巫行091 来訪
蟹神の勝利を祝って宴が始まった。
海の幸は勿論、山の幸、農産物もふんだんに振る舞われた。
蟹神も豪快に大きな腕を使って御饌を口に運んでいる。
普通、肉のある神でも食事風景は何となく人には見せない神が多いと言われているのだが、彼は気にしないらしい。
「なー、姉様。これ、食ってもええんかいなー?」
香ばしい湯気を上げる器を前にして、アズサが呟いた。
「さあ? 村の方も食べてるみたいだけれど」
ミクマリも首を傾げる。
彼女達に供されているのは大きな蟹の姿焼きだ。普通、生き物の身体を借りる神を祀る地域では、その輩を食す事は禁じるものだ。
アズサの霧の里では烏は禁食であるし、ミクマリの里の山の神は女鹿であった為、禁食ではなかったものの、故意に猟の対象にする事は避けられていた。
「……蟹神様自身が勧めるから、誰も気にしてないわね。ミクマリさん、こっちの鮑が焼けてるわよ」
ナマコが鮑を勧める。
「えっと、遠慮しておきます。それ、お酒を振ってませんでした?」
「……少しだけね。隣村の粟を醸したものだけど、お酒は禁忌の流派?」
「そういう訳では。単に、酔う事に好い印象が無くって」
「……じゃあ、平気よ。酔いの力は強い熱でぐっと減るから」
ミクマリはちらとアズサを見た。それから、苦笑いと共に頷きを貰い、鮑を口にした。
「美味しい」
噛むと、ねっとりと柔らかい弾力を返し、染み出る汁は濃厚。初めて見た時はその見た目に物申したくなったが、海の幸はミクマリの口に合った。
以前、立ち寄った海神の佑わう浜の村では鮑は禁漁の時期だったらしく、食べ損ねていた。
――御婆様や娘さんは元気にしているかな。
同じ海という事もあり、彼女達の事が思い出される。先も、その村に奉仕している筈の盗人のアカシリを思い出していた。
『糞っ。良い匂いさせおってからに』
「……あら、守護神様は御食事をなさいませんの?」
ナマコが薄ら笑いを浮かべながら蟹の殻を割った。
『おい、ミクマリ。身体を貸せ! 俺も食事を愉しみたい!』
ゲキが喚く。
「良いですよ」
意外な返答。ミクマリはにこにこしている。
『言ってみただけだ。本気にするな』
「そうですか? ちょっと位、平気ですよ。今は気分が好いので、鬼の気も抑えられますよう」
ミクマリはゲキに向かって両手を広げた。
『いや、気持ちだけで良い。癖になるといかんからな』
ゲキはミクマリから距離を取ると「騙し討ちでは無かろうな」と呟いた。
「……今、鬼って仰いました?」
巫女の低い声が響く。黒い髪から覗く妖しい眼光。
『……そうだ。俺は里の守護霊だが、里が泯滅せしめられた故に、怨みで半分鬼に変じた』
隠し立てせずに答えるゲキ。
「私、口寄せが得意なんだけど。鬼を降ろすとどんな感じか知りたいわ」
ナマコは「ひひひ」と笑った。
『断る! 俺はミクマリ以外の身体に入る気はない。と言うか、絆も無しに守護神を神和ぐのは不可能だ』
「そう、残念。おっきく実ったのが体験出来たのに」
衣の胸元を引っ張り、豊満な中身を覗かせるナマコ。
『霊魂を誘惑する奴なんて初めて見たぞ』
流石のゲキも呆れた様だ。
ミクマリは彼等のやり取りを気にも留めず、牡蠣に手を伸ばした。
「あちちっ!」
殻で指を火傷し、熱を逃がそうと耳朶に触れる。
「姉様、何でうちの耳朶で……」
アズサが擽ったそうに肩を竦めた。
「アズサ、食べさせてあげる。はい、あーん」
匙も使わず殻ごとアズサの口へ近付けるミクマリ。
「あちっ! 姉様! 熱いやん!」
唇を抑えるアズサ。
「あっ、御免ね。ふーふーしてあげるね」
「姉様、何か、いびこしいわ……」
アズサが顔を顰めた。
