巫行096 谷間
「おぇーっ! げろげろげろぉ!」
浜辺へ出迎えに行くと、船酔いしたアズサが男達に背中を摩られていた。
潮の風に混じって、酸っぱい香りが漂って来る。
男達が苦笑交じりに言うには、航海は順調も順調であったそうだ。だが、海に慣れぬ童女には凪の波すら厳しかった様だ。
そんなアズサもまた、師と同じく姉の無謀を叱る事は無く、新たな英雄譚を褒め称え、霊性の不調には「うちが頑張るさー」と息巻いた。
その張り切りのままに村の跡地へ赴き、不幸事から生じた穢れや、ちょっとした悪霊に苦戦する巫女の親子に自身の力を見せびらかした。
ゲキは故昆布巫女の孫ナギの霊視を行い、他の若い巫覡や見習いに験した様に術の適性を見てやった。
幸い、祖母と同じく水術に通じている様で、ミクマリが口頭で修行の骨を伝えた。
英雄とその師のお墨付き。若き巫女見習いは海神に向かって喜びの報告をした。
しかし、神は声を返さなかった。
師が言うには気配はある。ミクマリが声を掛けてみると、幼声の平謝りが響き渡った。
どうやら、ミクマリの不調の原因を作った事を気に病み、守護霊の怒りを買って村を滅ぼされるかと本気で心配をしていたらしい。
ゲキは意地の悪い冗談を言う素振りを見せていたが、幼女の声が余りにも必死だった為に、苦笑交じりに「気にするな」の一言で済ませた。
それで漸く海神は元の調子を取り戻し、「これで本当に村の危機は去った」と声を弾ませた。
一日だけ浜の村の世話に与り、一行は再び旅へ戻る事と為った。
見送りの際、アカシリは片腕でも立派な海の男になると誓い、ナギも村の復興よりも早く母を、何ならば祖母も超えると宣言した。
一方、母を失ったアカシリの友である少年は気が抜けたのか、巫女の出立を情けなく見送った。
海神もまた浜辺の復興を恩人に約束し、「復興に関する経験を分けるから、仇討ちが済んだら必ず寄るのじゃぞ」と言った。
再出発では進路の変更を余儀なくされた。
難所に囲まれた霧の里へ向かうには幾つかの道がある。元より予定していたのはミクマリがアズサを連れて登れる程度で、かつ距離も程々の山道だ。
だが、当のミクマリが水術の身体強化を失った今、全くの凡人の足でも踏破出来る道を選ぶ外にない。
更に、流血事は避けるべしと“王の御使い”の噂に耳を傾け、他の旅人の姿が多く、足跡の絶えない道を進んだ。
旅は長引き、多くを迂回する事と為ったが、特にこれと言った事件は起こらなかった。
しかしそれでも、村や集落に行き当たる度に巫行に就かねば為らない。
水術を省いても一人前以上、妹や師も込みで言えば名前が風に乗る程の活躍ではあったが、当のミクマリは溜め息が止まらなかった。
これまでの活動が思いの外に覡國へ影響していたらしく、自身の噂を耳に入れたのが効いた。
本来為らば、試練と苦労の旅を肯定する喜ぶべき事であったが、噂の水分の巫女と現在の凡骨との落差は著しく、彼女の心中は語るまでもない。
月の満ち欠けが一巡し、漸く霧の里を前にした峻山へと辿り着いた。そこは広い谷間であり、旅人の要所である為か、集落まで構えられている。家々は斜面に苦しそうに建ち並び、畠や植林も覚束無い。
この様な有様だが、旅の拠点としては豊かな方であろう。道を同じくした旅人もまた、霧の里へ行くと言っており、この集落を見て大いに喜んでいた。
……故に、遠方で自身の出身を話す度に「あの秘境の霧の里か」と言われ続けていたアズサが首を傾げた。
「あんなー、姉様。霧の里には外からのお客さん、あんま来ーへんのさー」
