公爵令息は妹が可愛い
「公爵令嬢は婚約破棄したい」の兄視点です。
前2作のネタバレ含みますのでご注意ください。
モートン公爵の嫡男、ラウルには絶世の美女と名高い妹がいる。名前はエリザベス・モートン。七歳の時に望まれて王太子 フレドリックの婚約者になって以来、未来の王妃、国母となるべく大切に育てられてきた少女だ。
ラウルにとってのエリザベスはまさに宝物だった。二つ下の弟リナルドが生まれた時のことはあまり覚えていないが、四つ下のエリザベスのことは、母のお腹が膨らんで来た頃から、ずっと大切に思い、産まれてくる日を心待ちにしていた。
大好きな祖母とそっくりな髪色と瞳であったことも大きい。リナルドが生まれてラウルが周囲にかまわれずにいた頃、ずっと側に寄り添ってくれていたのが父方の祖母だった。
あいにく祖母は流行病で早逝してしまい、ラウルの成人を見ることなく逝ってしまったが。
そのエリザベスが今春社交界にデビューする。来年十六になったら王太子との結婚式を挙げることになっている。
自分の宝物が国の至宝となることは、喜ぶべきなのだろうが、心中は複雑だった。
特に、エリザベスの婚約者について大いに不安があった。
「ラウル、エリザベスを前にして冷静でいられる自信がないんだ。デビュッタントでエスコートなんてできない……。どうすればいいんだ!?」
「……」
ラウルは悲壮な顔でそう訴える未来の義弟の顔を半目で見た。
――まだそんなことを言うのか、こいつは!!
怒り半分、呆れ半分。可愛い妹の未来の夫がこの状態では先が思いやられる。しかもこの男は未来の国王なのだ。このような弱音を臣下に見せて良いはずがない。
「フレディ。……未来の国王が婚約者のエスコートができないでどうするんだい?それで他国と渡り合える?彼らの恐ろしさはエリザベスの比じゃないよ」
「エリザベスが恐ろしいわけないじゃないか!ただ彼女を前にすると言葉が無くなるんだ。神を畏れ敬い、信仰するように、ただ彼女への想いだけが胸に溢れる……。そんな私の気持ちをラウルなら分かってくれるだろう……?」
このように「ああ言えばこう言う」が長年繰り返されている。結局どう言おうがフレドリックの婚約者限定失語症は婚約当時から一向に改善する兆しを見せない。天使のようなエリザベスに一目惚れした王太子は、自ら婚約者にと望んだくせに、気持ちが大きすぎて婚約者の前で一向に緊張が解けずにいた。
――いい加減成長しろよポンコツ王子。
このままでは妹を安心して嫁がせてやることはできない。ラウルはそんな事を思い溜息を吐いた。
エリザベスは物分りが良く、我慢強い。婚約者が会話を続けることができなくても、上手にさり気なく事態を収拾する機転も利くし気配りもできる。
だからこそ今まで大きな問題になっていないが、このままではいずれ取り返しのつかない事になるだろうと目に見えていた。
正妃は国王と外交を行う。王太子と王太子妃も同様だ。妃が横にいるだけで、まともな受け答えができなくなるなど致命傷に他ならない。国内の臣民に対しても同じ事で、いつ大きな過ちが起こってもおかしくないだろう。
――そもそも、エリザベスもこいつといても楽しくないだろう。
もちろん貴族の結婚が楽しいものとは限らない事はラウル自身も重々承知だった。自分自身も王太子とエリザベスの結婚が為されなければ、王女と婚姻を結ぶ事になっている。
フレドリックの妹姫、ルクレツィア王女はまだ十歳だ。十九歳のラウルにとって全く楽しい話ではない。
しかも、その為にラウルの婚姻についてはフレドリックに世継ぎができるまで保留になっているのも事実だ。どんなに美しい御令嬢がいても指を咥えて見ているしかない。
弟のリナルドは母方の伯父の領地を継ぐべく、従妹との婚姻が決まっている。ラウルも次代のモートン公爵としての地位が約束されてはいるが、そこに王配という可能性がぶら下がっていた。
モートン公爵家には亡くなったラウルの祖母が王女であった為、高い王位継承権が付されている。ラウル自身も第四位だが、実質フレドリックの次位と暗黙に解されていた。
フレドリックに何かがあったらなら、ルクレツィア王女の王配として国を率いることが求められているのだ。
フレドリックはエリザベスのことを除けば優秀な男だった。人望もあり、決断力も統率力もある。ラウルはフレドリックの次期国王としての資質には問題ないと思っているが、妹との関係が改善されないのなら、それ相応の対応を取るべきだろうと考えていた。
――この一年以内に改善されないのなら、解消させるべきだろう。国のためにも。
心の表層でラウルはそう独り言ちた。
しかし本音の部分は別にあった。
――あんなポンコツに可愛い妹をやれるか!
