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おはよう、ジョン・レノン

作者: 村崎羯諦

 夢を見た。


 私は昼下がりの3年C組の教室にいて、窓際の席に座っている。教室の中には誰もいなくて、外を見れば青みがかった木の葉が風に吹かれてかすかに揺れていた。明かりのついていない教室は、窓から差し込む陽の光で左半分が白く照らされ、右半分は灰色に沈んでいる。穏やかな静寂が、黒板の右隅に書かれた日直の名前が、角の塗装が剥がれた机が、夢見心地の靄がかった意識をはっきりとさせていく。


「ひょっとして寝てた? ここは夢の中なのに」


 声のする方へと振り返る。私の横には志保が立っていた。彼女の姿を見て、ああ、これはやっぱり夢の中なんだなと実感する。学校規定じゃない柄付きのカーディガンを着て、誰よりも丈の短いスカートを履いて、自分の身長と同じくらいのギターケースを背負っている、高校時代の志保。あのときのままの、私が知っている志保。左手の人差し指を無意識に机の角をこすりつける。ささくれ部分のざらついた感触が指先から伝わってくる。私の知っている現実に志保はもういない。十年前、彼女は自分で自分の命を絶ったから。


「これが夢なんだってはっきりとわかる夢のことを明晰夢っていうらしいね。知ってた?」

「知ってるよ。だって、それ教えたの私じゃん」


 細かいことは気にすんなって。志保がわざとらしく肩をすくめる。志保のおどけた顔に明るい日差しが落ち、鮮やかな陰影ができる。


「ここが夢の中だということはだ、何をしたって誰からも怒られないってわけ。担任もいないし、生徒指導の笹月もいない。それにチクリ魔の内藤だっていない」

「それは、そうだけど」

「だったらさ、こんな暗い教室にいないで、外に出よ」


 志保が私の左手をつかむ。氷のようにキンと冷たい手、その手に引っ張られて私は椅子から立ち上がる。志保が私の手を掴んだまま走り出す。かかとの潰れた上履きが脱げそうになる。掌に志保の伸びた爪が刺さって少しだけ痛む。私は志保の歩幅に合わせて走り出す。あの頃と同じように。あの日々と同じように。


 十年前の文化祭のポスター。踊り場の落書き。錆びたロッカー。ひびが入ったままほったらかしにされた生物準備室の扉のガラス。廊下の窓から見える、五年前に取り壊されたはずの別棟。時が止まった校舎に、私と志保以外の人間はいない。二人分の上履きの足音だけが、小気味よく廊下に響き渡る。キュッキュッキュッキュッ。


 廊下を走り抜け、階段を駆け上り、三階の端っこにある音楽室にたどり着く。志保が躊躇なく扉を開く。音楽室の中に入った瞬間、湿気と熱気の混ざった空気が私を包み込んだ。志保が窓を全開に開けると、緑の匂いを含んだ風が勢いよく吹き込み、ピアノの譜面台に置かれていた楽譜が一枚、二枚とめくれる。窓の外の澄んだ青の上には、刷毛で掃いたような薄い雲が浮かんでいた。


「私のあだ名って覚えてる?」


 志保が背負っていたギターケースを下ろしながら私に問いかける。

 

「ジョン・レノンでしょ。みんな流行りの音楽を聴いてるのに、志保だけは一人でビートルズなんて古臭い曲を聴いてたから。軽音部の先輩にそうからかわれてたんでしょ」

「音楽に流行ってるとか、古臭いとかないよ。あるのは良い音楽か、自分には合わない音楽か、それだけ」


 志保がギターケースから中身を取り出す。表面が色焼けしたテレキャスタータイプのエレキギター。蒸発した父親が置き忘れていったものなんだよね。演奏を初めて聞かせてもらった時に、志保が屈託のない笑顔で教えてくれた。変わらないね。私がぽつりとつぶやく。志保はそりゃ栞の夢の中だから当然じゃんと素っ気なく返事を返す。


