさま?」
わたくしは、婚約者であるフェルナード・ライアスさまのたくましき二の腕につつっと指先を滑らせながら言った。
「んんっ、なんだ、シェリンダ姫?」
わたくしの悪戯のせいで色っぽい声を漏らしながら、フェルナードさまの青い瞳がわたくしを見つめる。
茶色の髪を短く揃えて男性的な精悍な顔つきのフェルナードさまの頬には、戦争で勇ましく闘った証の傷痕がある。
白く斜めに走ったそれは、フェルナードさまのお顔をさらにワイルドに引き立てて、あまりのセクシーさにわたくしの魂はボンバイエされてしまうのだ。
「あん、フェルナードさまったらよそよそしくてよ。どうぞ、シェリンダ、と呼び捨ててくださいませ」
『あん』のところで、おでこを胸筋にこつんと当てて弾ませる。
今日もナイス筋肉ですわ。
「いや、まだ俺たちは正式な結婚をしていない身なのだから、あまり不埒な振る舞いは、んんーっ!」
わたくしのイケナイ右手が、フェルナードさまの身体を弄っていた。
「そんな真面目なところも、す、て、き♡」
筋肉の流れに沿って触られて、びくっとなにかを感じてしまっているフェルナードさま、可愛すぎる。
戦場で会ったら敵に回れ右されそうな強面なのに、わたくしにいたずらされて可愛らしく頬を染め、ちょっと色っぽく鼻にかかった声を漏らしてしまうとか、もう筋肉愛好乙女の胸をキュンキュンさせてキュン殺するおつもりなのかしら?
存在が危険なボンバイエですわよ。
わたくしのハートは皆殺し。
ああもう、フェルナードさま、好き。
すべてが大好き。
ツボにピンポイントで人差し指を突っ込まれてぐりぐりぐりっとされてるくらいに、大好き。
あまりにも想いが募り、ハァハァハァハァハァハァとエンドレスに呼吸が荒くなりそうなのを、淑女のわたくしはぐっと堪えた。
そう、この素敵な筋肉の持ち主であるフェルナードさまは、わたくしの同級生であるカーク(彼は脳筋騎士見習いなので筋肉的にがんばってはいるが、まだまだ未熟な青い果実だ)の末の叔父にあたる、九つ歳上のたくましい騎士さまなのだ。
毎日鍛錬を積み重ね、鍛え上げられた筋肉に包まれた身体つきは、闘神のようにキレがあって美しい。顔には闘いで刻まれた傷痕がざっくりと走り、鋭い眼光で睨みつけられると同じ騎士団の仲間でさえも血が凍るという。
そんなフェルナードさまの澄んだ青い瞳で見つめられたら、わたくしはもうメロメロだ。
血が凍るどころか沸騰して鼻から噴き出す。
鼻から真っ赤な水芸だ。
けれど、愛しい婚約者さまの身体を鮮血で染めるわけにもいかないので、わたくしは伯爵令嬢としての精神力を総動員して出血を抑えているのだ。
「ねえフェルナードさま、あと3日、ですわね。わたくし待ちきれませんわ」
「……いや、そこは待とうか」
「ううんもうっ、フェルナードさまの、い・け・ず♡ じらしんぼ♡ もしかして、オトナの忍耐力を見せつけてくださっているの? それならばわたくしは、こーんなことをしちゃいますわよぉ」
フェルナードさまの膝に横座りしたわたしが彼の胸筋に頬擦りをすると、フェルナードさまは「ふぉっ」と声を漏らしてから「ぐぬぬぬ……」と苦しそうな声を出す。
「今日も素晴らしい張りと燃えるような熱ですわね」
うふふふ、ぐりぐりぐりぐり。
ついでに額も擦りつけるわ。
「ひっ、姫っ、お静まりなさいっ、くうっ!」
「やあん、シェリンダでしょ? わたくしはフェルナードさまの、フェルナードさまだけのシェリンダなのよ?」
「シェッ、シェッ、シェリンダーッ!」
「なあに、フェルナードさま?」
ようやく呼び捨ててくださったフェルナードさまの顔を見上げて、わたくしは首を傾げて見せた。
「これは、少々密着し過ぎというか、あまりにも近い、近すぎると思うのだがっ」