そんなラウルの思いを他所に、エリザベスの社交界デビューの日がやってきた。フレドリックにはあらかじめラウルが王宮までエリザベスを連れて行く点と、挨拶回りとファーストダンスだけなんとかこなせと言い含めていた。ダンスが終わったら後はラウルがエリザベスを引き受けることにしたのだ。
それなら何とか体面は保てる。
エリザベスは純白のドレスに身を包み、まさに女神も斯くやという様子だった。
フレドリックが緊張するのも失語症に陥るのも気持ちとしては理解できる、が長年なんの成長もないのは如何なものだろう。人間とは「慣れる」ものではないのか。
「お兄様、上手く踊れるかしら?緊張いたしますわ」
白い手袋に包まれた華奢な両手を胸の前で握る様は、「可憐」を絵に描いたようだった。
ラウルはその手をそっと握った。
「大丈夫だよ。お前の羽のように軽やかなステップならどんな(下手くそな)相手とでも美しく見えるよ。エリザベスは本当に自慢の妹だ。きっと王都だけじゃない、国中がお前の虜になるよ」
「まあ!そんなはずありませんわ。私、フレドリック殿下と踊るのは今日が初めてですし、お父様やお兄様のお上手なリードがあるからこそ踊れるのですもの」
エリザベスは少し不安そうに眉根を寄せた。その様も愛らしく、ラウルはそっとエリザベスの頭を撫でた。
エリザベスはその類い稀な美しさにも関わらず傲ったところのない控えめな娘だった。国の英雄の娘として幼き日に戦火を身近に感じて育った母親の影響か、「国のため、民のため」という意識が強い。それは将来の王妃としても必要な資質であろう。しかし、だからこそ常に自分を抑えつけて、ただ責務を全うしようとする妹にラウルは憐れみを感じていた。
本来なら何不自由なく、周囲の寵愛を一身に受けて己の人生を好きに選べただろう。しかし、王太子の婚約者となった日からただの少女ではいられなくなったのだ。
馬車が王宮前に着いた。窓から覗けばフレドリックが待ち構えているのが見えた。すでに顔が強張っているのが遠目でも見て取れた。
まずラウルが降りて一礼する。
「フレドリック王太子殿下、お出迎え恐悦至極にございます。我が妹、エリザベス・モートンを連れて参りました」
ラウルはそう言うと今度はフレドリックにしか聞こえない声で囁いた。
「……最初の挨拶は『エリザベス、お手をどうぞ』だけでいい」
青い顔をしたフレドリックがカクカクと頷いた。
「……えっエリザベス、お手をどうぞ」
そう言ってフレドリックが差し出した手に、エリザベスのほっそりとした指先が重ね合わされた。
「ありがとうございます。フレドリック殿下にエスコートしていただけるなんて本当に幸せですわ」
そう言って笑うエリザベスはまさに白薔薇の蕾が綻ぶような慎ましさと美しさを兼ね備えていた。
「……」
フレドリックはただ頷いて、エリザベスの手を引き舞踏会場に向かった。その様子をラウルはただ苦い思いで見つめるしかなかった。
まず国王夫妻の元に連れて行き、その後数人の高位貴族に紹介するだけのものだ。
それでも本来ならフレドリックがエリザベスを紹介する立場である。
それなのに結局フレドリックは横に立つだけでほとんど言葉を発しなかった。
幸い、皆エリザベスにとって近しい者ばかりだった。フレドリックが言い淀んでも、勝手にエリザベスと話を始めるだけの気安さがあった。フレドリックの婚約者限定失語症は周知の事実でもあったのだ。
「あれは先が思いやられるね」
エリザベスとフレドリックの様子を見ていたラウルに、ドルトン公爵家のデイビッドが声を掛けてきた。ラウルたちの父方の従兄弟であるデイビッドはリナルドやフレドリックと同い年の学友だった。
デイビッドはラウルと同じく王女の配偶者候補であり、エリザベスがフレドリックに選ばれていなかったなら、一番の婚約者候補になっていたであろう男でもあった。