「それがどうかしたの?」
「数が合わへん気がするんやにー」
近づく村。先客だろうか、他にも旅人が数人居る。立地的に、この村に用があるか、霧の里を目指すかのどちらかだ。
『ふむ、確かに妙だな? 山越えの途中で落命する者が多いという事だろうか?』
そう言うとゲキは空へと上がった。
「姉様、あれ!」
アズサの指さす先、上空に守護霊ではない霊魂。赤黒いものが集落へと近付いている。
たまたま上昇していたゲキが察知し、それを男覡の祓の気で取り除いた。
「あっ、あっこもや!」
アズサがミクマリの背後を指差す。振り返れば悪霊。探知も勘も一向に治らない。強い巫女なら触れるだけで滅せる相手だが、一般人には毒だ。
妹の祓の技を眺めながら溜め息を吐く。
『どうやら、この谷間は霊場らしいな。或いは霊道と呼ぶべきか。悪霊が多く付近を通過する様だ』
ゲキが降りて来た。
「それは、あかんなー」
腕を組むアズサ。
ミクマリは探知を試すが、出鱈目な結果が返される。村の方に至っては、目に見えて人がいる筈なのに、何の霊気も邪気も返って来ない。
『どうせここで一晩明かすのだ。俺は退屈だから、山道の調査と共に、付近の悪霊を祓っていよう。アズサ、ミクマリを頼んだぞ』
そう言ってゲキはまた浮上して行った。
「ほやでー、うちがさいこ焼いたるから、姉様はまったりすればええさー」
冬の空気で霜焼けた頬が笑った。娘の玉肌だ、本来ならミクマリはアズサのこういう些細な怪我に類するものは見逃さない。
治療は出来ないが、黙って掌で優しく暖めてやる。
「姉様、だんないよ。ほら、早よ行こなー」
アズサは擽ったがって逃げ、手を掴み返すと集落へと引っ張った。
何の変哲もない集落。
ミクマリはその敷地へ一歩踏み込むと、気配が変わったのを感じた……気がした。
人々は何処の村とも変わらず仕事をしている。ここでは骨の加工や肉干しの仕事が目立つ。狩猟が中心なのだろう。
干し肉は旅人の力の源でもある為、理に適っている。
だが、どうも何かが妙だ。
「ねえ、アズサ。この村、何か変じゃない?」
ミクマリが訊ねると、アズサは立ち止まり、辺りを見回した。
それから耳の穴に指を入れ穿って、首を傾げた。
「ほんまやなー。何か、霊気の通りが悪いなー?」
アズサは口に両手を当てて覆い、その中で声を反響させた。
「姉様みたいに不調になった訳やないなー」
「変よね?」
「そーやなー……」
詰まりはアズサは霊性ではなく、音の探知に不具合が生じている訳だ。
この村の空気は矢張りおかしい。臭いという訳でもないが、何となく胸もむかつく気がする。
「いーっひっひっひ。それはの、この村が結界に覆われておるからじゃよ」
急に老婆の声。首筋に生暖かい息が掛かった。
ミクマリは小さく悲鳴を上げて飛び退いた。振り返れば骨の飾りだらけの衣装を纏った老婆。
「け、結界?」
「ここが霊場で、悪霊が悪さをするからじゃよ。悪鬼悪霊、勿論婦女子に手を出す悪人も然り。この婆が懲らしめてやるからのう。安心せいよ、若く才能溢れる巫女共よ」
そう言って老婆はもう一度笑い、骨の飾りを鳴らして村の奥へと消えていった。彼女の後ろには若い娘がくっ付いていた。彼女は振り返ると、何か言いたそうに立ち止まったが、老婆に促されて慌てて追い駆けて行った。
「きしょい婆やんやなー」
「アズサ、口が悪いわよ」
妹を窘めるミクマリ。だが、少々不気味なのには心の中で同意した。
「あの婆やん、毒の匂いがしたさー」
