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巫行094 安心

 そして、その身を海底へと引かれて行った娘が浮上した。

 暫くはずぶ濡れで、何処か邪気(アドケ)ない表情をしながら海面に浮かび、宙に固定された鯛を眺めていた。


(ババア)に初めて降りた時の事を思い出すのう。矢張り、若い身体は良いものじゃ」


 そう言うと、巫女の身体を借りた海神(ワダツミ)は海面へと這いあがった。

 足を踏み締め、海上歩行を確認したり、衣に宿った格上の神威(カムイ)が自身の仕事に障りが無い事を検めた。

 それから、衣の胸の中を覗くと憐れみの声を上げ、直後に驚いて「追い出すのは勘弁してくれ!」と自身の身体に向かって叫んだ。


「……さて、素直に針が出てくれれば良いが」


 鯛の下へ大袖振って歩み、我が子を見上げて両腕を翳した。


 すると、時を数えぬ内に鯛の口から小さな釣り針が飛び出した。空かさず針を掴み取る海神。

「魂消たのう……。この身体、婆処か(ワレ)の万全よりも遥かに勝手が良い……」

 複雑な表情をしながら、もう一度鯛に腕を翳す。封印の術が解け、海神の御子(ミコ)は解放されて、海を泳いで去って行った。

「次は針を滅してしまおうと思う。吾とお前ならば、それも可能じゃろう。こんなもの、残しておいても覡國(カンナグニ)への害にしか為らぬからの」

 身体の持ち主との奇妙な独り言。

「そうじゃのう。天津(アマツ)は意地悪じゃと思う」

 頷きの後、針へ部外の神気(カミケ)が込められる。神人一体の神気。


 だが、二人の苦悶の声が咽から漏れる程の力が込められても、針は未だに形を保っていた。


「……なんとも、無意味に頑丈な針を作りよってからに! 吾とミクマリの力を合わせても壊れぬとは!」

 憤慨し、(クツ)裏を繰り返し水面に叩き付ける海神。

「まあ良いわ。それならそれで、何処かの山中の地中深くに埋めて来てやろう。役立たずの釣り針は、大地の精霊の糧になってしまうが良い」

 ミクマリの身体が赤目見せ、舌を出して針を罵倒した。


 針を手に浜へと踵を返すと、手の中で気配が動いた。


山弟(ヤマオト)は認めず。幾年経ちとて(ナオ)、我は我が幸鉤(サチジ)を欲す』

 針から陰鬱な霊声(タマゴエ)が響く。


「……! 詰まらぬ仕掛けをしおって!」

 慌てて針を高く放り投げる海神。針は光り輝きその姿を変容させ、一匹の巨大な蟲……無数の脚と節を持つ白き“魚ノ餌(ウオノエ)”へと変じた。

 水上へ着地する神の蟲。多くの脚や口が呻いている。

「うっ、虫……」

 漏れる嗚咽は幼女の声に非ず。海神は身体の持ち主の心を宥め、自身の領海の水を繰ると神の蟲へと水撃を撃ち込んだ。

 しかし、水弾は乳白色の殻により弾かれた。

「堅いのう。……まあ良い、吾が村と海が荒らされた怨みを何処にぶつければ良いのか分からず、持て余しておった処じゃ」

 殻の中で更に神気の胎動。海神が霊視した通り、それは確かに彼女の力を上回ったものであった。

 海神は身構える。

 蟲は、ばきばきと乾いた音を立てると、その身体を伸長させ始めた。無数の脚が敵の肉を削ぎ落さんと二つの魂を宿した身体へと迫る。


『山は認めず。山を認める海もまた認めず』


 飛び退き躱す海神。蟲が衣を掠めると、その部分が切り裂かれた。これ迄に一度も破られる事の無かった霧の護り。持ち主の魂が警告を発する。

 再び突撃。次は衣を掠める事無く回避。

「身体が馴染んできおった。神気の練りも早く為ってきたぞ!」

 不敵に笑う海神。破れた衣は、海神の知らぬ内に編み直されている。


 再三の伸長。大蛇の如き長さの蟲が海神の周囲を回転し始めた。脚は高速で動き、円の中の獲物を粉砕せんとしている。

鹽盈(シオミチ)よ!」

 海神が海に命ずると海面が上昇。神気の籠った水が蟲を呑み込み、その回転を鈍らせた。


 母なる流れ操るは調和ノ霊性(ノドミノタマサガ)