『気になっていたのだが、蟹の神というのは珍しいな。普通は精霊よりも土地神が強いものだから、海辺では姿の無い海神が大抵だし、女神が多いのだが』
「……うちも一昔前は海の女神様をお祀りしていたの。蟹神様はその頃は精霊で、当時からあんな感じだったけれど」
『神退ったのか?』
「多分。何も言わずに急に消えてしまったから。この近海では、海神が急に居なくなるのよ。他にも幾つか話を聞いた事があるわ」
『サイロウにでも滅されたか?』
「例の王? 最近は彼の部下は、こちらには余り姿を見せないわね。うちは“こんな”だから避けてるって専らの噂だけど」
『サイロウが蟹舞を習得したら笑えるな』
「確かに。でも、何かの事情で神退ってしまったのは間違い無いと思う。民とやり取りの多い海神も消えてしまってるから。ここからそう遠くない共同の漁場は、それで不漁になって廃れちゃったのよ」
ナマコは真顔で答えた。
『ふむ、気になるな。民が愛想を尽かされたのならば自業自得であるが、何者かの手に依って神が退けられたのであれば、そうは言えぬ。原因が分かればミクマリに命じて叩かせるのだが』
守護霊が唸る。
「彼女、凄い霊気よね」
『うむ、自慢の巫女だが、守護する俺ですら計り知れぬ処がある。あやつの纏う衣も相当の品なのだが、あの神器の衣も自分で編んだ物だ』
当のミクマリはアズサを膝に乗せて食事を与えている。アズサは為されるがままで、何かを悟った様な貌をしていた。
「へえ。でも、ここでは神器は珍しくないかな」
『神器が珍しくない?』
「蟹神様が脱皮為さったでしょう? あの殻は後で彼自身が加工して何かに作り変えるのよ。だから、彼が脱皮する度に神器が増えるって訳。一年前の春にもサイロウの部下が来て、従えだの神器や術を寄越せだの言って来たけれど、蟹神様が自ら、じゃあこれをやるとお面と染料を上げて、何なら秘伝の舞も伝授しようかって言ったのよ。そしたら、彼らは帰って行ったわ。他所はしつこくやられてるけど、うちはそれ切りね」
『そうか……』
何故か落胆するゲキ。蟹神の巫女は「ふふふ」と笑った。
……。
翌朝。ミクマリは目を醒ますと首を傾げた。
「いつの間に寝ちゃったのかしら?」
「ね、姉様。そろそろ起きて貰えへん? もう陽が昇って随分経っとーよ……」
苦し気なアズサ。ミクマリは寝床に横に為っており、脚の間に彼女の身体を挟み、抱き込んでいた。
ミクマリは謝罪をし、アズサの硬く痛んだ身体を水術で解してやった。それから二人揃って顔を洗い、浜へ出た。
浜風は凍て付く様に冷たい。海からは白い靄が立ち上っており、灘の岩々を覆い隠している。
沖の方までも霞み、朝日を受けた水気が光り輝いている。
「うちの里を山の上から眺めとーみたいやなー」
アズサが感嘆の声を上げる。
「温泉にもちょっと似ているかも」
『為らば脱いで入ってみるか?』
守護霊が現れた。
「ゲキ様。朝からお元気ですね」
起床早々、溜め息を吐くミクマリ。
『男は朝が元気なのだ。……それは置いてだな、これは海霧と云うものだ。空気に比べて海が暖かいと発生するものだ。この分だと、今日は漁は無しになるだろうな』
ゲキが言った。浜の方では水夫達が舟を前に頭を掻いている姿が見える。
「蟹神様の力で何とか為らないのかしら」
『為るやも知らんが、神は人の為だけに在る訳でも無いからな、自然に起った事は無理に曲げず、こうして漁を休ませた方が魚等にとっては良いだろう。人が獲り過ぎぬ様に計らうのも神の仕事であるし、魚共が受ける恩寵の一つだ』
「成程。それじゃあ、仕方が無いですね」
