巫行090 蟹神
「きしょい。きしょい……」
寝床にて魘される童女。
「……海鼠が気持ち悪過ぎて気を失う人なんて、初めて見たわ」
ナマコが気付けの薬を煎じながら言う。
「大丈夫? アズサ」
ミクマリは大袖で扇いで風を当ててやる。
「ああ、きっしょ! ひじゃけた奴め、その口割いたるやん!」
何の夢を見ているのやら、眠ったままに大声で喚くアズサ。
『面白い奴だな。こいつにも苦手な物があったのだな。蛇でも蛞蝓でも平気な癖して』
「誰にでも苦手な物はあるものです。ゲキ様にだって、何か一つくらいはあるでしょう?」
『無いな。強いて言うなら女の裸が苦手だ』
「はいはい……」
溜め息を吐くミクマリ。
アズサを介抱しながら、蟹神に頼まれた用件に入る。ナマコは憑ルベノ水の才が無い訳ではなかった。
ミクマリが霊視をしてやると、単に鍛錬で使う水に海水が混じっていたり、髪や服に精霊がくっ付いている所為で霊気の操作が困難になっているだけであった。
彼女の得手は自然術ではなく調合で、特に土の精霊の喜ぶ肥料を拵える事であった。先程も畠の土と薬を比べて、肥料の利きを視ながらの調合をしていたそうだ。彼女の調合品は近隣の村では評判で、噂を聞き付けた旅人が遠方からそれを求めて訪ねる事もあるらしい。
加えて、卜占や呪術の類も熟達しており、珍しい口寄せの技も持ち合わせており、黄泉にも高天にも行かず地上に未練を残した迷霊を降ろして会話も出来るという。
これらを用いた巫行により、自然を操る術に長けておらずとも、巫力高き巫女と認められている。
因みに、呪術は命を取る様なものではなく、少々意地の悪い罰を与えるものが主だ。男女遊びの過ぎる者を苦しめたり、畠を荒らす獣を脅かす様な呪いが大半を占める。「邪気も扱い方次第よ」とナマコは笑った。
ともかく、普段から精霊や穢れを弄る事ばかりしている為に、才能とは別に水術を扱うには悪い体質に成っているのであった。
加えてこの地は海の沿岸。水は勿論、潮風も神気を含み、大地は砂状で土の精霊が居つき辛く、火に関しては才無し。霊気の自然術を扱い辛い条件が揃っていた。
それでも、水術は薬事と合わせて非常に便利の良いものである為、ミクマリは錬磨する事を勧めた。
川の上流の水を取り寄せて霊気を通す事から始め、徐々に蟹神の領域の海に近い汽水に切り替えて行けば上達するだろう。欲を言えば、濁り切って乱れた髪をどうにかした方が良いのだが、これに関してはナマコには妙な拘りがあるらしく、頑として譲らなかった。
術に関する話が凡そ済んだ頃、アズサが目を醒ました。彼女は何やら海鼠を包丁で裂く夢を見ていたらしい。
それから、一行はナマコに連れられて村の見学へと出る事となった。
蟹神の佑わう村は、主に漁業で暮らしを立てている。男は銛を担いで舟に乗り込み遠洋へ出かける。その仕事振りは見事なもので、巨大な鯨なる生物を獲って来る事もあるらしい。遠洋であると蟹神の神威も届かぬ為、荒波の上で命を懸ける大仕事となる。だが、大物を獲って持ち帰れば、待つ女子供の安堵の顔と腕振る巨蟹の祝福が待っている。
一方、女は主に蟹神の領分内で貝を弄るのが仕事だ。領分内と言っても、村で貝殻の加工や仕分け等をする手仕事ばかりではない。
この村の女には、海女と呼ばれる役目がある。
男に頼んで舟を出して貰い、女が海へ飛び込み底へと潜る。海底に暮らす鮑や栄螺を捕らえて船上へと持ち帰るのだ。
熟達した海女になると、一潜りの内に二十近い獲物を持ち帰ることが出来ると云う。
舟を操る水夫も、一見すると鼻歌を歌って退屈そうであるが、重要な役を担っているらしい。
近海には、毒持ち以外に脅威になる海の生物は滅多に現れないが、全てを静かに押し流す“潮の流れ”というものがある。
油断をしていると、あっという間に神威の外へと出てしまうのだ。そうなれば命の保証はない。この為、上で待つ男は常に潮の流れを見抜き、舟の位置の微調整を行う。潜り手が帰る為に頼りに出来るのは、太陽が作る舟の影、唯一つなのだ。