「薬師も兼ねてらっしゃるのでしょう。呪術を嗜まれるにしても、悪行をしているとは限らないわ」
と、思いたい。ミクマリは老婆の消えた方を見やる。
「結界で遠くの音は聞き分けらへんけど、近かったら、嘘は分かるさー」
アズサが口を尖らせる。
「じゃあ、次に会った時にちょっと確かめてみましょうね。今は、何処か屋根を借りれる場所を探しましょう」
「そやなー」
度重なる落胆の所為で、神経が過敏になっているのかもしれない。それが伝播したか、村で多少の手伝いや手持ちの品の交換をしながら交流をしていると、アズサは関わった人々が嘘を吐いているかどうかを逐一に報告をして来た。
旅の拠点の村民が、態々旅人へ悪意を撒く筈がない。音術に依る聞き分けも彼等を正直者だと判断した。
それでもミクマリは、何かつっかえるものを感じ続けた。
「おりゃー! 人喰い鬼やぞー!」
童男が頭上に枝を掲げて、もっと小さな幼児達を追い回す姿が見える。
きゃあきゃあと愉し気に燥ぐ子供達。
「こらあ! そろそろ影が村を呑む頃やぞ。いつまでも遊んどると、お前らも影みたいに真ーっ黒にされてしまうで!」
女が子供達を叱った。叱られた子等はその様を指差し、鬼だ鬼だと囃し立てて、逃げて行った。
女は腰に手を当て溜め息一つ。それからミクマリ達へ振り返って、受けた薬の処方の返礼を始めた。
「旅人さん用に小屋は多めに作ってあるんだわ。小屋……つったら違うかも知らんけど、ほら、あれや」
女に案内され、山肌に掘られた住居群へと辿り着く。
「今日はまだ、奥のは空いとる筈やから、好きに使ってな」
穴倉の一つを指差す女。
「それから、火は煙が籠るから、中では絶対焚いたらあかんでな、それだけは注意や」
そう言うと女は世話の礼をもう一度口にして、村へと引き返して行った。
横穴式の住居の中は空気が湿っており、僅かに鉄の刃に似た香りがする。
音も声も土が吸い込み、異様に静かだ。
「こんな処やと、ゲキ様がうちらを見つけられへんくならんかなー? うち、呼んで来よけ?」
立地に関しても、谷底の僅かな平地に造られた集落の要からはやや離れている。
「平気よ。あの方は守護霊の術で私の傍に直ぐ来られるのだから」
「それもそやなー」
ミクマリはアズサに離れられるのが心細く、引き留めの言い訳としてそう説明をした。
だが、不調の後に本当に駆け付けてくれた守護霊の事を口に出すと、幾分か気が楽になった。
――ゲキ様が戻って来たら、この村の結界や言い表せない雰囲気に就いても相談してみれば良い。疑り深い彼ならば、必ず私の不安を払拭してくれる筈だ。
心の中で彼の名を呼び、胸を撫で下ろすミクマリ。
それから一旦、住居を出て火を焚き、アズサと共に自前の夕餉を口にする。
「うー、弦がもじけてしもうたわー」
アズサが自身の大弓を前に声を上げた。今日は“弓ノ音卜”が大繁盛をしていた。その所為だろう。
「弦の換えはもう無いの?」
「ないなー……。紐はあるけど、こんな“きょんきょん”なんやと弱いしなー」
唸るアズサ。彼女の口には干し魚が咥えられたままだ。行儀は悪いが巫力の高い妹は、穴倉の外の松明の明かりを頼りに、弓の手入れや薬事周りの在庫の検めに余念がない。
「ね、アズサ。こんなのはどうかしら」
頑張る妹を見て、ミクマリは一つの提案をした。
自身の髪を何本も抜き、余った紐に織り込み、弦を作るのだ。
髪抜きは余りやり過ぎると霊気の練りに影響するが、今のミクマリには禿げあがりでもしなければ関係のない話だ。