男達は漁に出るのをあっさり諦めた様で、舟に腰掛けて談笑をしている。荒波を相手にする屈強な彼等は、こうでも無ければ漁を休まないのだろう。今日は人も魚も休みだろうか。
神も人も魚も、上手く折り合いを付けて暮らして居る。
ミクマリは、今日は良い一日になりそうですねと、霞む太陽に微笑み掛けた。
ふと、男達が沖を指差し、会話を止めた。
それから揃って額に手を翳し、何やら沖の方を凝視している。
ミクマリ達は男達の気配が警戒色に変わった事を察知して、彼等の元へ駆けた。
「どうなさいました?」
「んー、何か来た。舟だが、妙だな……」
男は眉を顰めている。
「何が妙なんですか? お客さん? ……それとも、誰かが攻めて来たのかしら?」
ミクマリも目を凝らす。舟は沖で乳白色の中を揺らめいている。複数の人の気配はあるが、邪気や強い霊気は感じない。
「攻めるなら一隻じゃ話に為らんよ。だが、交易や船旅なら、この霧の中で無理をする筈はない。舟旅をする様な水夫が、あの位置から陸が見えていない筈は無いんだが……」
「私、見て来ましょうか?」
水術を使えば楽に水上を渡る事が出来る。
「いんや、これは俺達の仕事だからな。だが、その前に蟹神様に御伺いを……」
男が言い終わらない内に、村の方から黒い毛の塊が駆けて来た。
「おお、ナマコ様。舟が居ります」
「そうね。蟹神様が、あれを助けろと仰ってるわ。付き合いのある村の神気を纏ってる舟だって。怪我人が乗ってるみたい」
「そいつはいけないな。直ぐに舟を出します」
言うが早いか、男達は舟を押して霧の海へと進んで行った。
程無くして、男達の手に依って来訪者達が救助された。
舟は浸水こそは免れていたが大破しており、櫂も失っている。漕ぎ手の男達は全員気を失っており、ミクマリはその内の何人かの霊気を視て哀しくなった。
駆られる様に怪我人達へ駆け寄る。
「無茶しやがって。こいつ等、昆布ん処の連中だろ。今の時期は潮が逆だ。その上、この噛み痕は鱶の仕業だ。一人は腕を持ってかれてら」
男達が舟を検めながら言う。アズサは私物から鉢と擂粉木と材料を貸出して、ナマコの仕事の手間を省いた。
ミクマリは、先ずは助かりそうな中でも一番重症の隻腕の男の傷を塞ぎに掛かった。
「気を楽に為さって。腕を治療致します」
聞こえてはいないだろうが、一応は声を掛ける。彼は僅かに他のものよりも霊気が強い。霊感持ち程度だ。抗われれば治療に痛みが伴う。瀕死の重傷である為、痛みの衝撃すらも命取りになりうる。
男の霊気は抵抗を見せず、瞬く間に千切れた腕の断面が塞がり、命を失った部分が取れて落ちた。
小さな傷や疲労も見て取れたが、治療を受けると体力が減るとホタルから指摘を受けたのを思い出し、命に関わらない怪我は薬師達に任せる。
次いで、他の者の怪我を診る。霊気を視て諦めた男の内の一人が息を引き取るのを感じ、唇を噛み締める。
応急処置を済ませた後、舟男達の力を借りて怪我人達を小屋へと運ぶ。苦しむ来訪者達。傷を作ってから時が経っていた為、何か毒が入ったらしい。水術で傷を塞いだり、薬で治療をしただけでは彼等の苦痛は収まらない様だ。
怪我の毒抜きの仕度を始めていると、男の一人が呻いた。隻腕に為ってしまった男だ。
「何じゃ? 俺は生きとるんか? 腕がもげた筈なのに、塞がっとるぞ」
頑強な男だ。一番、身体に打撃を受けていた筈なのに、早くも身を起す気配がした。
為らば後回しと、ミクマリは別の伏せった男の口へと薬を流し込んだ。
「へっ、また命を拾ったか。どの巫女さんがやったか知らねえが、ありがとよ。これは水術やろ? 俺は以前、水術師にこんな感じに治療して貰った事があってなあ。小悪党だったのもな、改心させて貰ったんじゃあ」
――何処かで聞いた様な話ね?
