巫行092 刳舟
隻腕の男の語るは、平和な浜の村に起きた焦眉の急。
一同は治療を進めながら、その話に耳を傾ける。
今を去る事、数日前。海神の海域内で漁をしていた舟が行方不明になった。
昆布巫女とその娘が海藻を使い卜占を行うが、結果は霧か靄か。平時は沈黙を守る海神を降ろして訊ねる事とした。
しかし、海神も原因の特定は出来ず、その幼声は巫女達へ謝罪を届けた。
その翌日にも事件が発生。飯蛸取りの仕掛けの土器が根こそぎ消失しているのが発見された。
この時、海神は神和の儀式を踏まずに霊声で直接巫女達へ声を届けた。
彼女の領海内に不審な生物が侵入。巨大な身体と霊気。気配としては黄泉の尖兵では無し。蛸の仕掛けの後に多くの魚貝も消滅。敵の正体は、荒らして直ぐに海域を脱した為に掴めず。
巫女達は大きな鱶か鯨かと疑ったが、漁師達は痕跡を残さぬ事を不審がり、海神も自身の監視を意図的に逃れようとしている点から、何か他の神の加護を受けているか、我に仇為す意図在りと踏んだ。
その日の暮、海が荒れた。自然な雲の流れでも、海神の怒りでもなく、第三者に依って起こされた大時化である。
荒ぶる波は月の満ち欠けすらも無視して汀を村中へ引き上げ、それが酷く沖へ引いた直後には巨大な津波までもが呼び寄せられた。
遠地の大地の震えの余波で、こういった事が起こる事もあるらしいが、此度の波乱には明確な霊気の操作が感ぜられた。
波に乗って現れる稜威なる者。
魔物は海神と水を制する霊気比べを行い、その海の力を横取りにした。加えて、消失していたと思われた魚貝の一部が波に紛れて現れ、宙を舞い村民達を襲い始めたのであった。
村の老巫女は決死の覚悟で海神を神和ぎ、魔物との対決を図る。しかし、健闘虚しく彼女は破れ、その身を海の藻屑とした。
「あのお婆ちゃんが……」
ミクマリは絶句する。
神代より放り出された海神は力弱まり、その存在を賭して魔物の封印を行った。
封印は成功。海は静けさを取り戻した。
しかし、村の受けた被害は甚大。死者多数。建物群の全壊。海面に浮かぶ魚貝の死骸。村を佑わう海神も、気配はあるものの加護を棄てて封印に手一杯。
海神は何も言わなかったが、討ち死にした老巫女の娘が視るに、封印が打ち破られるのもそう遠くはないとの事。
このままだと神までも失い、村は泯滅の道を辿る事と為る。
そこで、生き残った者から選りすぐり、交流のある村へと助けを求める事にした。しかし、海神が敗北を喫する程の相手となれば、生半可な神の村へ助力を乞うても二の舞は必至。加えて、多くの神は余所の神への干渉を避けたがる。
だが、この近海には気さくで霊験灼然な正義の神が一柱、その名を轟かせている事を知っていた。
救助の要請にはアカシリが手を挙げた。それも単身での提案。彼の山の盗人暮らしで鍛えた足腰を以てすれば、この村までの道を阻む多くの岩礁や山道も踏破は容易い。
だが、村民の一部が反対。
嘗ての盗人は改心し、子供や舟男達と心を通わせてはいたが、非常時の不安が不信を甦らせたか、彼一人へ村の存亡を預ける結論には至らなかった。
「俺は悔しかったが、それも仕方のねえ事やがな……」
拳を握る隻腕の男。
浜辺の者達は陸路に精しくなく、また海路を行くには魔物への恐怖と、潮に逆らう重労働が待ち受けていた。
それでも、封印が利いている内は海も穏やか。短い海路であれば、知らぬ地を挙って走るよりはましであろうと沓よりも櫂を選ぶ事にした。
漕ぎ手の選出。だが、壊滅的打撃を受けた者達から、挙手を得るのは難しかった。
そして、ここでもアカシリは名乗りを上げる。「元が村に害為した盗人だ。死んでも惜しくないだろう?」と。
それに続くは、襲撃により母を失った見習い漁師の少年。彼はアカシリと仲が良く、アカシリ単身の旅の反対へ抗していた一人であった。
加えて他数名、アカシリに信を置いていた者が手を挙げた。
