巫行099 血液
集落の祭事、政の衝に当たる館。ミクマリは小走りで近付いた。
この集落は、残虐なる習性と性癖を持つ者の集まりであるが、村民同士の信頼は篤い様だ。
館の中から光は漏れているが、囲う門の前には見張りが居ない。
柵越えに再び術を行使する腹も決め手はいたが、治療の痛みと辱めを繰り返さずに済むのは有難い。
ミクマリは堂々と正面から敷地へと入り込んだ。
踏み入った瞬間、強い結界の感覚が肌に触れるのが分かった。
あれだけ注意深く、一日掛けてまで旅人を騙す連中だ。結界に触れた新鮮な人間を見逃す筈は無いだろう。
溜め息一つ。
そして繰り返しの堂々。ミクマリはそのまま入り口から中へと入った。
「……いらっしゃい。矢張り抜け出して来たね」
いーっひっひっひ。態とらしく、耳障りな笑い声が響く。
この集落の老巫女。骨で飾るその姿、石に腰掛け、燃える薬草の煙を嗅いでいる。
「貴女達、正気じゃないわ。妹を返して。それと、捕まえた人を全員放しなさい」
睨む娘。
「厭じゃ。蛇が呑んだ卵を放す訳が無かろう。抜け出すだけの力はあった様じゃが、力付くで来ぬのを見ると、自信が無いのかえ?」
黄ばんだ歯を見せる老婆。
「さあ、どうかしら」
ミクマリは懐に手を入れた。指先に触れるのは自身の体温と同じになった黒鉄の刃。
単純な霊気比べ為らば負けるだろう。だが、相手は老婆。痛みの水術と、この刃を以てすれば、斃すは容易い。尤も、ミクマリにとっては、心身どちらも害する諸刃の手段ではあるが。
老婆は愉し気にミクマリを見上げると、薬草の火を手で揉み消し、繰り返し鼻を鳴らした。
「身体中から恐怖と焦りの匂いを感じる。若くて、少しばかり小便臭い良い香りじゃあ」
立ち上がる老婆。骨の飾りが音を立てる。身構えるミクマリ。だが、老いた身体はその様相に相応しく、緩慢な動作で背を向けた。それから館内を照らすには物足りない脂皿を手に取ると、隅に向かって歩き始めた。
「御主、水浴みがしたくは無いかえ?」
訊ねる老婆、ミクマリは返事をしない。
「今日は、御主が良い旅人を伴って来てくれたからのう。“新鮮”を浴びる事が出来るのじゃよ」
翳される炎。映し出すのは地面に掘られた穴。そこには紅く濁った液体が満たされており、その中に若い女が半身を浸していた。
女の肌は白く、眼は半分閉じて虚ろ。髪は解け、血面に黒き筋を無数に走らせ、項も紅を貯え、うら若き乳房の尖端も雫を零している。
「その子に何をしたの?」
問い掛け。自信は無いが、あれは昼間老婆の後について行っていた娘だ。
「なあんにも。汗を掻いて身を清めたいと言ったから、仕度させて貰ったのじゃ」
血は穢れだ。身体から血を抜けば清めとでも言うのか。
どろりと鈍い水音。少女がこちらを向いた。懐の刃を握る。生きているなら助けたいが……。
