巫行097 灯影
ミクマリは目覚めた。
ここは何処かの穴倉。剥き出しの土壁や天井。石の台座らしきものの上に置かれた皿には小さく揺らぐ灯影。
毒気に依る痺れは抜け切っていなかったが、身体には目立った異常はない。
四肢は健在。衣も変わらず神威の温かさを湛えており、足の間が汚された気配も無い様だ。
唯、手足が縛られており、口にも同じく縄が噛まされている。縄には呪力も籠っていた。
何故、殺されなかったのか、何が目的なのか。アズサは何処か。
耳で分かる分には動くものの気配は無し。
霊気の探知も験すが無回答。結界の所為か、それとも誰も居らぬのか。閉所であれば、探知が出鱈目でも何らかの返答はありそうだが。
兎も角、人を縛って何処かへ隠すは、著しく穏当を欠く行為だ。大人しく従う筋は無い。
先ずは祓の気を全身から発する。縄へ掛けられた呪いが霧散する。こうなれば後は力付くで切るのみであるが、問題は水術に依る筋力の増強が出来るかどうか。
集中し、調和ノ霊性を以て気を高める。自身の血肉の水気に力を与え、縄を引き千切るのを試みた。
「んっ! いやああっ!!」
薄暗い洞穴に響く、くぐもった娘の悲鳴。
結果、拘束は何とか切る事が出来たが、無関係の筋のあちこちに激痛が走り、縄の当たった部分の骨が軋んだ。
術は一瞬であったが、心の臓も瀑布の絶え間ない音の如く乱れ打ったままだ。
本来ならば、水術の身体強化は自身への治療術を併用して行う荒業なのだ。単純に力を増すだけでは肉が爆ぜ骨が折れるし、心臓も持たない。
だが、同じ霊性を以て行う治療までも狂えば、行き先には死あるのみ。
ミクマリは口に噛まされた縄を外すと片腕垂らし、脚を引き摺る有り様で立ち上がった。
大人しく誰かの助けは待っていられない。痛みで意識を失い掛けながらも、懐に忍ばせて置いた強力な痛み止めの薬を口に含んだ。
万が一を考えて、道中でアズサに支度をして貰ったものであるが、本当に使う時が来るとは思いもしなかった。
痛みは和らいだが、同時に肉の感覚も淡くなる。元より痺れが残っていたので同じ事だ。
持ち上がらぬ右足を引き摺り、洞穴を進み始める。
力失った娘をここまで駆り立てるのは唯一つ、妹の安否。
抜け切らぬ痛みと不安を紛らわす為、じわりじわりと暗闇を進みながら状況の整理を行う。
あの食べ物を持って来た男も共謀の可能性があるが、湯気の毒気で麻痺を狙う技は薬師や呪術師の得手だ。縄に掛かった邪気に依る強化の呪術も加味すれば、矢張りあの胡散臭い巫女の企てと見て間違いないだろう。
村の様子も、細かく見れば不審だったかもしれない。
村人そのものは他の村と変わらぬ振る舞いか、それよりも親切で好印象であった。だが、何処かに違和感を感じていた。
この集落は、霧の里へ向かう為の道の一つを阻む様に設けられている。旅人を迎え、労う為に食品の生産を行い、温かな穴倉の住居も支度されている。
交易に於いても、飲料水や保存食の他、沓や衣等も支度するという徹底ぶりだった。本来、革製品や布製品は一つ拵えようと思えば、季節を幾つも跨ぐ程の手間が掛かる。対価を求めるとしても、一期一会の旅人へ捧げるには慈善も良い処だ。
ミクマリも沓を誂えたり布を織る技を身に付けてはいるが、水術に依る乾燥や加水で製作時間の大幅な短縮が出来る為に、この点を見落としていた。
村の奉仕に回った際に、特別に紡績業が盛んという印象は受けていない。布は大概は陽が沈んだり、雨天で外に出られない合間の時間に織るものだ。
――若しかして、その沓や衣の出処は“旅人”かしら?