「おー、これええわー」
アズサはミクマリの髪を織り込んだ弦を弾き、言った。
「御守りと併せて、姉様といつでも一緒やなー」
にこにこの笑顔と共に言うアズサ。
妹への助力に満足し、腹も膨らみ、穴倉の静かさも手伝ってか、ミクマリは壁に寄り掛かって、うとうとし始めた。
大地の温かさと言うものか、真冬でもここは随分と過ごし易い。
次第に薬や材料の検めを続ける妹の姿がぼやけ始めた。
――仕事の片付けが終わったらアズサを捕まえて、抱いて寝よう。目覚めればあの人も戻っている筈。
時折、意識が途切れ、夢と思考の入り混じった景色が頭を揺蕩う。
同じく、師と離れ離れになって居た頃。自身の慈愛の精神が正しいか、人々の心の善悪とは何か、それを確かめる為に訪れた騙し合いの村。
あの村では、大人は面倒を擦り付け合い、陰で仕事を増やし、子供達ですら当然の様にミクマリから搾取しようとした。
あれは神と巫女が推奨し、何代も重ねてそうやって生きて来た彼らの生きる術であった。
だがこの集落では、誰しもが旅人へ親切をし、旅人に向けた交易が盛んだ。子供達も遅くまで無邪気に遊んでおり、世話焼きな女がそれを叱っていた。
巫女も胡散臭い老婆であったが、再度会った時にアズサの「婆やん、妖しい霊気しとるけど、何ぞ悪い事しとらんやろなー?」と言う露骨な鎌掛けにも掛からなかった。
呪術師にも色々だ。結界に依り無用の混乱に先手を打つ姿勢は、老獪で信の置けるものだろう。
――何も、何も心配は無い……よね。
ふと、視界からアズサが消えている事に気付く。
「アズサ!?」
身を起こす。神経が研ぎ澄まされ、視界がはっきりとする。
目の前に見知らぬ男。
「誰!?」
身構え霊気を練る。身体の中で気がうねり、痛みが走った。
「お、驚かせて済まん! 俺は影巫女様の使いや! 村のもんが世話に為った巫女がここにおる言うから、命令されて飯を持って来たんや!」
男は目を丸くして壁際まで逃げている。足元には骨製の食器が並んでおり、暖かな湯気と良い香りを漂わせていた。
「ごめんなさい。驚いてしまって。あの、アズサ……童女の巫女を見ませんでしたか?」
「さっきすれ違って草叢に入ってったわ。糞でも放るんやろ。じゃ、飯は二人分確かにここに置いたからな。驚かせた罰とか言って、呪ったりはせんといてな! ほんま、飯置きに来ただけやし!」
脱兎の如く去って行く男。
夜這いの類では無かった様だが、生娘の心と心臓には悪い出来事だ。
意識だけでなく、村への不信も一緒に目覚めてしまった。
持って来られた夕餉からは本当に良い香りがする。先程、腹に落とした干した川魚は早くも消え去っており、次を要求していた。
――アズサが帰って来るのを待とう。
毒見と言えば聞こえは悪いが、こういう状況下では食事はアズサに先に口を付けて貰う方が安心出来る。
溜め息を吐き、空腹を悪化させ続ける夕餉を前に膝を抱える。
次第に夕餉の香りが土の匂いを上書きし、穴倉の中に充満し始めて来た。
ミクマリは心に毒だと、外でアズサを待つ事にした。
立ち上がろうと足に力を入れると、痺れが起こり、倒れ伏してしまった。
明らかな異常。
舌も痺れて声が上げられぬ。
霊気を発して妹や師を呼ぶ事も叶わず。
再び意識薄れさせる娘の最後に見たものは、旨そうな香りを穴倉中に撒き散らす夕餉の白き湯気であった。
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きょんきょん……細い、痩せている。