「まあ! これは婚約者としては適切な距離だと思いますわよ。こうして、ぐりぐりぐりっとわたくしの匂いをつけて、他の女性に『シェリンダのもの』だと知らしめなければなりませんもの、ああ忙しいわ」
「いやいや、そんな必要はまったくないだろう」
わたくしは驚いて声をあげた。
「なんてことをおっしゃるの⁉︎ 絶対に必要ですわ! だってフェルナードさまは、ガスラクト国一のたくましくて素敵な筋肉をお持ちの、最高にカッコいい騎士さまですもの! せっかくこうして婚約できたのに、うっかり隙を見せて誰かに取られたりしたら大変ですもの、わたくしは結婚するまでは警戒を緩めませんわよ!」
フェルナードさまの太い首にかじりついて、ついでに噛みついて歯形を付けた。
「ひっ、シェリンダ姫に……噛まれた……」
「わたくしのものだという印を付けましたわ」
わたくしは、フェルナードさまの首に手を回したまま「ふふんっ」と偉そうな顔をした。
「……もう、あなたはどうして……そんなにも可愛らしいのだ……俺の忍耐力はもう……」
フェルナードさまが、わたくしの身体を抱きしめてくれた。素敵すぎる。アラウンド筋肉だ。ついでにくんくんと匂いをかいでいるようだけれど、わたくしの方が100倍くらい多くかいでいるので気にしない。
「可愛い……シェリンダが可愛すぎて……俺はもう……」
「あっ、フェルナードさま……」
筋肉の檻に閉じ込められたわたくしは、強く締められて危うく天国に逝ってしまいそうになる。
「……筋肉の……至福……好き……」
「シェリンダ……シェリンダ! しまった、また締め過ぎた! すまない、しっかりしろ!」
遠くにお花畑が見える頃、彼方から慌てたようなフェルナードさまの声がした。
「……フェルナード、さま……好き……」
お花畑から帰還した。
意識が朦朧としながらも、わたくしは熱い筋肉の張りを感じて幸せだった。
「誰か、シェリンダに冷たいタオルを!」
「こちらに用意してございますわ、さあどうぞ」
ええ、この『筋肉締め』は初めてではございませんの。侍女も慣れたものですわ。
「シェリンダ、大丈夫か?」
わたくしは、首にタオルを当ててくれているフェルナードさまの手の甲に触れて、ついでにつつっと筋肉の走行を確認して言った。
「はい、大丈夫ですわ。今日も素敵な筋肉を堪能いたしました、ごちそうさまでした」
にっこり笑ったわたくしの顔を見て、フェルナードさまは安心したように肩の力を抜いた。
「……か弱い令嬢に見えるのに、シェリンダ姫の筋肉に対する耐性は素晴らしいな。少し締めるとすぐに失神して、そのまま寝込んでしまううちの騎士団員たちにも見習わせなければ」
「まあ、わたくし以外の人をこの筋肉で締めるだなんて……妬けちゃいますわ」
わたくしはフェルナードさまの頬にある傷痕を撫でながら言った。
「たとえ相手が騎士さまでも、女性の方を締めたらイヤよ?」
「わ、わかった! 男だけを全力で締めるから!」
全力で締めたら、お花畑を飛び越えてしまう気がするわ。
「フェルナードさま、好き♡」
「ふぉっ!」
フェルナードさまは真っ赤な顔をして強く鼻を押さえた。
わたくしたちのラブラブぶりを見て、侍女たちは「まあ、本当に仲のおよろしいこと」「羨ましいですわね」と今日も上品に顔を赤らめてみせる。
そう、彼女たちは決して目を逸らさないのよ。そのあたりに、わたくしは筋肉愛の芽生えを感じているわ!
彼女たちと共に『ボンバイエ』を叫ぶ日も近いと思うの。
ちなみに、わたくしは「あと1ヶ月ですわね」から毎日こうやってカウントしている。
え? 3日後に何があるかって?
もちろん、わたくしたちの結婚式ですわよ!