少女がおもむろに立ち上がった。紅き滝が肢体を流れ落ち、露わになる白い腿。
「助けて下さい!」
全力の悲鳴。彼女は血の池から抜け出すと、こちらへと慌てて駆けて来た。
老婆はそれを咎める事をせず、ミクマリが少女を背に隠し、腕を上げ大袖で庇う様を眺めている。
少女は啜り泣き、老婆は耳に手を当て、その音を吟味し微笑んだ。
「ここの人全員が貴女と同じなの? 共謀して旅人を捕らえて、あんな惨い事を……」
ミクマリは焦りを抑えて問う。
「そうじゃよ。皆そうじゃ。みぃいいいんな」
いーっひっひっひ。
「気狂いめ」
ミクマリは生まれて初めて口にした言葉に唇を噛み切る。口に広がる血液の味。
「狂っておらぬさ。生まれた時からずっとそうなのに、狂うも何も無かろう。それに、旅人は余す事無く大切に“使って”おる。感謝もしておるんじゃ。兎や鹿と変わらぬ」
老婆は歩き、皿の炎を松明へと移した。その松明の柄の湾曲には見覚えがある。
「気付いたかえ? 大腿骨じゃよ」
続いて灯りが映し出すのは食べ掛けの食事。器には“肉”が乗っている。
「頭蓋は良い皿じゃ。御主、肋骨を集めて揺り籠を作った事は無いか?」
「……揺り籠?」
「そうじゃ。母の手の代わりに赤ん坊をあやしてくれる便利な道具じゃよ」
ミクマリは腸が熱くなるのを感じた。この老婆の口から赤ん坊という言葉を聞きたくは無い。
奴は巫女だ。これだけの人も無げな惨忍事をしておきながら、それと同じ掌が住民の赤子を真面目な顔をして取り上げている等、赦しておけぬ。
「肉というものは断末の間に苦痛や哀しみが少ない方が、味が良くなるからのう。赤子も喜ばせてやってからの方が……」
「こいつ!」
赤子を抱き揺さぶる仕草をする鬼畜へ紅白の衣が飛び掛かった。黒き刃がその首目掛けて踊る。
鋭き音が響いた。
「鉄か。恐い女じゃのう」
いーっひっひっひ。ミクマリの斬撃は受け止められていた。
老婆の背より伸びる黒き気。刃を止める程の夜黒ノ気か。
出鱈目に祓の気を高め、手刀で黒塊を打つ。手応えは無し。霧散も無し。漆黒は意志を持った様に退き、身を躱した。
続いて黒が伸び、ミクマリの腹を打った。娘は殴られた痛みに後退る。
「驚いたかの? それは気のみで為す術ではない。儂等の操るのは影術。“夜増ス影”じゃ」
影の殴打が迫る。袖を使い身を護る。衣の護りを以ても打撃は多少は通ったが、打った瞬間に老婆が苦悶の声を上げたのを聞き逃さない。
影に夜黒を通している様だ。為らば祓の気や衣の守りも一つの攻撃となりうるか。
「矢張り、その衣が良くない。恐ろしい衣じゃ。霧の様に軽く、清水の様に清く。処女の体液の様に気に満ち満ちておる」
苦々しく言う老婆。
「その衣の所為で、御主には碌に手出しが出来なんだ。本当は御主を餌に、逃げた小娘を捕らえる心算だったのじゃが」
――逃げた小娘!!
