巫行093 矜持
疾る。舟が疾る。
海流に乗り、神器の櫂の一漕ぎで更に速度を増し、神に等しき娘の加護が荒波と迫りくる禍を割る。
見送りの蟹舞は脱ぎ始める前に視界から去り、蟹神の村は水平線へと消えた。
男達の気合の発声を耳にしながら、ミクマリは迫る泯滅の気配に帯を締め直す。
――泯びさせはしない。必ず救ってみせる。
陽が天を叩く前の出立で、まだ傾いて間もないが、遠方に山が見えた。
だが巫女が“妙な気配”に気付くと共に、男達も「海が荒れ始めた」と口にし始める。
荒波、巻波、崩れ波。尋常でない海の乱れ、波間から見える尖った何か。
「鱶だ」
男達が櫂を振り上げた。
ミクマリは霊視する。あの大きな背びれを持つ魚には二種類の気配が混じっている。呪術的な力があれを操っている様だ。
「来たぞ!」
巫女の加護を畏れずに飛び掛かる鱶へ、蟹の神威の一撃が加えられた。
すると、鱶は渦に揉まれる様に宙を舞って、遠くの空へと吹き飛んで行った。
「まだ来るぞ!」
アカシリが声を上げる。次々と飛び掛かる鱶。連中は水中から飛び出すだけでなく、平然と波を無視し、剰え宙を泳ぐ姿も見せた。
ミクマリは彼らの戦いを見守る。過度な霊気の行使は海水を退ける筈だ。転覆の危険がある。この点は師に忠告を貰っており、助力は鼓舞だけに留めた。蟹とアカシリ達を信じろ。
男達の櫂が宙を漕ぐ為、舟は停滞。波の隙間から見える浜辺が一行に近付かないのがもどかしい。
諦めぬ鱶達。次第に他の魚貝も妨害に加わり始め、貝は刃で、駄津は鏃の如く。男達が苦痛の声を上げた。
矢張り自身が出張るしかないかと、巫女は霊気を練り始める。ここまで来れば海に放り出されても、強引に全員を運ぶ事も不可能ではない。
しかし、何か巨大な気配が海中を蠢くのを察知し、思わず娘は声を漏らした。
「何ておっきい……!」
探知で気配の詳細を探る。屋敷程もある巨大な魚だ。それはこちらへ急接近している。
「皆さん、下から何か来ます!」
警告直ぐに絶叫。
「鯨だぁーーっ!!」
巨大な魚が浮上。その背に舟が乗り上げる。
「糞っ! 乗っかったままじゃあ、櫂で叩くのは拙いか!」
悔しがる海の男達。
ミクマリは身を乗り出し、鯨の背に触れる。呪力こそは感じないが身体に二種の気配が宿って居り、矢張り、本来通常の生き物が持ち得ない筈のそれが鯨を操っている事に気付いた。
――神気だわ。かなり強力な。でも、海神様とは違う気配。敵は別の神なのかしら。ひょっとして、天津神。
ミクマリは自身の気を使い、鯨から不審な気を追い出すのを試みた。
「良し……」
しかし、鯨を操る神気は追い出せたものの、鯨は舟を乗せたまま加速し始めた。
「どうして!? 気配は取り除いたのに……」
歯噛みするミクマリ。またも前方から敵意の群れ。
「――――!!!」
鯨が鳴いた。その長く太い聲は、海と空を揺らす。
巨大な背は舟を乗せたまま飛び上がり、飛び掛かる魚達を体当たりで蹴散らした。
「凄え! 全部、吹き飛ばしてらあ!」「同士討ちか?」「鯨が寝返ったんじゃねえか?」
歓声を上げる男達。
鯨がもう一鳴きする。ミクマリはその聲の響きに何処か甘ったるい優しさを見つけ出した。
――ありがとう、助けてくれるのね。
娘は甘き手で大きな背を撫でてやった。
それから鯨は彼の体躯の限界まで浜に近付くと舟を降ろし、巨体を翻すと背中から飛沫を高く噴き上げて去って行った。
浜に下りると男達は息を吐いた。ミクマリも大地の確かさに改めて感謝をした。
妨害の所為もあり、予定の場所とは少し離れた位置に上陸した様だ。避難所は村から離れた処に作られた山の世話になる為の数件の小屋群に設けられており、件の魔物が封印されている地は村……その跡地の浜に在るという。
ミクマリは男達と別れ、浜を駆け、未だ戦っている筈の海神の元へと急いだ。
先程の妨害の程度を考えれば、自然と脚に籠る霊気が強くなる。
――間に合え。間に合え。
沓擦り減らし、ぬかるみに足を取られそうになりながらも砂を巻き上げ駆ける。
そして、彼女の瞳は何とも奇妙な光景を映し出した。
海上。先程の鯨を超える巨大な赤き魚の姿。
あれは自身の里でも御饌として仕入れて扱った覚えのあるものだ。
祝いの場に欠かせない海魚の代表格、鯛。
鯛は鰭をゆっくり動かし、口をぱくぱくさせながら宙に固定されている。
「うーん?」