「デイビッド、君は殿下の親友だろう。アドバイスしてやってくれないか」
「僕ができるようなことなら貴方がやっているでしょう。あれは付ける薬はないよ。……他の女性に対しては大丈夫なんだろう?」
そう言われて思い返すが、今までフレドリックが他の女性と踊っているところも、会話しているところも見たことないということに至った。例外は王妃、王女、モートン公爵夫人ぐらいだろう。
「……いや、そう言えばどうなんだろうね」
ラウルは首を傾げた。
「じゃあ、試してみよう」
デイビッドのこの言葉が後の騒動を生むとはこの時のラウルは夢にも思いつかなかった。
次の舞踏会は、一週間後にやってきた。
当然の如く一切成長を見せないフレドリックは前回よりも悲壮な顔でエリザベスと踊っていた。知らない者が見れば不機嫌なのかと思われるだろう。
実際の心中は正反対なのだろうが、眉間の皺と引き攣った口元は見る者を萎縮させかねない。
――エリザベスも気分が悪いだろう。
心なしか、笑みを浮かべているように見えるエリザベスの顔も仮面のような不自然さがあった。
身内だからわかる違いだが、いつもの自然な笑みとは違う作り笑いがそこにあるように見える。
事実ラウルがフレドリックからエリザベスを引き受けた瞬間、エリザベスはホッとしたような自然な笑みを見せた。いくら愛故にと言ってもあの失語症の相手はエリザベスも辛かったのだろう。
「エリザベス、疲れたかい?」
ラウルは踊りながらエリザベスに囁いた。
「……ええ、殿下と踊るのにまだ慣れなくて」
エリザベスは目を伏せて言った。
ラウルは握っていたエリザベスの手を少し強く握り直し、慰めるように引き寄せた。
その兄の優しさに応えるように顔を上げたエリザベスだったが、その目がほんの少し瞠目した。
さりげなくその方向を見るとフレドリックが女性と楽しそうに踊っていた。珍しいことではあるが女性たちの方からなら王太子にダンスを申し込むことができる。デビュッタントの女性たちが王族と踊ることを許される風習からの名残のようなものだ。
フレドリックから申し込むことは余程の賓客しかありえないので、女性から申し込んだのだろう。
ラウルはデイビッドの言葉を思い出した。
――試してみようとは、このことか!
女性の顔をよく見ればフレドリック達の学友で伯爵令嬢のリディアだった。デイビッドあたりからけし掛けられたのだろう。
ラウルはエリザベスの手を父に託した後、フレドリックに嫌味を言いに行こうとしたが、今日はデビュッタントの女性からも立て続けにダンスの申し込みがあったようで結局捕まえることができなかった。
次の舞踏会でもフレドリックはリディアと踊っていた。流石のエリザベスも腹に据えかねるようで睨むように二人を見ていた。
「リズ」
ラウルが囁く。
「眉が寄ってるよ」
エリザベスは慌てて顔をつくった。花が綻ぶような笑顔をつくる。
「ごめんなさい。兄さま」
「まあ、どんな顔でも美しいけどね」
空気を明るくしようと軽口を叩くラウルの言葉でエリザベスの顔にやっと自然な笑みが浮んだ。
曲が終わり、次のパートナーである父にエリザベスの手を渡した。フレドリックがリディアやもう一人の男性と喋りながら、壁の方に移動するのを目の端で確認した。リディアは時々楽しそうにフレドリックに寄りかかっている。随分話が盛り上がっているようだ。
――エリザベスというものがありながら、随分なことだ。
ラウルは怒りを覚えながらも冷静に考えた。フレドリックがリディアのことを何とも思っていないことは重々承知している。だからこそ気安く笑ったり、話をしたりできるのだろう。だが、客観的に見てリディアが妃になったほうが国も安泰なのではないか?