うふふふ、3日後には、この筋肉のすべてがわたくしのものになるの。
筋繊維一本たりとも、他の女性には許してはダメよ、マイダーリン♡
フェルナードさまは、婚約してからわたくし一筋に愛を捧げてくださっているので、わたくしのことをとても大切に扱っている。
そのため、ご自分からはわたくしに指一本触れずに我慢して、わたくしにいいように撫でまわされているのだ。湧き上がるリビドーを堪える『ぐぬぬ顔』すら愛おしい。
3日経ったら、思う存分わたくしを撫で回してくださいませね、マイダーリン♡
なんてね、恥ずかしいわ、きゃ♡
ああ、いちいち語尾に♡がついてしまうくらいに、わたくしはフェルナードさまに首ったけなのよ。
そんなわたくしたちは、公認の仲なので、堂々と王宮の庭園を散歩して咲き誇る薔薇を楽しんでいた。手を握り合ってお散歩するだけでも楽しい、初々しいカップルなのよ。
「この真紅の薔薇は、情熱的なシェリンダ姫のようだな」
「まあ、フェルナードさまったら」
「この淡いピンクの薔薇は、赤子よりも柔らかなシェリンダ姫の頬のようだ」
「うふふふ、フェルナードさまったら」
「おや、この薄紫の薔薇はシェリンダ姫のように清楚だな」
「フェルナードさま……好き♡」
きゅっと大きな手を握ると、きらめく青い瞳がわたくしを優しく見下ろす。
「ここにあるすべての薔薇を集めたよりも、シェリンダ姫の方が美しい」
「それならば、フェルナードさまはわたくしを支える大いなる大地ですわね。薔薇の花は切ってしまうとあとは枯れるだけ。大地から離れては生きていけませんの」
「我が愛しの薔薇姫を、生涯咲き誇らせることを誓おう」
「フェルナードさま! 好き!」
わたくしは背が高くたくましい婚約者に抱きついた。
「姫……こんな俺にこれほどまでに愛情を表してくれるとは……女神か? 女神なのか?」
フェルナードさまが優しく笑ってわたくしの髪をそっと撫でていたら。
「まあ、シェリンダさま。ご無沙汰しておりますわ」
そこには、元婚約者のハインリヒ王子にないことないこと盛り沢山のわたくしの悪口を吹き込み、婚約破棄に持っていってくれた、マリー・ヤウェン男爵令嬢が立っていた。
「ごきげんよう、フェルナード・ライアスさま。今日は良いお天気ですわね」
わたくしは大切な婚約者を背中に隠した。しかし、フェルナードさまの背はわたしより頭1.5個分は高いので、全然隠せない。
「……フェルナードさま、見てはなりません」
わたしは振り返ると、彼に訴えた。
「あの女を見ると、カッパの呪いがかかります」
「カッパ?」
「王立学園の池に棲む妖怪です」
「なんと、そのようなモノが学園に棲みついているのか⁉︎」
「はい。身体中が緑色のカッパが、池の中から手を出して……」
「ちょっとシェリンダさん! いい加減なことを言わないでちょうだい、誰がカッパよ!」
内緒話をしていたのに、マリーさんたら気が利かないわね。
「マリーさんこそ、控えてくださらない? わたくしと婚約者のフェルナードさまは、楽しいデートのひと時を過ごしているの。邪魔をしないでちょうだいな」
「……あら、そのようなことをおっしゃらずに、わたしにもフェルナードさまを紹介してくださいな」
「嫌ですわ」
「まあ、酷い……王立学園のクラスメイトだったのに……」
よく言うわね。そのクラスメイトを罠にはめて、みんなの前で断罪しようとしたのはどこのどちらさまかしら?