 流れの向きの違う激しい海流を二つ作り出し、それを使って巨大な魚ノ餌の身体を引き千切った。


「どうじゃ!? 吾が海域に踏み入った報いじゃ!」

 幼き笑み漏らす海神。

 しかし、一転それは驚愕の表情へと変じた。蟲は身体を繋ぎ合わせると、再びその身を怒張させる。より太く、より長く、より強く。


 天高く昇りそそり立つ侵入者。

 海神の意思に反して波は荒れ始め、空もまた霹靂(カミトキ)を召喚する。天地時化(シケ)狂う神禍(カミマガ)の時。


『報いを受けるべきは愚弟。則ち、山の恵みを受ける千の者。我は偽りの針を拒む』


 天から雷撃。咄嗟に海水を繰り身を護るも、通電がその身を焼く。苦痛の声を上げる海神。


「ぐぬぬ。恐るべし天津の神器。借り物の身体を瑕物にしてしもうた……」

 人の身の(ハゲ)しき痛覚に揺さぶられ、水上へ膝を付く。だが、身体の痛みと傷は瞬く間に消えてゆき、胸の内へと優しき励ましの声が響いた。


『返されし針は呪われし針。その怨み千夜泣き通しても消えず』


 蟲は天を衝いたまま動かない。(イカヅチ)の追撃も無し。しかし、遠方から無数の霊気と神気が押し寄せて来た。

 村を襲い、舟旅を妨害したものと同じく無数の魚と(フカ)の群れ。


 海神はその中に自身の配下の存在を多く感じた。

 天見上げ、眉間に皺寄せ怒り狂う。

「魚なんぞで今の吾を斃せぬ事は、分かっておるじゃろうに!」


『我の目的は神の殺害に非ず。鬱、焦り、貧、憤りを仕返す事に在り』


 悪意の傀儡(クグツ)が迫る。胎の中のもう一つの怒りと共に、海神は飛び掛かる魚達を瞬時に選別した。

「丁度良い、余所の魚には悪いが、民達の明日の糧になって貰おう」

 神器の気を掃い除け、自身の配下は海へ落とし、見知らぬ海の者は浜へと打ち上げる。

 第一波を往なし切り、第二波を待たずに神の蟲を睨み見上げる。


「心貧しき神の意志は、吾等が滅してくれる。赦しを知らぬ者が赦されると思うなよ!」

 海神は神人一体の気を孕む水銛(ミナモリ)を作り出し、憤怒と共に禍の根源へと振りかぶった。


 突如、蟲の前に赤き鱗の巨大な魚が引き摺り出される。助け逃がした筈の愛しき我が子。


「しまっ……」

 既に手中に銛は無し。


 神をも打ち破る銛の一撃が、盾にされた鯛の横腹へと迫る。

 海神は咄嗟に気を送り、銛の軌道を逸らそうとするが、自身の全力を更に(カサ)増しした速度には追い付けない。


『我の怨み、一つ晴らされたり』

 愉し気な神器の声。


――八つ当たりじゃないの!!