「私は……私は変わっちゃったよ。志保と一緒にこの高校に通ってた頃からさ」


 志保がエレキギターをチューナにつなげ、ペグを回しながらチューニングを始める。弦が一本ずつ弾かれて、輪郭の尖った音色が室内に響く。


「高校を卒業して、大学を卒業して、今の会社に入社して。嫌な目にいっぱいあって、だけど自分も同じくらい誰かに嫌なことをしてて、だけどそのことについては見て見ぬ振りをしてる。自分を守るためなら嘘だってつくし、イライラしてる時なんかは誰かの悪口を平気で言ってる。私がなりたくないって思ってた大人に、気がつけば私はなってて、だけどそれは仕方ないことなんだって必死に自分を正当化してる。学生時代さ、私、志保に憧れてたんだ。親友だったけど、それ以上に志保みたいに芯の通った強い人間になりたいって思ってた。恥ずかしいからそんなこと言えなかったけどさ。なのに今の私は、みっともない真似をしながら私は毎日を過ごしてる。死ぬ度胸もないくせに、自分で自分の人生を切り開く覚悟もないくせに、毎日死にたい死にたいって思いながら」

「私は栞が思ってるような強い人間じゃないよ。結局、自殺しちゃってるし」

「でも、私がもっと強い人間だったら、もっと立派に生きていけるはずだし、それに、私がもっと強かったら、志保だって……きっと……」


 志保がギターから顔を上げる。憂いを帯びた瞳に、茶色がかった長いまつげが覆いかぶさっていた。夢の中の彼女に言っても意味のないことなのに、抑えられない気持ちが私の胸の奥からこみ上げてきて、溢れる。


「ごめんね。あの時、助けてあげられなくて」


 志保が力なく腕を下ろす。右手がギターの弦と一瞬だけ触れてかすかに電子音が鳴る。薄い雲に太陽が隠れて、部屋の中が陰っていく。床に落ちたギターの影が、ゆっくりと色を失い、溶けていった。志保は何も言わずに窓の外へと視線を移す。制服の首筋から少しだけ覗く、ただれた火傷の跡。私は自分で自分の呼吸を止める。それくらいで志保の気持ちに近づくことなどできるはずもないのに。


「あれは自分で考えて決めたことだから、栞が気にすることじゃないよ」


 志保がギターのボディをそっと手でなぞりながらつぶやく。


「仕方ないじゃん。ヒスった母親から熱湯をかけられてさ、火傷で顔と手がぐちゃぐちゃになっちゃったんだから。冷たい言い方になるかもしれないけど、栞がどんな言葉で慰めたとしても、私の気持ちは変わらなかったと思う。それは栞が一番よく分かってるでしょ?」


 座りなよ。志保が近くの机に腰掛けながら私につぶやく。椅子を引きずる音。椅子が重みで軋む。音楽室のカーテンが風で膨らんで、しぼんで、また膨らんで。私は志保が座る机に肘をつき、頬杖をつく。見上げるとそこには志保の凛とした横顔があった。机にだらしなく垂れた志保の左手をそっと握る。ギターを弾くにはあまりにも小さくて、華奢な手。


「全部が夢だったらって、いっつも思ってる」


 志保が視線だけを私に向ける。


「目が覚めたら、私はまだ高校生で、こうやって机に突っ伏して寝てるの。顔を上げたら志保が呆れた顔で私を見下ろしていて、『おはよう、ねぼすけさん』って私をからかう。そしたら、私もお返しに、『おはよう、ジョン・レノン』って言い返すの。二人で意味もなく笑い合って、近くに座っていた明美ちゃんとかっしーが何笑ってるのって言いながらこっちに来てくれて、そして、それから……それから……」

「……それから?」


 志保がじっと私の目を覗き込む。茶色の透き通った瞳の中に私が映っているのが見えた。あどけなくて、甘ちゃんで、汚れも何もしらない、十年前の高校生の私。志保がそっと手を引っ込める。上に乗っかっていた指先が机に落ちて、コトリと小さな音を立てた。