わたしは、目を潤ませて弱々しい振りをするマリー・ヤウェンを冷たく見た。
「あなたは、わたくしを陥れようとして散々嘘をつき、その上複数の男性をたぶらかしていたことがわかって、婚約者候補から除かれたんですってね」
「嘘よ! シェリンダさま、どうしてそんな酷い嘘をつくの? フェルナードさまの前で、わたしを辱めるようなことを言うなんて、酷いわ……」
この演技に学園の男性陣は騙されたのよね。
「マリーさんこそ、どうしてそんな失礼な振る舞いをなさるの? 人の婚約者を名前で呼ぶなんて、大変礼儀知らずだわ」
「わたしは、ただ、フェルナードさまとお友達になりたくて……それだけなのに……」
マリーは大きな瞳からほろほろっと涙をこぼして見せた。
「それは、フェルナードさまが地位も名誉もある、大変なお金持ちでいらっしゃるから……そうでしょ? あなたの取り巻きたちも、皆そのような生徒でしたものね。でも、あなたの本性がバレた今では、誰もあなたに取り合わなくなってしまった。そこで、今度はフェルナードさまに目をつけた……そうですわね」
「ちっ、違っ、違います……ううっ……」
マリーは両手で顔を覆って泣き出した。
そうすれば男性の同情を買えると知っているからだ。
「シェリンダ姫」
「はい?」
「その女性は、マリー・ヤウェン男爵令嬢なのだな?」
「ええ、そうですわね。またの名を、カッパのマリーさんです」
「違うって言ってるでしょ!」
泣いているはずのマリーさんが、わたしを睨んで言った。そして、フェルナードさまの視線を感じてまた泣き始めた。
「この挙動不審なところが妖怪と言われる所以ですわ。それでは失礼いたします」
「ちょっと待ちなさいよ!」
あっさりとその場を去ろうとしたら、怒ったマリーさんに止められた。泣いたり怒ったり、忙しいカッパだ。
「フェルナードさまにお話が……」
「俺にはない」
さくっと断られている。わたくしはくすっと笑ってしまった。
「そんな冷たいことを……フェルナードさまは、シェリンダさまの本当の姿をご存知ないのですわ。おふたりが結婚してしまったら、きっとフェルナードさまは不幸になります! わたしにはわかります!」
すると、フェルナードさまは射抜くような視線でマリーを貫いた。
「お前になにがわかると言うのだ? 身の程を知れ!」
「そんな……フェルナードさま、目を覚まして! あなたはシェリンダさまに騙されているのよ」
「黙れカッパ! 悪しき妖怪のお前がなにをしたか、俺はよく知っているぞ」
「だから、シェリンダさんは……」
「違う。俺の甥を学園で弄んだことについて、詳しく聞いているのだ。卒業したらもう忘れたのか?」
「甥?」
「カークだ」
マリーさんは「ひっ」と息を飲んだ。
「カークに奇妙な呪いをかけてくれたな。もう二度と俺たちの前に現れるな。でないと、カッパの池に放り込むぞ!」
「き、きゃあああーっ!」
悲鳴をあげて、マリーは人間離れしたスピードで走り去ってしまった。
彼女は本当に妖怪だったのかしら?
「……シェリンダ姫、大丈夫か?」
大きな手がわたしの背中をぽんと叩く。
「フェルナードさま……妖怪の毒牙にかからなくてよかったですわ……」
このベテラン騎士は、マリーの猿芝居に引っかかるほど愚かではないとは信じていたけれど、カークやハインリヒ王子たちが手のひらで転がされていたあの頃を思うと、やっぱり不安だった。
「俺は、可愛い婚約者を信じているし、シェリンダ姫以外の女性と友達になろうなどとも思わない」
「はい」
見上げるわたくしの顔に、フェルナードさまの顔が近づく。
彼はわたくしの額に唇を落として「……今はここまでだ」と笑った。
「結婚式まであと3日だ。俺はなにがあろうとも、シェリンダ姫を俺の嫁にするからな」
「フェルナードさま……」
好き。
もう、好き!
わたしが筋肉騎士に手を伸ばすと、彼は「おやおや、甘えんぼさんだな」と言ってわたくしを抱き上げた。
「はい、わたくしは甘えんぼさんなのです。でも、甘えるのはフェルナードさまにだけですわよ」
「よし!」
わたしのたくましい婚約者は、片手でわたくしを軽々と抱いて、もう片方の手でわたくしの頭を撫でた。
「俺が甘やかすのも、シェリンダ姫だけだ」
「はい……」
「シェリンダ、愛している」
「フェルナードさま……わたくしも愛しております」
好き!
大好き!
超好き!
ボンバイエーッ!
そして、抱っこされたわたくしはフェルナードさまにぴったりとくっつきながら、美しい薔薇の園を散歩したのであった。
FIN.