ラウルはこっそりとデイビッドの所に近づいた。
「デイビッド、ちょっと話したいんだが」
幸いフレドリックと少し離れた所にいたデイビッドを捕まえることができた。
「君が言っていた『試し』っていうのはリディア嬢のことだったんだね。それにしても何度も踊ることはないんじゃないか?」
デイビッドは肩をすくめた。
「……前回けし掛けたのは僕だけど、今回はリディアが自ら誘ったんだよ。リディアはフレドリックのことがずっと好きだったからね。フレドリックには全く相手にされてないけど……。ダンスは誘えば踊ってもらえると分かったからさ。ちょっとぐらい夢を見させてあげたっていいだろう?」
言い訳するようなその言葉にラウルは若干イラつきを感じたが、それを表には出さずに努めて何ともないような口調で言った。
「そうかい。それは令嬢のほのかな恋の思い出作りぐらい大目に見てあげるべきだろうね。それに才女と名高いリディア・ハリスン伯爵令嬢なら本来王太子妃の候補に挙がっても不思議はなかっただろうし」
少し大きな声でそう言えば、周囲の耳を大きくした雀たちにも届くだろうと考えた。あっと言う間に噂は広がるだろう。
――これを上手く使えば婚約を白紙に戻せるかもしれない。
ラウルは腹の中でそう見積もった。
ラウルの計算通り、王太子の新しい恋人、リディア・ハリスン嬢の噂は瞬く間に広がった。
彼女の王立学園での優秀さが人々に好意的に受け入れさせるのに役立った。それでもエリザベスが正妃にというのは確定事項だったので、「側妃にしてはどうか」という話に留まってはいたが。
ラウルはこの成り行きにほくそ笑んでいたが、ある日リナルドに詰め寄られた。
「なんで、フレドリックに忠告してやらないんだよ。毎回リディアからダンスに誘われてたの見てたんだろう。兄上が言ってやればこんな噂になることはなかったはずだ」
噂になるように仕向けたのがラウルだと気付いているようなリナルドの口ぶりに内心焦るが平静を装い口を開く。
「何故、僕がそんな忠告をしてやらなければいけないんだ。フレドリック殿下は成人を済ませてるのに、いつまでも僕が兄貴面するのも不敬だろ」
そう言うとリナルドはしばらく押し黙ったがまたすぐに口撃を始めた。
「……デイビッドの前で、リディアを認めるような発言をしただろう。エリザベスに言いつけてやる」
「何を言ってるんだ!そんなわけないじゃないか!」
そんなわけあるのだが、ここは絶対に否定しなければならない。真面目なフレドリックと違って、年相応のずる賢さを持ったリナルドは一筋縄ではいかない。さすが弟というべきか。
「とにかく、フレドリックとリディアは何でもないんだから、ちゃんとフォローしてくれよ。じゃないと、傷つくのはエリザベスなんだからな!」
その言葉に少し胸が痛んだ。確かにエリザベスの顔色が最近良くない。リディアの噂も耳にしているようだが、相変わらず文句の一つも言わない。以前、エリザベスは「ただ自分を愛してくれる人と結婚出来ればそれでいい」と言っていたことがあった。フレドリックの重すぎる愛を疑う余地はないのかもしれない。それでも繊細なあの子に、結婚前から側妃の噂なんて耳に入れるべきものではなかった。ラウルは自分が仕掛けたことに後悔しつつあった。
そんなある晩、事件が起きた。いつものようにエリザベスと踊っていると、エリザベスの身体が突然に力を失い崩れ落ちた。ラウルは何とか支え、そのまま抱きかかえて、すぐに邸に戻った。
ラウルは蝋のように白く血の気を失ったエリザベスの寝顔を見て罪の意識を覚えた。自分が立てた噂がエリザベスを傷つけたのだろうと。そして、同時にフレドリックに対して憎悪が湧いた。今夜はリディアと踊っていなかったが、噂が立ったことに対してエリザベスに一言謝罪すべきだろうと思った。
そんなことを考えていると、エリザベスの意識が戻った。
「リズ!どこか辛くないかい?ダンスの途中で倒れたんだ。お医者様は大きな問題はないがしばらく安静にするようにとのことだったけど、何ともない?」
「……お兄様、大丈夫ですわ。ご心配をお掛けして申し訳ございません」
エリザベスの弱々しい声に涙が出そうになった。ラウルはエリザベスがこのまま死ぬのではないかという妄想に囚われかけていたが、その気持ちがますます強くなった。祖母が亡くなった時のことを思い出す。あの時はあっという間に儚く逝ってしまった。
