巫行098 新鮮
「全く、損な役回りやのう」
男が何かを振り下ろす。叩きつける音と共に水っぽい音が響いた。
「幾ら宴が近いからって、晦様達も寝ずに“しんせん”の仕度をさせんでもええのになあ」
何かが振り上げられる。小屋の明かりを反射する黒鉄の刃。
ミクマリの所有する小刀と同じ異国の品だ。男は、神饌の下拵えをしているのだろう。
神に関わる儀式となれば、ツゴモリは巫女の名だろうか。生憎、あの老婆の真名や巫女名は耳にしていない。
どん! 刃はまた何かに叩きつけられた。
「ちょっとくれえ、摘まんでもばれんよな?」
彼は赤く滑った肉を摘み上げて、まじまじと眺めている。
男の口が開いた。糸を引く唾液。血抜きの不十分な肉の切れ端が、黄色い歯に挟まれる。
咀嚼する度に小屋の外まで響く濡れた音。
「やっぱ、“しんせん”が一番やな」
血濡れの頬が歪む。
――火を通さないとお腹を壊すわ。
こんな時だというのに、仕様も無い事が気になってしまう。
「流石に、一本丸ごと偸んだらばれるやろかなあ?」
男が肉塊を持ち上げた。見た処、毛皮を剥いだ猪の仔の脚だろうか。
――え? 今、指が見えた様な。
猪に指は無い。為らば猿か。ミクマリには猿を口にする習慣は無かったが、これまでに訪れた村では食用に猿を捕らえている処もあった。
「最近は硬くて臭い肉ばかりやったからなあ。若過ぎると食う処が少なくていかんな。子が作れない年頃の肉が一番旨い」
そう言いながら、卑しく切れ端を口に放り込む男。
「俺は特に耳が好きだ。こりこりしているし、耳朶は何とも言えない弾力でさあ……。“あれ”は耳朶がでかかった。食うのが楽しみだ」
そう言って男は“次の肉”を持ち上げた。
「ねみいと独り言が増えてあかんな。さっさと済ませて寝るかあ」
――。
男は肉の首周りに切り込みを入れ、首から脚の間に向けて刃を通した。
ミクマリは口に手を当て、腿をきつく閉じ合わせて、膝を笑わせながらその場を立ち去った。
弾む胃の腑。溢れる涙。慄く股も僅かに水分を偸む。
小屋から離れ、静かな木立へ逃げ込み、茂みに向かって胃液を打ち撒ける。
口を覆っていた掌が、先程小さな頭蓋骨を確かめたのと同じものであると気付くと、もう一度胃が弾んだ。
首から脚の間に向けて刃を通した。
首から脚の間に向けて刃を通した。
首から脚の間に向けて刃を通した。
――皮を剥ぐ時は、お尻から頭に向けて通すものなのにな。
混乱と共にもう一度嘔吐。
まだ吐かねば為らぬ気がして、指を喉の奥へと挿入する。
顔を涙と鼻汁で濡らし、両手を生暖かく滑った体液塗れにし、男に聞こえぬ様にと抑える嗚咽。
全て出し切った後、もう一度喉から小さく声を出し、それから苦し気な呼吸音で耳を埋める。
――この集落では、とても恐ろしい事が行われている。
関わるな。逃げねば。是正や改心は求めるな。逃げて噂を撒け。
娘の慈愛や正義を上回る本能。
疲労や痛みも振り払って、転げ落ちる様に山を下る。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
本能の中へ割り込んで来る一つの名前。
――アズサは何処?