海の恵みは他にもある。この村では“塩”を作り出している。海藻を刈り取り、それを干したものを焼き潰した灰だ。これは非常に食事の味を豊かにするもので、また毒抜きが行えたり、食品が傷むのを遅らせる力を持つ。
海水を手間を掛けて煮詰めて、より純度の高いものを精製する事も出来るが、それは祭りや御饌等の神事で用いられる事が多い。神もまた塩が好物であり、悪霊は嫌うという。
どちらの塩も遠方までその名を轟かせており、この村の交易の要となっている。
ミクマリの故郷でも塩は珍重されており、幾つかの村を経てこれを手に入れていた。
交易は遠方ばかりではなく、近所の村との繋がりも硬い。特にここから山の方へ進んだ処にある隣村とは仲が良く、特産品の交換は勿論、時折、村民の気分転換に人を交換して仕事の体験等も行っているそうだ。依って、この海に近すぎる村にも農作物や山の幸が豊富にある。
海には蟹神が居り、山には山の神が居る。直接、顔を合わせる事は無いものの、神々も互いに仲良くやっているという事だろう。
蟹神は、自身の考えに意固地に為り易い国津神にしては、珍しい気質の様だ。ミクマリは久し振りに、掛け値無しに尊敬出来る神に巡り合えて、とても嬉しく思った。
さて、村の見物が済み、ナマコがゲキの命によりミクマリの懐に蛸を忍び込ませようとしているのが夕陽に映える頃、事件が起きた。
「……! 邪気だわ!」
ミクマリは一足先に夜を迎えた方角を睨む。
『邪気処ではないぞ、蟹神の神気を抜けてこの気配だ。相当に濃い夜黒と見た。鬼や悪神やも知れぬ。ナマコよ、お前は戦えるか? この村の防衛戦力はどうなっておる?』
この村には防壁等は設置されていない。開け広げな浜辺だ。ナマコも戦いに向いた術は持っていない筈だ。男や女達が幾ら海に鍛えられ逞しかろうと、稜威なる存在に対しては霊気で向かわなければ意味が無い。
巫女の姉妹は霊気を練り、備えを始めた。
「……ああ、平気ですよ。ふたりとも霊気を御鎮めに為って、見学をしに行きましょう」
そう言ってナマコは蛸を海に戻すと、「ひひひ」と笑った。
一行が村の外れへ行くと、松明を持って村民達が集まって居た。彼等は何やら愉し気に言い合い、右手に烏賊の干物、左手に酒と、暢気に食事をしながら参加している姿までもあった。
彼等が眺めるは、この村の神。邪気を睨む蟹の背中は、松明の輝きに依り一層赤く燃えている。
「来たわ!」
山の方角から夜黒の群れ。多くの悪霊。哀しみの青、憎しみの赤を湛えた熱の無い焔達。
そして、悪霊共を引き連れるのは不気味な黒い人形。それは巨大で、人間の様に手足や目鼻等を揃えてはいたが、全て長さや大きさが歪で、付いている位置もややずれたり曲がっていたりする。
『神気が幽かに感ぜられる。あれは悪神か、何かの荒魂だ』
ゲキが言った。
「“マガツ様”来たーっ!」「二年振り三度目だーっ!」
村民達が叫ぶが、その声に恐怖の色は無い。
「数も多いし、あの人形も強烈な力を放っているけど……。手伝わなくても平気なのかしら」
『平気何じゃないか? 村民達の様子からして、過去に無難に撃退している経験があるのだろう。何より、あの神を見てみよ』
ゲキに促されて見ると、蟹神は巨大な腕を持ち上げて威嚇していた。
「いや、威嚇してるだけじゃ……」
少し前に小さな蟹と睨み合ったのを思い出すミクマリ。
神気。単なる神気ではない。祓の力を感じる。
「うおおお!! 勝負だあああ!!」
蟹は叫び、横向きになると走り出した。巻き上がる砂煙。
蟹が悪霊達の群れに突っ込むと、蟹の気に当てられた悪霊の多くが消滅した。
しかし、巨大な人形は怯む事無く、蟹神の突撃を歪んだ身体で受け止めた。
「蟹神様、頑張れーっ!」
子供が二本指を立て、それを振り振り叫んだ。
「頑張れーっ!」
追加で老若男女問わずの声援が上がる。
蟹と巨人の殴り合い。大禍の空に、殴打の硬い音鳴り響き、砂を孕んだ風が吹く。
生き残った悪霊が、ちらほらとこちらへと悪さをしにやって来た。それをナマコがてきぱきと霊気に依る祓で片付けている。
「良かった。大丈夫そうね」
ミクマリは息を吐く。さて、蟹神の活躍振りを……。