「……目が覚めたら、忘れちゃうんだよね。志保とこうやって話してることも」

「夢ってそういうもんでしょ。少なくとも栞は私にそう教えてくれてた」

「なんで忘れちゃうんだろうね」

「ここは栞の帰る場所じゃないから」


 志保が机に座ったままピックでギターの弦を弾き、コードを鳴らす。たまに聴かせてくれたビートルズの曲のイントロ。取り戻せない過去と親友を思い出させるフレーズに私の胸がちりつく。もう聞き飽きちゃった? 違うよ。ただ、この曲を聞くたびにさ、志保のことを思い出しちゃって、胸が苦しくなるの。志保の左手がなめらかに動く。軽やかな電子音が踊るように響き渡る。よくそんな小さな手でギターが弾けるね。音楽なんて全然知らなかった私が、昔志保に言った言葉を思い出す。


「最初の十年は死ぬほど辛くても、次の十年はちょっとだけ気持ちが落ち着いて、それから先の十年は、きっと私との良い思い出も思い出せるようになって、そしたらまたビートルズの音楽も前みたいに聞けるようになるさ。それが成長なんだとは言わないけど、生きるってことは、そういうみっともなくて、卑怯なもんなんだよ。自殺した私が言うのも何だけどさ、そんなシリアスになるなって」


 志保がギターを弾く手を止め、私の頭に手を置く。運動で火照った手は少しだけ暖かい。思い出の中の志保は強くて、飄々としていて、いつもこうして私に寄り添ってくれた。たくさん助けてもらったのに、たくさん慰めてもらったのに、私は志保に一体何をしてあげられたんだろう。ごめんね、助けてあげられなくて。私がもう一度その言葉をつぶやくと、しつこいなぁって言って志保が笑う。


「もしかしたら、この先生きてても良いことなんて何もなくて、ただただみっともない毎日を送るだけだとしてもさ」


 志保が私の前髪をそっと指でのける。


「生きろよ」

「……うん」


 まぶたが重くなっていく。もうちょっとだけ。囁くような私の言葉に、志保が首を横に小さく振った。まぶたが落ちきって、私は机に突っ伏す。志保が私の頭から手を離すのがわかる。少しだけ間が空いてから、志保の奏でるギターの音が聞こえてくる。何ていう名前の曲だっけ。私はまどろみの中で考える。曲のテンポが遅くなっていく。ギターの音が少しずつ遠ざかっていく。断片化していく意識の中で、ギターを奏でる志保の姿が浮かび上がって、消えていった。




























 目を開ける。窓の方へ視線を向けると、カーテンの隙間から光の柱が部屋に注ぎ込んでいた。スマホを手にとって時間を確認する。日曜朝の七時三十分。三時間ほどしか眠れていないから身体はだるい。それでも、いつものような鬱々とした気持ちではなかった。ひょっとしたらいい夢でも見たのかもしれない。私は寝ぼけ眼をこすりながらそんなことを考える。


 カーテンを開けて朝日を浴びて、洗面台で顔を洗う。鏡に映った私の顔を見てみると、目はうっすらと赤くなっていて、頬には涙の跡ができていた。よっぽどいい夢を見たんだろうな。私は一人暮らしの洗面台で一人で笑ってしまう。散らかったリビングに戻り、コーヒーメーカーのスイッチを入れ、ラジオのスイッチを入れる。いつも聴いてる番組がお休みで、代わりに若手のラジオDJが進行を進めることの説明が聞こえてくる。


 転がったチューハイの空き缶をゴミ箱に入れ、机の上にこぼれたお酒を拭く。DJの挨拶が終わり、曲紹介に移る。ラジオのスピーカーから聞こえてきた音楽に、私は手を止め、顔を向ける。聞き覚えのあるイントロに胸が少しだけちりつく。だけど、それは締め付けられるような胸の痛みではなくて、冷え切った身体が奥底の方から温かくなってくるような、そんな胸のざわつき。ボーカルのメロディが始まる。こんなに気分の良い朝はいつぶりだろうか。私の頬が自然と緩む。そして、私は鼻の抜けたような、優しい声のボーカルに向かって、つぶやいた。


 おはよう、ジョン・レノン。

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