ミクマリは首を傾げた。恐らくあれが封印されし魔物なのだろうが、どうも拍子抜けをする。
鯛からは確かに幽かな神気を感じる。鯛そのものも異常に発達している辺り、何処かの海域の主たる精霊や神の卵なのであろう。
だが、あの程度の存在であれば、殊更に封印する必要もないであろうし、海神が佑わう村へ致命の所業が行えるとは思えない。
兎にも角にも、現場はここだ。辺りにも覚えのある神気が漂っている。
ミクマリは海神に呼び掛けてみる事にした。
「海神様! ミクマリです。覚えておいででしょうか? 一季節程前に、盗人のアカシリを捕らえた巫女です。アカシリ達に此度の惨事を教えられ、助力しに参った次第です!」
暫しの沈黙。
それから、姿無き幼声が辺りにか細く響いた。
『……外から来た巫女のお姉さんか! 覚えておるぞ。久し振りじゃな。見違えたぞ!』
神の名に似合わぬ声色と、不釣り合いな明るい調子。ミクマリは胸を撫で下ろした。
「海神様。この度の惨事、お悔やみ申し上げます。早速ですが、件の魔物とは、あの鯛でしょうか?」
『半分正解じゃ。正確には、あれの腹に何かが宿っておる』
「腹の中に神気を感じますが、神の差し向けた蟲でしょうか? 滅しますか?」
ミクマリは霊気を練り、波打ち際へと進んだ。あの程度の相手ならば、指折る内に決着がつく。
『待ってくれい。確かに腹の中のものが何か悪意の様なものを撒いておる。他の魚や海水が吾を裏切ったのもその所為じゃ。体内に隠されておる故、その力の真価を計るのが難しいが、それは吾の力を上回る品なのじゃ』
「品? 鯛の腹に何か道具が?」
『恐らくは釣り針じゃ』
「釣り針? 釣り針が引っ掛かって暴れてるの?」
声を上げるミクマリ。村の存亡だの死人だの、神の消滅だのの話の規模に対しては、些か小さ過ぎる様に思える原因だ。
『只の釣り針ではない。風の噂で耳にした事があるのじゃが、天津神の遺失品であり、その上に高位の国津の比売神の加護を受けておる』
「神器なのですね」
『うむ。吾の手に余る神威を持つ。物品である故に、意思疎通は出来ず、唯その性質を発揮するのみじゃ』
「その性質とは?」
『怨み、哀しみ、憂鬱等を引き起こし、山へ害意を向けるものじゃ』
随分と陰湿なものだ。神々は一体、何の目的でそんな品を作ったというのか。
またも天津の勝手か。ミクマリの眉間に皺。彼女の足は自然と海上を歩み始めた。
『待ってくれ! 助力は有難いのじゃが……』
引き留める霊声。
「何でも仰って下さい。今の海神様は針の封印で手一杯の御様子。あの鯛を斃さずに、態々封印を選んだ理由が御有りになるのでしょう?」
『うむ、良くぞ気付いた。恥ずかしい話であるが、針を呑み込んだあの鯛は、吾の子なんじゃ』
「えっ!?」
ミクマリは鯛を見上げる。どう見ても鯛だ。
『あ、いやあ。別に吾が息んで足の間から産んだという訳ではないぞ? 土地神である吾は覡國では身を持たぬ存在じゃ。単に、吾の神気を与え続けて育てた精霊というだけの話じゃ』
少々照れを帯びた声。
「では、取り出して針だけを滅したいと仰るのですね?」
『うむ、そうなんじゃが、腹に憑いた毒蟲を取り除くのとはちと訳が違う。人の身で神気を纏っておる様じゃが、お前は神ではない。扱えるのは水術と巫術位で、神術は持ち合わせて居らぬだろう? あれを吐き出させるには、吾でなければ無理じゃ』
「では、私が鯛を抑えておきましょう。その間に、針を取り出して下さい」
ミクマリは海水を借り、鯛の辺りに縄として漂わせた。
『そうしたい処なんじゃが……』
哀しみの声色。
『吾にはもう、施術するだけの力は残っておらぬのじゃ……』
詰まりは、呑み込んだ子と共に針を滅するしか道はないという事。
酷な選択だ。海神も神とはいえど国津神。天津よりも人に近い振る舞いをする。その気さくで村への奉仕を惜しまない心根は、以前に会った時に充分に承知をしている。
『これは、吾の我がままなんじゃ。針を呑み込んだのは吾が子自身の油断からの事故、村に害を為したとはいえ、自分の子は矢張り可愛いものじゃ』
鯛は苦し気に口を動かしている、その虚ろな瞳は何を見ているのであろうか。
『吾は、神失格じゃ。気付いた時に初めから滅しておけば、この様な災厄を齎す事等は無かったであろうに……』
遣る瀬無き声の響き。