「リズ……、エリザベス、申し訳ない。お前がそんなに辛く感じるのだったら、フレドリックとリディアのことを放置しなければ良かったよ」
「……いえ、私の心が弱いのが原因ですわ。それよりお兄様、ご協力いただけますか?私お兄様だけが頼りなんです」
「なんだい?お前の頼みなら何だって聞くよ」
「……あの、私、こんな身体ではとてもじゃないけど皇太子妃なんて務まらないと思いますの。どうかフレドリック殿下との婚約を白紙に戻していただけないかしら」
「……こんな身体って……!?やっぱりどこか悪いのかい!?すぐにお医者様を呼ぼう。大丈夫!お前のことは僕が必ず助けるから」
「あの!あの、お兄様、ごめんなさい。大丈夫です。本当は何ともないんです……」
エリザベスは焦ったように、そして恥ずかしそうに下を向いた。
「……本当は、ってどういうことだい?」
「……ちょっと、食べる量を減らして、夜更かしを続けただけですわ……。本当はすこぶる健康です。でも病気でも理由にしないと、婚約を取りやめることはできないでしょう?」
悪戯がバレた子供のように首をすくめて兄を見上げるエリザベスを、ラウルは呆けたように見つめ返した。まさかエリザベスもそんなにこの婚約を嫌がっていたのかと半ば驚いた。いくら愛されていてもあの失語症の相手はつらかったのだろう。そう納得することはできたが、常に完璧な「王太子の婚約者」を演じていた妹がそのような厭忌を内に秘めていたとは思わなかった。
「わかったよ。リズ、しばらく体調が優れないと言って臥せっていなさい。適当な理由を付けて婚約を白紙に戻してあげるから」
「ありがとうございます!お兄様!」
エリザベスは心底ほっとしたように笑顔を見せた。
「さあ、じゃあもう少しお眠り。あとで何か摘めるものを持ってこさせるから、食べられるようならそれをお食べ。ダイエットもいいけど、ちゃんと食べないと本当に病気になってしまうよ」
ラウルの言葉にエリザベスは素直に頷いてみせると、まだ疲れていたのかすぐ寝入ってしまった。
ラウルはまず両親に報告した。エリザベスが側妃の噂を気に病み、体調を崩してしまったと。そして、婚約を白紙に戻すことができないかそれとなく尋ねた。
「それは難しいし、得策ではないわ。ラウル、貴方も先の戦の理由が貴方のお祖母様が遠因だったことを知っているでしょう。エリザベスが王太子妃にならないのであれば、また戦になってもおかしくないわ」
そう母はラウルの質問を一蹴した。
ラウルたちの祖母、メアリ王女はエリザベスによく似ていた。絶世の美女として名高く、その名声は諸外国にも轟いていた。メアリ王女への求婚競争が苛烈を極め、最後には国内の公爵家に降嫁することが決まったが、それに納得できなかった隣国の王族が、大使を殺したことが発端となって戦が始まった。将軍だった先のウィルトン侯爵が活躍し、勝利を収めることができたが、そうでなければラウル達はこの世に生まれることはなかっただろう。
母が続けて言った。
「リディア嬢が側妃になるという噂だけど、私としては好都合だと思うわ。フレドリック殿下はあの通りエリザベスが横にいてはちゃんと動けないでしょう?でも手放す気は無いでしょうし、その点リディア嬢が側妃になったなら対外的なことは彼女とすれば良いわ。殿下は本来優秀な方なのだからその方が実力も発揮できるし、エリザベスがあまり表に出て、また火種になるのは避けるべきだわ」
確かに一理ある。非情な迄に合理的な考えは流石「元将軍」の娘だと感心する。
ラウルは両親を説得するのにはもう少し時間を置く必要があると感じた。父も母に同意のようでただ頷いている。
――しばらくの間エリザベスには病気のフリを続けてもらおう。
それぐらいしか婚約を白紙に戻す手立てはなさそうだ。後はエリザベスの処遇だが、別の嫁ぎ先を探さなくては。いや、領地に数年籠らせて、適齢期を過ぎてから適当な相手を選ぶべきか。ラウルは頭の中で何が最善の策であるか検討した。
エリザベスはラウルの指示通り病気のフリを続けた。一月経ちエリザベスの体調についての噂が王都の貴族の間で十二分に広まった後、やっと両親が婚約を白紙に戻すことを渋々認めた。
「殿下が御納得されるとは思えないが、エリザベスが原因不明の病に侵された今、このままでは不実であろう」