アズサが言っていた。里で見かける旅人に対して、この村に立ち寄る人間が多いと。その衣類は彼らの持ち主ではないか? どうせ奪い返し、増やせるのだから、容易くくれてやれるのだ。
では、追い剥がれた中身は何処へ行ったか? 黄泉國であろう。
ゲキが言っていた。この谷間は霊場になっていると。人の死や誕生が異常に多かったり、悪霊や迷霊が放置され続けると、その場所自体が他の霊魂や穢れを惹きつけ易くなる霊場へと変化する事がある。
普通ならば、人が消えれば噂が立つものだ。だが、流浪の徒となれば話は別。
ここへ来るまでに、この集落の噂や不審な行方不明事件処か、優良な評判さえも聞かなかった。詰まり、この地を踏んだものは肉にしろ魂にしろ、ここを終着点としており、一切外へ何も漏らしていないという事だ。
結界は悪霊を避ける為ではなく、この悪事を覆い隠す為に使われているのではないか。
真っ当な巫女が得手とするのが邪気や夜黒を祓う事ならば、異端の呪術師が得手なのは、負の気を使い、増やし、覆い隠す事だ。
夜黒を極めた存在である鬼も、その存在を隠す術に長けている。
そして、多少の実力があれば、自分やアズサの霊気を見抜けぬ筈がない。それでも自分達をどうこうする自信があるという事か。
それだけの事をやってのける自信があるのには、他にも理由がある筈だ。
――矢張り、村全体が共謀しているんだわ。
そう考えれば、思い当たる事が幾つかある。蟷螂の里の例もある。
「油断し、ちゃっ、たな……」
苦悶と共に吐き出される後悔。舌の根に残る痺れ。
考え過ぎかも知れなかったが、どう結論付けようとも、アズサを見つけ出し、さっさとここを去るのが最適解だろう。
考えている内に、分かれ道へと出た。そこではまたも皿が置かれており、灯影を揺らめかせている。
分かれ道は複数。どれが外へと続く道か。息が詰まらない辺り、どれかが外へ通じているのだろうが、生憎ミクマリは風が読めない。
兎も角、進む他に無いだろう。
ミクマリは適当に道を選び、また歩き始めた。沓が地面に摺れる音が響かぬ様に鈍行。
今度は暗い道ではなく、行き先に揺らぐ灯りが見えた。
この先が見知った覡國である事を祈り、また、敵に遭遇する事のない様に願い、光へと進む。
……そこに在ったのは、行き止まり。
三度の灯影は横たわる人影を映し出していた。
人の死体。
大人の男一人、大人の女一人……。
そして、童女が一人。
どれも見知らぬ顔。彼等は一様に衣をはぎ取られ、肉の一部が蕩いて、本来とは違う色に変じている。
裸ではあったが、首には何か、小さな人間の頭蓋の様なものが紐を通して飾られており、手首には蛇の皮の様なものが巻きつけてあった。
この部屋には、腐臭に混じって薄っすらと何かの薬草が燃やされた匂いの残滓が漂っている。
「殯葬、かしら……?」
殯葬は、死者の肉が正しく黄泉へ行けるように、鳥獣に荒らされるのを防いだり、魂が混乱して寿ぎを受けない場合に落ち着かせる為に設ける儀式だ。普通は小屋を設けて行うものだが、洞穴でやるのも合理的か。
不気味な飾りも、この集落でのやり方の一つなのだろう。
「あ、若しかして、私も死んだと思われて、ここに連れて来られたのかしら?」
舌は回ったが、どうやら頭はまだ痺れているらしい。ミクマリは頭を振り、マヌケな考えを落とした。
「うう……」
声がした。
慌てて遺体を見ると、童女が起き上がろうとしていた。
「どっ、どうして!? 貴女、生きてるの!?」
今のミクマリは霊気が碌に読めない。死体だと判断したのは見掛けからだ、身体に霊魂が入っているかどうかは視ていない。
「いー、あー」
苦し気に声を上げる童女。
若しや、何かの奇病が流行っていて隔離されているのだろうか? どう見ても肉は腐り、開かれた瞳も白く濁っている。
――可哀想に。
若しも自身の水術が無事ならば、アズサの薬の業と併せて彼女を救う事が出来たかも知れない。
鼻を衝く腐臭にも関わらず、ミクマリは童女を肉が傷まぬ様、優しく抱き締めた。
「ぎょえええええええ!!!」