ミクマリは男の方を振り返った。精鍛な顔付き、結わえられた髪。道中、男の顔は幾つも見て来たが、記憶に残る様な顔はそう多くない。
この手の頑強な男の顔で覚えがあると言えば、石の社の里のイワオ位か。
「治療は私がしました。失った腕を戻せなくてごめんなさい」
男の顔を見つめ、謝る。力仕事を担う男で隻腕は致命的だ。だが、水術でも腕を生やす事は叶わない。
「ごめんだなんて飛んでもねえ! 俺は命を拾ったんだ。それに、俺は昔は盗人だったんだ。腕を切り落とされても文句を言えねえ身なんだ」
『何処かで聞いた話だな』
ゲキも言った。
「う、寒気……悪霊か? いや、違うな。これは神様だ」
男は翡翠の霊魂を見上げて言った。
『俺が見えるか』
「ああ。昔は気配位しか感じなかったがよう、真面目に舟仕事をやり出してから、こういうもんの勘は強くなってなあ」
そう言って男は言切れた仲間の一人を見やった。
「逝ったのは先輩か。だが、何とかここに辿り着く役は果たせたからか、魂に怨みは抱いてねえな」
洟を啜る隻腕の男。
「はー。ナマコさんやりはるなー」
アズサが感嘆の声を上げた。
続いて、別の怪我人が呻き声を上げた。意識が戻った様だ。こちらは未だ海に繰り出して浅いだろう少年だ。
「少し毒だけど、気付けの効力を底上げして起きて貰ったの。その方が自覚症状を訊き出せるから、後の処置が楽になるわ」
「成程」
アズサが頷く。
「おお、お前は生き残ったか」
隻腕の男が嬉しそうに目覚めた少年の傍に寄った。
「ああ、アカシリさん。おらはまた死なずに済んだのか。母は死んじまったのに……」
少年はそう言うと、腕で顔を覆い泣き始めた。隻腕の男が残った腕で彼の頭を撫でる。その様子を見たミクマリは鼻の奥が痛くなった。
『む、今“アカシリ”って言わなかったか?』
「そうや。俺は昆布巫女の村の新参者のアカシリと言うもんだ。御神様は、蟹じゃあ……ねえよな。ここは蟹神様の村じゃねえのですか? 俺は、村の窮地を救ってもらう為に、霊験灼然な蟹神様に助けを求めに来たんやが」
そう言って“アカシリ”は肩を落とした。
「嘘、アカシリさんってあの、お尻を叩かれ過ぎて赤くなった盗人のアカシリさん!?」
ミクマリは声を上げた。
「そうやが、何で知ってんだ? あんまり良い名前じゃねえから、他にそうはおらんと思うが。こんな本式の巫女様に名前を覚えられる憶えは……」
アカシリの顔が見る見る明るくなっていく。
「お前、ミクマリか! いやあ見違えたな。前はもっと襤褸い衣を着ていたからなあ!」
腕を広げて喜びを表すアカシリ。
「アカシリさんもすっかり顔付きが変わって。気付きませんでした!」
「おう、婆や女共に何度もやられたからな。今じゃすっかり性根も叩き直されたよ」
穴だらけの歯を見せ笑うアカシリ。だが、彼の表情はすっと引き締められた。
「ミクマリ……水分の巫女様に御願いが御座います!」
アカシリは跪いた。
その声、その様、真剣そのもの。ミクマリを見上げる彼は心身共に益荒男を示す。
「俺の、俺達の村を、俺達の海神様を救って下せえ!」
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いびこしい……気色悪い。