「潮に逆らって舟を動かせる最低の人数だけにしたんや。村を諦めてなかったから、復興した時に漁が出来る人間が居なくちゃならねえからな」
しかし、魔物はそれを見逃さなかった。
海神の封印を掻い潜り、舟へと失寵の呪いを授けたのだ。
海神や巫女によって与えられていた恩寵を失った彼らの船は、他の海域では手荒い歓迎を受けた。
「波は急に酷くなるわ、鱶が嗅ぎつけてくるわでな。何とか見逃して貰ったかと思ったら霧に囲まれちまって。疲れ切った俺達にはもう、どうする事も出来なかったんじゃ」
アカシリは語り終えるとミクマリ達に「ありがとう御座いました」と言った。
「蟹神様が見つけて、舟をこっちに流してくれたそうよ」
ナマコが言った。
「ん……? って事は、ここは蟹神様の村なんか? 良かった。何とか辿り着いとったんか!」
アカシリが笑う。怪我人の数人からも安堵の息が漏れた。
「……でも、話を聞く分では、蟹神様の力をお貸しする事は出来ないわ。御断りよ」
黒髪の間からは拒否の回答。
「何でや!? 頼む。これじゃ死んだもんが浮かばれねえ!」
アカシリはナマコの茂った黒髪に掴み掛かった。
「蟹神様は別の戦いで脱皮を為さったばかりだから、今は殻がまだ固まり切っていないのよ。それに、そちらの海神は蟹神様よりも上だと蟹神様本人が仰ってた事があるのよ。二の舞に為るわ」
「そこを何とか! 二柱合わされば勝機もあるやもしれん! 村が泯びちまうんだよう!」
片手で拝むアカシリ。
首を振るナマコ。それから天井を見上げた。
「蟹神様、いけませんからね」
「……いけないかに? ナマコ、俺は助けたくてうずうずしてるんだに」
上から蟹神の声が響いた。小屋の外には、彼の赤い足の先が見えている。
「国津神は祀る者の為に在り。貴方を村から離す訳にはいきません!」
「どうしてもかに?」
「どうしてもです!」
ナマコが断ると、小屋の外から脚が消え、不満気な唸りと共に足音が遠ざかって行った。
「糞う。俺達が命を懸けたのは無意味だったんか……」
アカシリは巫女の髪を掴んだまま崩れ落ちた。
それを見下ろすナマコは、妖しい笑いを浮かべた。
「ふふふ。何を言っているの? 蟹神様は貸せないと言っただけよ。助けがないとは言っていない。大体貴方、最初には彼女に助けを求めたじゃない」
ナマコがミクマリを見る。ミクマリは頷いた。
「アカシリさん、私に任せてくれませんか?」
「それは有難えが、さっきのは藁にも縋る思いで言っただけだ。ミクマリが俺達の婆さんより立派な巫女なのは知ってるが、神様ですら負けた相手やからな」
アカシリは寂し気に笑みを返す。
『お前と出逢った時であれば、手に余る仕事であったろうな。海神の海域を霊気で荒らせる魔物は生半可ではない』
「今ならいけるってのかよう?」
疑わし気にゲキを見上げるアカシリ。
『ミクマリはあれから多くの鍛錬を熟し、夥しい悪鬼悪霊を打ち祓って来た。今や、海神に封印される程度の敵等、物の数に入らん』
「程度って……本気で言ってるのかよう?」
「アカシリさん、ゲキ様の言う通りなの。私、自分でも訳が分からない位に力を付けてるの」
ミクマリは隠していた気を解放してみせた。小屋や怪我人に迷惑を掛けぬ様、為るべく穏やかに、そして力強く。
静かにはためく提髪と茜袴。その貌は僅かに寂し気な微笑みを浮かべている。
「……驚いたわ。貴女、何者?」
ナマコが後退る。
「ちょ、ちょっと待てよ。これって巫女の気配じゃねえだろう!? 海神様のと同じだ……いや、もっとか?」
アカシリも震え始めた。
『この娘は盗人とは別の意味で人の道を外し始めておるのだ。単身で走れば、陽が沈むまでに解決して戻って来られるだろう』
「ゲキ様。私は人間ですよ」
窘める様に言うミクマリ。
『済まぬ。……そうだな、人為らば敢えて海を行け。お前が陸路を行くと、他に困った者が居る度に足止めを喰うからな』
「う、確かに。でも、水上を走るのは余所の神様の海水を無断で踏み荒らす事になりますけど」