ラウルは父のその言葉をエリザベスに伝えず、ただ婚約を白紙に戻す申し入れを行ったことのみ伝えた。ラウル自身もフレドリックが簡単に引き下がるとは思っていないが、まず一歩前進したことを喜ぶべきだろう。
大方の予想通り、翌日、フレドリック自身が花束を持ってエリザベスの見舞いにやってきた。
幸か不幸か公爵夫妻が不在であったため、ラウルが応対することとなった。
「やあ、フレディ。言い訳を聞こうか」
苦痛に満ちた憂いの表情のフレドリックに追い打ちをかけるように、ラウルは不機嫌を前面に表し、居丈高にそう言った。
臣下の態度ではないが、昔から公式の場以外でラウルがフレドリックに下手に出ることはなかった。ラウルにとってはフレドリックもリナルドやデイビッドと同じ、弟分に過ぎない。
「エリザベスは君の態度にほとほと嫌気をさして心を病みかけている」
ラウルは態と冷たくそう言った。フレドリックは萎縮したように息を呑んだ。
「リディアのことは違うんだ。ただの学友だ。それにもう二度と一緒に踊ることも話しかけることもない」
「それでもこれだけ噂になって、心を痛めないと思っているのか?君は自身の立場をもう少し自覚すべきだと思うよ。そして可愛いエリザベスをこれ以上苦しめないでくれたまえ」
元々は自分が仕組んだにも関わらず、さもフレドリックに非があるように責める。妹の願いを叶えるためにも、フレドリックに容赦する気はなかった。
フレドリックは懇願した。
「頼む。エリザベスを失えば、私は生きていけない。彼女が横にいてくれないなら、国王になんてとてもじゃないがなれないし、国を守ることもできない」
「それなら王太子の地位を王女に渡して、隠居すればいいじゃないか。王女とは僕が結婚してちゃんと支えてあげるよ」
フレドリックがエリザベスと結婚しないなら、ラウルはルクレツィア王女と結婚するしかない。それでも妹が救われるならラウルには本望だった。
「私からエリザベスを奪わないでくれ、初めて会ったあの時から私には彼女しかいないし、彼女以外に欲しいものは一つもないんだ。お願いだから……」
縋るようなフレドリックの態度にラウルも虐めすぎたかと少し思った。この弟分のエリザベスに対する執着を最も近くで見つめてきたラウルは、最初の頃は素直に二人の関係を応援していたのだ。
このままでは埒が明かない。ラウルはエリザベスからはっきりと拒絶することがフレドリックの思いを断ち切るためにも必要なのではないかと感じた。
「……まあ、その思いをエリザベスに伝えて、せいぜい言い訳することだね。でもきっとエリザベスは君に会いたくないと思うよ」
そう言って、ラウルはフレドリックをサンルームの前に案内した。
「ここで待っていてくれ、エリザベスにお伺いを立ててくるから」
ラウルは一人で部屋に入った。態とほんの少し扉を開けたままにしておいた。エリザベスの拒絶の言葉がフレドリックの耳に入るように。
サンルームで柔らかな日差しを浴びながら籐の椅子で微睡んでいたエリザベスは、ノックの音で目覚めたようで、少し眩しそうにラウルを見た。
「残念ながら王家は婚約を決して白紙に戻さないと言ってきたよ」
ラウルはフレドリックから渡された王家からの申し立て不受理の手紙を読み上げ、見舞いの花束を差し出した。
「花は見たくないわ。気分が優れないから一人にしていただけませんか」
エリザベスの声音には、はっきりと不機嫌な色が滲んでいた。
「王太子がお見舞いにいらっしゃるけど、どうする?」
「……会いたくないわ」
常にないエリザベスの強い口調に、ラウルはほくそ笑んだ。これでフレドリックもエリザベスの気持ちが分かるだろうと。
ラウルはもう一押しする事にした。
「リズ、今回の王太子の無神経さには僕も不満を感じるけど、いつまでも逃げていても何も変わらないよ。一度王太子にお前の気持ちをはっきり言ってやるべきだと思うね」
「……私を憎んでいるのに国のために結婚したいという人に何を言えというの?」
エリザベスからの思い掛けない言葉にラウルの思考は停止した。そしてすぐにその衝撃的な言葉がグルグルと頭を駆け回った。
――憎んでる?誰が?誰を?えっあれだけ贈り物やらドレスやらを大量にもらって、執着されてたのに憎まれてるとか、どこから出てきたんだ?