アズサ。その名を思い浮かべると胸が詰まる。
再び胃を跳ねさせてまで先程の光景を反芻する。あれは大きさが違う。男の独り言からして、死は確定していない。
痛みが引いていく様な気がした、熱が下がっていく様な気がした。
足を引き摺り山を下りる。暗闇の中、月明かりのみが頼り。無論、集落の位置は分かりはしない。
それでも彼女は、真っ直ぐ迷わず狂気の集落へと辿り着いた。
彼女を導いたのは五感でもなく、未だ乱れたままの霊感でもなく、唯の勘だ。
集落は静かで暗い。宵っ張りな者の姿は見当たらない。時が惜しい、あの子を取り戻せ。小走りに駆け、小屋の一つ一つの音を偸め。
一つ目、男の鼾。無視。
二つ目、夜更かしの子供同士が囁き笑い合う声。無視。
三つ目、これは少し小屋の密集地から離れていた。女の苦悶の声。無視を悩むが、それが色事か苦痛か判断が付かぬ。
中を覗き見るが闇。だが、気配は女一人か。
ミクマリは忍び込んだ。
「貴女、大丈夫?」
「誰? 私の心配をするなんて……外の人? 私は放って、逃げて」
彼女も捕まっているのだ。助けねば。ミクマリは横たわる女を起こそうとした。
すると、張りのある大きな塊に気付いた。それは女の胎だった。
ミクマリは時間が惜しかったが、救助の意思をより強くした。水術があれば担いで遠地に運び、直ぐに捜索に戻れるのだが。
霊気の操作。返すのは肉の痛みのみ。
「放って置いて、逃げて」
息も絶え絶えに繰り返される警告。
「いけないわ。貴女も逃げて生き延びましょう。そのお腹の子の為にも」
「子供……?」
疑問を孕んだ声。直後、女の大絶叫が響いた。
「あああああああああああああ!!! もう産みたくないいいいいいいいいいい!!!」
身をくねらせ暴れ始める女。遠くで男が警戒の声を発した。
ミクマリは急いで小屋を脱し、木立へと身を隠した。
松明を持った男達が女の居た小屋へと駆け付ける。
「どうした?」
「また気が触れたらしい」
「悔様の薬でも飲ませとくか」
暫くすると小屋は静かになり、男達は談笑をしながら去って行った。
ミクマリは樹皮に爪を立てた。力不足が憎い。もう余計なものは見るな。唯、アズサだけを探せ。
小屋小屋を虱潰しに当たり、愛しい妹を探して彷徨う。幸い、先程の様な小屋には三つしか当たらなかった。
一つは静かだが血の臭いがした為に忍び込んだ小屋。腹の皮の酷く余った女。身体こそ暖かかったが、全身に無数の歯形と肉の欠損。目と喉は最早機能していない様だった。
一つは豚の様な男達が静寂と共に吊るされている小屋。この村の火は豊かである。小屋を探る為にくすねた小皿に溜まる脂の燃える香りは、既に乙女の鼻腔に何度も出入りをしていた。
そしてもう一つは薬師の小屋。材料に紛れるは胎児と後産の塊。
狂っている。何もかも。自身も彼等の仲間入りを果たす処だったのか。
――アズサは? アズサは何処?
差し掛かる集落の広場。明るい時に見た記憶が確かなら、これは村の中心。
則ち、まだ小屋群は半分程度しか検めていない。
残りの何処かで、きっと引き当てるだろう。望む者の姿を望まぬ形で表した小屋に。
捜索を続ける事に強い抵抗を覚える。アズサは集落の外に逃げたのではないか? 小屋を覗くのを止めよう。
足がふらふらとあらぬ方へ誘われ始める。
どこかの小屋で、悲鳴が上がった。驚き肩を跳ねさせる。
――なあんだ、男の人の悲鳴だわ。
空笑いをするミクマリ。
次に聞こえたのは、外れの山林で獣が争う声。蟲や鳥獣の習わしでは同族喰らいも珍しくはない。
獣であれど肉。人であれど肉。肉は糧となり捕食者を育てる。誰が何を喰らおうとも自然の循環、自然の摂理……か?
足は当てもなく身体を運ぶ。ふらりふらりと森の中。
山肌に並ぶ穴々が月明かりにより浮き上がった。
今更になって気が付いた。拘束された時に入れられた洞穴を、もっと良く検めるべきだったのではないのか?
アズサも、あの分かれ道のどれかの先に無傷のままで放り込まれていた可能性がある。
「しまったあ……」
後悔先に立たず。
健康であれば一駆け、水術有りならば一瞬きの距離であろうが、今の身体には山越えに匹敵する過酷さ。
加えて肉処理の小屋からの逃走時に出鱈目に走ったせいで、あの洞穴をこの月夜に見つけ出すのは最早、至難の業と為ってしまっている。
流石にそこまでの体力は残されていない。時間を掛ければより危険になる。
ミクマリが逃げた事は、まだ気付かれていないのだ。気付かれているならば、村人は総出で探し始めるだろう。アズサが生きていたとしても、それを切っ掛けに処分されてしまう可能性もある。
――だったら……次に探すのは、あそこしかない。
巫女か村長か、権力者が居るであろう館。或いは恐るべき邪神を祀る場やもしれぬ。狂気の主導者を押さえれば道は開ける。
村の中心から逸れた道の先に、館はあった筈だ。あの奇妙な老巫女が少女を伴って消えた先も、それへと続く道だ。
「逃げないで私の身体。……あの子を……まだ、見つけていないのよ!」
未だ勝手に動く脚に態と霊気を通し、痛み止めを遥かに越える感覚を与えて停止、崩れ落ちる。
妹の名を呼び激励とし、出会った惨状に彼女を重ねて叱咤とし、姉は立ち上がった。
「……あっ」
目を見開く。
この土壇場で一つ、有益な情報を手に入れた。
右脚を引き摺らなくなっている。機能が回復しているという事だ。詰まり、この痛みは自身の霊気が自身の治療に逆らう為に生じるものだ。痛みの分だけ傷は癒えている。
「アズサ、今行くからね」
ミクマリは痛みの絶叫の代わりに妹の名を繰り返し呼び、傷だらけの身体を癒した。
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