 神器のほくそ笑みに被さる様に、慈愛の巫女の怒りが木霊(コダマ)した。

 鯛の鱗打ち砕かんとした切っ先は瞬時に逸らされ、遠洋へと飛び去り消えていった。遥か水平線に立ち上る水柱と、無数の晴れの霹靂。 


「おお……。正直、もう無理かと思った。自らの手で吾が子を滅したとなれば、吾も鬼へと変ずるに違いないのう」

 安堵、震え、怒り。眼差しの色をくるくると変える海神。

「お前はあっちへ行っとれ!」

 それから海神は、鯛へ少々乱暴に神気を送り込んだ。鯛は丸い目玉を一層丸くさせて、これまた身体も円を描いて遠くの海へと吹き飛ばされて行った。


『無念。しかし、我は唯、目的を果たすのみ』

 懲りぬ針の声。再び海が荒れ狂い、波間を縫って敵意に染まった魚達が飛び掛かる。

 海神は再び水銛を作り出し構えると、飛び掛かる配下を正気に戻して海へと落とし、見知らぬ鱶を謝罪と共に銛で突き貫いた。


「切りが無いのう。魚達よ、暫し耐えるのじゃぞ。……鹽乾(シオヒ)せよ!」

 海面へ(タナゴコロ)を翳して掛け声を上げると、玉響(タマユラ)の間に海水は引けてゆき、魚達が晒された海底へと消えていった。


「高天より見ておるか、吾が巫女よ。(カツ)てお前が信じた娘が駆け付け、吾の力と為り、村を、海を救った(・・・)のじゃ!」

 未だそそり立つ蟲の頭を目指し跳躍する海神。女神は心を安堵に揺蕩(タユタ)わせ、自身の勝利を信じて疑わない。


『唯、仕返すのみ』

 愈々(イヨイヨ)、天から俯瞰していた蟲はこちらに向かって頭を(モタ)げ、二人の女へ向かって(クウ)を掻き分け寄這(ヨバ)い来る。


「意地悪なら吾も自信があるのじゃ。山を怨む神の(ハリ)よ、この一撃にて滅されるが良い!」

 手にした銛が(シナ)り弧を描き、端を渡す水の弦を作り出した。


 海幸(ウミサチ)獲る鈎に目掛けて放たれるは山幸(ユミヤ)の一撃。

 母の気籠った(ヤジリ)が蟲の口へと潜り込み、体内駆け抜け、釣り針の化身の命を刈り取ってゆく。

 面皮剥がれ、赤黒い頭部を晒す魚ノ餌は、痙攣と共に(キタナ)き体液を放出し、果てた。


 立ち退いてゆく天津の神気。蟲の残骸も霧へと変じ消滅した。

 干上がった海が湧昇(ユウショウ)と共にあるべき穏やかな姿へと還ってゆく。

 空もまた陰鬱立ち退き、明るき笑顔が取り戻された。


「討ったぞ、仇……」

 海神は浜を振り返り、哀し気な微笑みを浮かべ、それから子供っぽい安堵の溜め息を吐いた。

「ううむ、ずっとミクマリの中に居たい気分じゃが、そうもいかんな」

 名残惜しそうに巫女の身体を抱き締める。

「有難う、ミクマリ。お前のお陰で子を護り、仇を打ち破る事が出来た。後は、じっくりと村と荒れた海を甦らせる任に就く事にしよう」

 そう言うと海神はミクマリの胎内より離れて行った。


――良かった、無事に終わったのね。


 途端に、海面に立って居た筈の身体が海に落っこちた。

 身体の制御を返された娘は慌てて藻掻き、砂浜へと逃れようとする。

 だが、水は重く、それを吸った衣も酷く動きを制限する。

 混乱の内に沈みゆくミクマリ。その様を見て同じく慌てた神が海流を操り、彼女を浜辺へと送り届けた。


『何じゃ? ミクマリは泳げんのか? 神に匹敵する力を持ちながら恥ずかしい奴じゃのう』

 愉し気に響く海神の声。


「そ、そんな事は……」

 そんな事は無い。意地悪な幼女の声に頬を赤らめ咳き込む娘。取り急ぎ、濡れた衣を乾かそう。


 しかし、衣に吸われた海水が命令を聞かない。

 加えて、自身の中を流れる力の変化に気付いた。


――霊気(タマケ)が操作出来ない!?


 異変に気付いたのはミクマリだけではなかった。それまで彼女の身体を借りていた海神が、震え声と共に謝罪を響かせた。


『す、済まぬミクマリ。どうやら、吾はお前の力を吸ってしまった様じゃ』


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