フレドリックがエリザベスを溺愛していることは周知の事実だった。まさか当の本人が理解していないとはラウルも予想だにしていなかった。
――いや、あの失語症は側から見たら、憎悪と取れそうなものだった。エリザベスが憎まれてると感じたのも仕方がなかったのかもしれない。
「……あー、リズ。彼はお前を憎んではいないよ。……わかりにくい男ではあるけど」
ラウルがバツの悪そうに言った。それに対してエリザベスは怒りの様相でまくしたてた。
「今まで一度だって、微笑まれたことがないし、いつも不機嫌な顔で睨まれるばっかりよ。こちらが話しかけてもそっけないし、笑いかけても目をそらす。そんな人が欠片だって私のことを思っているわけないじゃない。今まで贈り物はたくさんいただいたけど、カードだって名前が添えられてるだけよ。手紙だって一度だっていただいたことはないわ!」
――あのポンコツ、カードに言葉も添えないなんて、失語症にも程があるだろう!
ラウルは衝撃の事実に呆れて言葉を失いかけた。
これではエリザベスにフレドリックの思いが伝わっていなかったことも当然だ。
「……それは確かに酷い話だね」
「正直、あの顔を見るだけで胸がむかつくの。愛想笑いももうできないわ。彼に嫁ぐぐらいなら修道院に入った方がましよ」
ラウルがフレドリックの方に顔を向ける。
「……フレドリック殿下、聞こえましたか」
のっそりとフレドリックは部屋に入った。エリザベスは驚きと羞恥で声が出ないようだった。
「エリザベス……」
懇願するような眼をしたフレドリックはエリザベスの横にひざまずいた。
「すまない。君がそんな風に思っていたなんて……」
フレデリックは深く溜息を吐いた後、言葉を続けた。
「私が不甲斐ないばかりに君がそんな風に辛く思っていたなんてまったく気付きもしなかった。私は婚約者失格だ」
フレドリックの懺悔を、エリザベスはただ黙って聞いていた。ラウルは事実を知って以来、頭痛を感じて、座り込みたい気分だった。
「私が君を婚約者にと望んだから、君は私の気持ちを理解してくれていると勝手に思っていた。……思いを伝えようと何度もしたけど、君の顔を見るだけで緊張して言葉が出てこないし、微笑みを返す余裕もなかった。……ただ君を見つめることしかできなかった」
フレドリックはエリザベスから目をそらし、そう語った。
「エリザベス、私は君しか見ていないんだ。どうか婚約を白紙に戻すなんて言わないでくれ。私の前からいなくならないでくれ……」
縋るようなその声に、しばらくエリザベスは押し黙ったが、すぐに不満そうに口を開いた。
「あら、フレドリック様にはリディア様がいらっしゃるのでしょう?あんなに楽しそうにしていらしたじゃないですか」
「リディアは違う!……ただの学友だ」
痛む頭を押さえ、ラウルは妹に加勢する。
「でもねフレディ、リディア嬢とのことは僕もまだ怒っているし、彼女が君に懸想していたことは知っていたんだろ?」
ラウルが王太子殿下と臣下としてではなく、幼馴染であり婚約者の兄としての顔で言った。自身が噂になるように仕向けたことはおくびにも出さない。
「毎回彼女が私にダンスを申し込みに来るのは単に学友の気安さからだと思っていたんだ」
言い訳じみたその言葉ではエリザベスの心に響かないようで、彼女の顔色は全く変わらなかった。
「エリザベス、信じてくれ。私は彼女と二人きりになったことは一度もないし、意識したこともない!」
フレドリックはエリザベスの瞳を見つめた。その必死の表情を見て、ラウルは少し胸が痛んだ。
「どうかどうか私にもう一度チャンスをくれないか。私は君のことをあ、あ、あっ……」
――愛してるんだ。
ふり絞るようにそう言った後、フレドリックは耳まで真っ赤になって下を向いたままになってしまった。
「フレディ、聞こえないよ」
ラウルが意地悪く言う。肩を震わせるフレドリックを見て、エリザベスは苦笑した。
「……兄さま、もういいわ。私は聞こえましたから」
フレドリックはハッと顔を上げて、エリザベスを見た。さらに顔が赤くなった。
ラウルはエリザベスの言葉に耳を疑った。彼女の顔を見ると慈悲に満ち溢れた女神のような微笑みを浮かべている。
「殿下、ではこれが最後のチャンスです。どうぞこれから結婚まで、毎週恋文を送ってくださいませ」
「恋文⁉」
「はい。私、殿下から文をいただいた覚えがありませんから」
フレドリックは情けない顔をして脱力するのを見て、ラウルはモヤモヤとしたものを感じて思った。