「ぐわああーーっ!! やられたかにーーっ!!」
蟹神は黒い巨人に放り投げられてしまった。
空高く投げ上げられ、村の近くの浜に墜落する。
そして、彼から神気が一切感じられなくなった。
村を護っていた神気も霧散する。
「えっ?」『あっさりやられおった……』「なっとしよう……」
蟹はぴくりとも動かない。
「頑張れーっ!!」「蟹神様、立ち上がってーーっ!」
子供達から応援が上がった。しかし、それを掻き消す不気味な咆哮が響く。
黒い巨人が勝鬨の心算か、夜を迎えた空へと叫んでいた。
「あ、あの。取り敢えず私、あれを祓って来ますね。ゲキ様はここの護りを」
ミクマリは動揺しながらも巨人の方へ向き直り、脚に霊気を込めた。
「ミクマリさん、平気よ。もう少し見ていましょう」
ナマコは走り出そうとするミクマリの衣の肩を引っ張った。衣が開けて悲鳴が上がる。
「ナマコさん! 現実を見て下さい! 蟹神様は……」
ぱきり、乾いた音が辺りに響いた。
音は蟹神の死骸からだ。彼の身体が独りでに割れ始める。中からは光。そして神気が甦り、高まりを見せ始めた。
「ふっかーーーーつ、だに!」
辺りに響く声。割れた殻の中から再誕するは巨大な蟹。
『前よりも一回り大きく、強く成っておる』
「脱皮したんやなー」
蟹神は一足飛びで黒い巨人の前に降臨すると、有無も言わさずその腕で巨人の首を挟み、ちょん切った!
それから目にも止まらぬ手捌きで穢れた神をばらばらにすると、
「はぁーーーーーっ!!!」
気魄の発声と共に祓の神気を放出。辺りは真っ白な光に包まれる。
光が収まると、そこには腕を振り上げて踊る神の姿が在った。
村人から大歓声が起こる。祭りだ祝いだの大騒ぎ。
「いや、その前に勝利の舞だ」と誰かが言うと、村民達は慌てて各々の小屋へと入って行った。
戻って来た彼等は、顔に赤い仮面を被り、手も赤い染料で真っ赤に染めた異様な姿をしていた。
村民達は蟹神の前へと駆けて行き、蟹神と共に腕を振り上げて身体を揺らし、踊り始めた。
『何なんだこいつ等は……』
ゲキは呆然と言った。
「ひひひ、あれは“蟹舞”よ。蟹神様の再生を祝って村の皆で踊っているの」
「はー。蟹さんの真似するんやなー」
アズサも指を立てて身体を揺らす。
――神様本人が居るのに踊ってどうするのかしら? まあ、楽しそうならいいか。
苦笑しつつ踊りを眺めるミクマリ。
しかし、直ぐに舞手の如き赤い顔になった。なんと、踊る人々が老若男女を問わず、衣を脱ぎ始めたのだ。
「脱皮を模倣してるのよ。蟹神様は不死身。再生と成長を司るのよ」
『おい、巫女であるお前は舞わんのか? ほれ、脱げ。立派なものを持ってるだろうに』
ゲキが何か言った。
「残念でした。巫女は神様の代理だから、彼がいらっしゃらない時にだけ前に立って踊るのよ」
翡翠の霊魂を見上げてほくそ笑むナマコ。悔しそうな霊声が響いた。
神と村民達は一頻り踊ると満足し、衣を纏うと村へと引き返して来た。
「ふーっ。久々に良い汗掻いたに」
蟹神が言った。
「お疲れ様です。蟹神様は御強いのですね」
労うミクマリ。
「そうでもない。脱皮直後は殻が柔らかくて守りが薄く為るし、少し危なかったに。“マガツ様”は手強いかに。特に今回のは強かったかに」
「マガツ様?」
「うむ。天津の神様で、災厄を祀ると言われてるんだに」
「悪い神様なのかにー?」
アズサが首を傾げる。
「神様の荒魂ですか」
「いんや。あれは和魂の方だに。他所で起こる筈の災いの運気や悪霊を集めて、力のある者へと差し向けるんだに」
『成程な。天津らしい回り諄いやり方だが、そうやって覡國の不幸を減らしておるのか』
ゲキが感心する。
「だったら、前もって教えるとか、もう少し小分けにしてくれても良いのに」
それでもミクマリは文句を言った。
「ま、天津さんの尻拭いは俺達の務めだに。お前さん方にも気を揉ませた事だし、宴でもやるかに!」
蟹の神は愉し気に言った。
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