『もう少しだけ、このままにさせてくれぬか? 限界が来たら呼ぶ。後に斃して、出来れば寿いでやって欲しい。本当に情けない。村を破壊し、民を傷付けた一因が己が子であり、その上、共に村を興した巫女まで失ってしもうた……』
霊声は次第に途切れ途切れになり、終いにはその声音に相応しい啜り泣きへと変じた。
ミクマリは黙って、鯛の腹を霊視する。確かに針は自身の呼び掛けには応えない。自分の霊気を限界まで込めた水を飲ませ、それで引き摺り出す手を考えもしたが、そういった物理的な手法も無意味に思える。針は頑として害為す為に、そこに在る心算だ。
天津の意思に人の善悪は通じない。それの引き起こす結果は全て運命だと言って差し支えない。
獣、人、国津神、果ては悪鬼悪霊までもが天津の織り成す布地の為の糸なのだ。
神の衣纏いし娘は空を見上げる。そこに太陽は無い。封印が弱く為って来たか、曇り空はより深い漆黒を湛え始め、鯛とその母の代弁を始めた。
「海神様、御提案があります」
雨の中、ミクマリが言った。
『何じゃ? 若しや、何か手があるというのか!?』
縋る様な神の声。
「私の胎には御神胎ノ術と云う、繋がり無き神々をも神和げる印が施されております。私の身体と気を用いて神術を施せば、御子を御救いになられる事が可能ではないでしょうか?」
師には禁じられ、自身もそれを呑み、責任の契りまでさせたそれ。
禁を破るのは気が咎める。身体も不安だ。だが、村の泯滅の回避に加え、神の存在を繋ぎ、その御子を哀しき運命から救う為であるならば、彼もきっと許してくれるだろう。
……だが。
『も、申し出は有難い。今のお前が神和を行えばそれも容易いであろう。じゃがな……お前、先に訪れた時は確か、生娘じゃったろう?』
「今もです。四の五の言っている場合では御座いませんでしょう? それとも、処女の身は御気に召しませんか。験してみられるのも一興かと」
『宣いおって。処女の身体で女神を神和ぐのは危険じゃ。女神が処女を糧にするという話は、恐らく嫉妬や嗜好の問題ではない。蓋し、その程度の話では神と人が共通の認識を持つには至らぬじゃろう。憑依をすれば、お前の身体に何が起こるか、吾には想像も付かん』
「では、御子をお見捨てになりますか」
『意地悪な言い方をせんでくれ。若しもお前の命に障りがある様な事態に為れば、あの守護霊が黙っておらぬだろう。あの時は言わずにおいたが、あれは吾を上回る気を持つ上に、何やら邪悪な気配も孕んでおった。自身の巫女を殺されたとなれば、吾は疎か、村をも根絶やしにされるに違いない』
「でしょうね」
嵐が稲光を放った。彼が鬼に成ればやるだろう。
『でしょうね、ではないわ!』
「私と、ゲキ様の里は泯びました」
『言っておったな。駆け付けてくれたのも、思う処があったからじゃろう?』
「仰る通りです。この提案もまた、思う処あっての事です。私は里長として、多くの里の子をあやし、躾けていた身です。喩えこの身が月無き処女であろうとも、心は母に通じていると自負しております」
『お前が吾と同じ矜持を持つ事は分かった。じゃが、それだけではお前の身の保証には為らぬ』
「御子を救いたくは無いのですか?」
『無い訳がないじゃろう……・。吾とて、村は大切じゃが、勿論この子も愛しておる。提案を聞いてから、吾が心はお前の身体を喉から手が出る程に欲しておる。吾の村の事は、吾が決める事が出来る。泯滅か、残る全てを救うかの博奕を打つのも吾の権利じゃ』
悩み苦しむ幼声。
「卜占でもない只の勘ですが、きっと上手く行く筈です」
微笑を浮かべるミクマリ。
――確証はない。それでも、これを見過ごすのは私じゃない。
『はあ……女の勘か。分かるがの……どうなっても知らぬぞ』
溜め息一つ。幼声は柔らかくなった。
巫女もそれを確かめると深く息を吐いた。胎が収縮し、痺れる様な感覚を呼び起こす。
「母なる海を司りし御神よ。この処女の身、柱と立て仕りまします故、どうぞ全てを御如意のままに」
ミクマリは目を閉じ、手を組み合わせると纏っていた気を全て天に向けて解放した。
強烈な光が雨を弾き、稲妻葬り、叢雲立ち退かせる。
顕れるは太陽。
力失いし処女が沈む。深き海の底。海神の胎へ。
さかしまに清き器へと集まるは、母神の気配。
二つの禁忌を破った神和が齎すのは救いか、まほろばの地の悲劇の繰り返しか。
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