光明。アズサは生きている。為らばこんな処に用はない。
飛び退くミクマリ。背に啜り泣く人の気配。
――良し、彼女だけは連れて行ってあげよう。他の人には悪いけれど……。
そう考えながらも相好を崩すミクマリ。アズサが無事ならば、それで良い。
「あははははははははは!!」
けたたましい嬌声。少女のものだ。憐れ、気が触れてしまったか。
「厭だわ、“悔”ったら!! その子なら皆で食べちゃったじゃないの!!」
振り返れば全裸の娘の瞳には灯が燈り、歪んだ口元の張りは揶揄う様な新鮮さ。
「クヤミは惚けしまったの?」
少女は少女に相応しく首を傾げる。だが、その舌は髪から垂れる紅い雫を舐め取った。
続いて老婆の笑い。
「ひひ。そうじゃった、そうじゃった。済まんのう“晦”。歳を取ると物忘れが激しくなってのう」
照れ臭そうに頭を掻くクヤミ。
「ね、あの子はね。最期は凄く好い“声”で啼いたのよ」
冷たいものがミクマリの首筋を掴んだ。
肉爆ぜさせる霊性。反射の退避、痛みに悲鳴を上げる。
「そんなに驚かなくても。何処か悪いの?」
首を絞めんとする姿勢のまま訊ねるツゴモリ。
ミクマリの全身から力が抜け、袴が広がり地に茜の花が咲いた。
「まだ残ってるけど、貴女も食べる? 新鮮なのは貴重だから」
ツゴモリは暗がりへ行くと、何かを拾おうと身を屈めた。松明の灯りが白き臀部の陰影を映すが、ミクマリは唯、宙を見ている。
裸の娘が何かを放り投げ、“それ”が湿った音と共に視界の隅に転がり込んだ。
ミクマリの脳は認知を拒否する。
「あらあら。壊れちゃったかしら? 元々、壊して“畠”になって貰う心算だったのよね」
「それがのう、ツゴモリよ。多分じゃが、この娘は石女じゃ。何度も子を取り上げた儂には何となく分かる」
残念そうに言う老婆。
「そうなの? 今までで一番良い畠になりそうな子だったのに。最低ね」
侮蔑の言葉と共にしゃがむ娘。転がる物体を拾い、ミクマリの虚ろな瞳の前へと突き出す。
碌に肉の残らぬ人の頭部。辛うじて分かる邪気なさ。
――これは一体、だあれ?
「反応無しね。……大丈夫よ! まだ貴女の妹の頭だと決まった訳じゃないわ!」
励ましの言葉と共に左右に振られる“それ”。老婆が苦しげに笑った。
「ね、確かめてみましょう?」
ミクマリはそう言うツゴモリの顔を見た。返される微笑み。
「私は良く知ってるわ。姉妹の味って何となく似るものなのよ。お肉も、血もね」
果実を齧る様に、残る肉に歯を立てて見せるツゴモリ。
「……出来ない、そんな事」
やっと絞り出した声。ミクマリは叱られた子供の様に下を向く。
そもそも、アズサと血の繋がりは無いのだ。口の中に残る自身の血液の味が虚しい。
「うちじゃやってないけど、流派によっては死者を弔った後に、その灰や骨を口にする処もあるそうよ。死してもずっと一緒とでも言いたいのかもしれないけど……。まっとうな巫女なら、そんなマヌケな儀式はしやしないわよね!」
ツゴモリは自分で挙げた後押しの解説を貶して笑う。
ミクマリは意味が良く分かっていないのか、御追従の笑いを浮かべた。
「そんなに大事な妹だったのね」
手にした果実に舌を這わせるツゴモリ。
「いやあん。姉様! 舐めたらいけませぬ! 舐めたらいけませぬ!」
老婆の戯れ。万死に値する醜き仕打ちであるが、それはもうミクマリの耳には届いていなかった。
「何それ! 気持ち悪いわ!」
ツゴモリが爆笑する。つと、手にした果実を見詰めると、幼き唇の残骸へ激しい接吻を披露した。
「い、いやあん姉さ……ひひっ! 悪かった、儂の負けじゃ」
クヤミは腹を押さえ、苦悶の表情で蹲った。
それでもツゴモリは熱い求めを止めず、切なそうに身を捩らせて、笑う老婆に畳み掛けた。
「きしょ。さぶいぼが出るわ」
声真似か。訛りのあるアズサの声。
影の巫女達は笑いを止めた。
「姉様は荒くたい事、出来ひん人なんやにー」
――やにー?
顔を上げ振り返るミクマリ。
その視線が愛しき人影を捉えれば、止め処なく涙の雫が零れ落ちる。
「あんま、けった糞悪い事しとったら、いてこますぞ」
鬼の形相で憤怒を発するは幼き唇。揺れる鬢の三つ編み揺らし、丸き瞳は黒く燃えている。彼女の構える長弓が冠する名は、梓。
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荒くたい……荒っぽい。
けった糞悪い……忌々しい。
いてこます……ぶっ飛ばす。