「だったら、俺達がまた舟を出す! 帰りは海流に乗るだけだ。飛ぶ鳥の様に早く戻れる!」
少し前まで瀕死だった男の一人が起き上がり、言った。
「傷が治ったとはいえ、皆さんお疲れでしょう。それに、亡くなった方の弔いもまだ済んでいませんし」
「助けてくれと言って勝手な事を言う様だが、死んだもんはこっちでなく、あっちで弔ってやりてえ。それに俺達だって、早く海神様や村のもんに顔を見せてやりてえんじゃ」
海の男達が洟を啜る。
アカシリは暫く彼等を眺めた後に跪き、頭を地に付けた。
「何卒、御頼み申し上げます、ミクマリ様!!」
形式上、巫女が神と同列に扱われる事は珍しくない。
だが、この既知の男からの神の如き扱いは、人から離れ行く娘の心を確実に傷付けた。
――それでも、この力が誰かの役に立てるなら。
「顔を上げて下さい、アカシリさん。助力は惜しみません。ナマコさん、御食事だけお願い出来ませんか? 術や薬で傷は癒せても、身体を治して舟を漕ぐ力を付ける必要がありますから」
「……その程度なら喜んで。でも、舟はどうするの? 流石にそれを貸すのはうちの漁師も厭がると思うのだけれど」
アカシリ達の舟は荒波と鱶の牙にやられて満身創痍だ。加えて、海神の加護も失っている。
「それなら、俺が用意してやる!」
また蟹神の声が響いた。
「水術師よ、ちょっと来てくれんかに?」
ミクマリが外へ出ると、蟹神が浜で何やら太い丸太を担いでいる姿があった。
蟹神は丸太を降ろすと、赤い脚でそれを指した。
「ちょっと、乾かしてくれんかに?」
ミクマリは要望に応じて大きな丸太を乾燥させた。
すると蟹神は腕や脚の先を使って削り始めた。そして、それは瞬く間に一艘の舟へと変じた。
「刳舟かあ。……魂消たなあ。蟹様は器用じゃなあ」
くっ付いて出て来たアカシリが目を丸くしている。
「水術師、後はお前の加護をくれてやってくれんかに? 悔しいが、俺やナマコよりもお前の方が良さそうだに」
「……えっと、どうすれば?」
ミクマリは蟹を見上げて首を傾げた。
「舟底にお前なりの方法で霊気を込めてやれば良いだけだに。御守りとか作った事ないかに? それがでっかくなっただけだに」
「分かりました」
ミクマリは船底を湿らすと霊気を込めた掌で数回叩いた。それからおまけに自身の髪を数本抜き、舟の尖端に括りつけた。
「うむ。充分だに。それと、これをやる!」
蟹が何かをアカシリへと放り投げた。逞しい片腕がそれを受け止める。
「妙ちくりんな櫂じゃな? 何か凸凹してら」
手に握られているのは真っ赤な櫂。
「俺の殻で作った櫂だに。神器と云う奴だに。一漕ぎで“ざぶーん”だに。鱶や鯨が悪さをしに来たら、それで頭をぶっ叩けば良いんだに!」
蟹神は愉し気に言った。
「ありがとう御座えます、蟹神様!」
頭を下げるアカシリ。
「もう何本か拵えてやるから、その間に飯でも食うと良いんじゃないかに? 残りのお仲間達も起きて来た様だし」
蟹神に言われて後ろを振り返ると、小屋の前には母を失った少年を始め、アカシリの仲間達が立ち並んでいた。
彼等は神と巫女達へ礼を言った。
「巫女様。また、宜しくお願いします」
頭を下げる少年。
嘗て、ミクマリへ世話を焼き、彼女の礼に頬染めた彼はもう居なかった。
『俺とアズサはここに残る。舟の定員の問題と、蟹神の脱皮の件もあるからな。万が一すれ違って問題の魔物がここへ来るとも限らぬ』
ゲキが言った。
「姉様、気い付けてーなー」
アズサが鼻息荒く応援する。
「はい。彼等の村は、絶対に終わりにはさせません。海神様も、必ず救ってみせます」
『ああ、頼んだぞ』
巫女と神は見つめ合い、それから互いに揺らめき、頷き合った。
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時化……海が荒れる事。
刳舟……丸太を刳り貫いて作った舟。