――こんなポンコツに慈悲を与える必要なんてないじゃないか。
「……いつも書こうとしたんだ。でも君を思うとどんな言葉もこの気持ちを言い表せない気がして……」
「長くなくても結構ですので頑張ってくださいね」
エリザベスはにっこり容赦なく言い渡した。ラウルはその様子にエリザベスがまだ完全に許したわけではないということに気が付いた。その突き放したような物言いは、ほんの少し寒気を感じる声音だった。それでもフレドリックにとっては縋りつける唯一の運命の糸だろう。
「……わかった。……それよりも体調はどうなんだ。また少し痩せたようだが……」
「……少し、食欲がなかったものですから。殿下が慰めのお手紙をくださったらすぐによくなるかもしれません」
まさかダイエットだとは言えず、誤魔化すようなその様子にラウルは気付いたが、フレドリックが不自然に思った様子はなく頷いた。
「毎週必ず文を送る。君の体調が戻るよう薬も届けさせよう。だからどうか早く元気になってくれ」
「ありがとうございます。殿下からの文を支えにして、病に打ち勝ちますわ」
エリザベスはいつもの花が綻ぶような笑顔をフレドリックに向けた。フレドリックは真っ赤な顔のまま、その眼には涙が溜まっていた。その様子をみてラウルはこっそり溜息をついた。
――結局、許すのか。
またあの言葉を思い出す。
『ただ自分を愛してくれる人と結婚出来ればそれでいい』
――多少なりとも、フレドリックの愛が伝わったということか。
愛されていたらそれでいいのか。それは貴族の結婚では贅沢な望みなのかもしれない。しかし、至宝とも呼ばれるエリザベスならもっと贅沢な望みがあっても良いのではないか。
ラウルは可愛い妹の穏やかな顔と、泣き出しそうな弟分の顔を見て、何とも言えない気持ちになった。
秋が過ぎ、冬が近づく頃にはエリザベスの体調は元の通りに戻り、多少の外出はするようになった。
フレドリックとエリザベスとは文のやり取りしかしておらず、あれから直接会ってはいないが、手紙を受け取るたびに嬉しそうにしているエリザベスの顔を見て、ラウルは少しフレドリックを認めても良いような気がしてきた。
そして、年の最後の月になり再び王室主催の舞踏会が行われることになった。エリザベスはフレドリックと参加することになっている。
フレドリックが王宮で待っていると、公爵家の馬車が到着してラウルが降りてきた。
そして、ラウルの手を取り、エリザベスが姿を現す。
七色のドレスを纏い生花を髪に飾った春の女神のようなエリザベスはラウルから見ても眩しかった。
フレドリックは見惚れたのか中々言葉を発しなかった。
「えっ、あ、その……」
声の出ないフレドリックの様子にもエリザベスは根気よく待っていた。その顔は以前より柔らかい微笑を宿している。
フレドリックは深呼吸をすると、やっと言葉を口にした。
「……信じられないくらい綺麗だ。エリザベス」
眉根を寄せて苦しそうに呟いた。
「ありがとうございます。殿下」
エリザベスはまさに咲き誇る花のような華やかな笑みを浮かべ、フレドリックの手を取った。
それからフレドリックは何度かエリザベスと夜会に出て、さらに予定を空けてとエリザベスと過ごす時間を増やしていった。手紙のやり取りももちろん続けていた。
春が過ぎ、ついに二人の婚礼が行われた。フレドリックは緊張した面持ちながらも堂々と誓いの言葉を述べて、エリザベスの瞳を真っ直ぐ見つめていた。
――まあ、一年以内にどうにかなったな。
ラウルは、愛する妹のその幸せそうな様子を見て、苦笑いを浮かべた。
フレドリックとエリザベスの婚礼が終われば、ルクレツィア王女とデイビッドの婚約が発表されることも決まった。ラウルもいよいよ結婚相手探しを始めることになる。
――愛せる人と結婚出来れば良いがな。いや、愛してくれる人と、か……。
羨ましいような気持ちと、寂寞を感じながら、ラウルは花婿と花嫁を見守るのだった。
了
お読みくださりありがとうございました。
前2作が思いがけず多くの方から愛され、誠に光栄に思います。
ラウル視点は随分前から書き出したのですが思いの外、お届けに時間がかかりました。
最後にリディア視点で、シリーズ完結予定です。
リディア視点は2、3話の短期連載になる予定ですが、まだ1行も描き始めておらず、いつお届けできるかわかりませんが、年を越さないよう頑張りたいと思います。
その時はどうか又お読みいただけたら幸いです。