凡そ童女らしくない絶叫。そして目鼻耳口、穴という穴から赤黒い気が吹き上がる。
今のミクマリでも分かる、これは夜黒ノ気だ。
童女は倒れ伏すとそのまま溶けて、骨と黒い液体へと変じた。
身を引き、恐れ戦くミクマリ。
「ううぅー」
唸り声。大人の男女が起き上がる。口からは涎、女の眼玉は片方が溶けており、蛇の卵を潰した様に垂れている。
男が四つん這いになり吠えた。それは明らかに犬の声。
女が青鷺の声で耳を劈き、両手を翼の様に広げた。
「きゃああああ!!」
ミクマリは悲鳴を上げて逃げ出した。
そういえば、いつだったかアズサに聞かされた怪談話。死んだ筈の者が動き出す。いや、あれの話の落ちは大きな虫だったか。
そうでなくて、その際に師が話した「死体に別の霊魂を放り込んで動かす邪法」だ。
ミクマリは不気味なそれから逃げんと、痛む身体を必死に引き摺り、闇の中を走った。
「きゃあ!」
直ぐに転倒。後方で気配。犬と鳥の魂を持った肉人形が襲い掛かる。
しかし、肉に入って居た悪霊は大したものではなかった。
巫女へ飛び掛かり身体に触れた瞬間、それは先程の童女と同じく勝手に滅された。
ミクマリは自身の慌てに依る転倒の打撃と、首筋に冷たい人の溶けた液体を被るだけで事なきを得たのだった。
「うう……アズサぁ……ゲキ様ぁ」
半泣きで這いずるミクマリ。何とか外に出る為の道を引き当てなければ。
だが残念な事に、彼女はまたも外れを引いた。
今度は道の先は穴であった。
大した高さでは無かったが、ミクマリは何かが堆積した山の上に落ちた。尖ったものが肉を突き、崩れたそれらが、からからと乾いた音を立てた。
暗闇の中ではあるが、触れれば正体が分かった。
――骨だ。それも人の。
彼女の片手に納まる程度の丸っこい骨。
感触こそは違うが、この大きさには覚えがある。
――取り上げたばかりの赤ちゃん……。
骨は清められている。触れると、どの骨も同じ年頃のものだと分かった。一人や二人分ではない。水子や幼くして亡くなった子供をここに放ってあるのだろうか。
「もうやだ……」
穴から必死に這い上がり、また足を引き摺り、分かれ道へ戻る。傷から毒が入ったか、それともどこか骨が折れているのか、頭が熱っぽくなってきた気がした。
息も絶え絶えに、更に別の道を進む。
――御願い。どうか、今度こそ外へ。アズサ、どうか無事で居て。
知らぬ間に頬や鼻の下を汚していたらしく、濡れたそれが空気の揺らぎを感じた。
風だ。
娘は痛みも忘れて外へと急いだ。触れる土壁の温度がやや下がり、灯影ではない青白き灯りがそれを映し出す。
月明かり照らす山中。乾いた冬の空気、常緑の葉の青臭さ。
「やった! 外だわ!」
ミクマリは大地に感謝をし、思わず地面へ頬摺りをした。
だが、小さな足の多い生き物が慌てて逃げるのを唇に感じて、またも悲鳴を上げた。
袖で必死に口を拭い、出るだけの唾を使って清める。
空気が変わった所為か、自身の身体に死臭が纏わり付いているのが分かった。
川か、あの集落と関わり合いのない人里を見つけたい。
早い内にアズサを見付けてやりたかったが、如何せん手掛かりがない。ここが何処かすらも分からない。斜面の急さと茂る森からして、集落よりは高い位置であろうが。
ミクマリは地に根を張る木の幹達に縋りながら、山を下り始めた。
程無くして、火の香り。
臭気の強く成る方へ引き寄せられて行くと、一件の小屋があった。
小屋の前には作業用の台と思われる岩や切り株がある。
山に暮らす杣人の小屋だろうか。近付くと期待を肯定するかのように、石斧や薪が視界に入った。
小屋の中からは何か物音もする。
――どうしよう。
些か先程の穴と近過ぎる気もしたが、彼女は身体の熱や緊張の渇き、それと穢れの所為で激しく水を欲していた。
先ずは中をこっそり覗いてみる事にする。不審な様子が無ければ、助けを求めよう。
ミクマリは細心の注意を払い、小屋の入り口に背を着けた。それから、首を伸ばして恐る恐る中を覗き込むと……。
******