巫覡009 緋袴
注意:前日は2話更新しています
村と云うものは、一個の家族の様なものだ。方針や村民の心根の正邪がどの様であろうと、その掟と結束の固さには違いはない。
個人、家族、村、里、國。編まれた血脈と流した血汗の帯を結び合う仲。掟や配慮はそれら次元毎で異なり、その中でのみ機能する。
本来ならば、部外の者に対する慈悲など有り得ず、また法律も充てられなければ意見に耳を貸す事もない。
まして、強制や義無くして漂泊の巫女に対して屋根や器を貸す者は奇特であった。
巫女とは、売笑を兼ねる事多く、呪術に長け蟲を使役し、病の媒介に為り得る最悪の旅人でもある。
ミクマリは漁村を出て北へ沓を踏み出して以降、村を見つけていながらもずっと野山で寝食を熟しながら旅を続けていた。
厳格なる師匠は、矢張り手緩い考えを持った弟子に繰り返しの苦言を呈した。
娘は村々で冷たく遇われ続ける旅に疲労を滲ませながらも、健気に人々の善意を信じ続けた。
繰り返される言い争い。
……が、見様に依っては微笑ましくもあるやも知れない。
師弟は互いに離れる様な事はせず、真面目に巫術の伝授を行い、霊気を磨き続けていた。
「立派な滝」
飛沫迸らせる瀑布を見上げるミクマリ。
辺りは山神の持つ神気を含んだ霧に包まれている。
「迂回しなくては。山を越えればきっと村があると思うのだけれど」
溜め息を吐く娘。長旅で身体は草臥れ、心は人恋しくなりつつあった。
『迂回? 滝を前にしてか? 神気もそれ程ではないし、登って行けば良いだろう』
豪胆な提案を容易く宣う守護神。
「え? 登るって、この滝をですか!?」
殴りつける様な水量。滝壺は熊をも呑み込み兼ねない勢いで鈍い音を上げている。
『そうだ。お前の憑ルべノ水は飾りか? 調和ノ霊性で滝を登る力を付け、探求ノ霊性で滝を掴んで昇れば良い。飛沫が気になるならそれも術で弾けば濡れる事は無い』
「理屈は分かりますが、一度に何種類もの霊気の操作は……」
『だからこそだろうがマヌケ。修行だ、修行』
「うう……。空腹であまり集中が出来ないので、川魚でも見つけてからで良いですか?」
滝を見上げて青くなるミクマリ。
『今朝に野兎の命を余す事無く頂いていたのは誰某だったろうな? 言い訳は要らぬから早く験せ』
「落ちて溺れてしまうかもしれません」
『そうなれば、気を失った処で憑依して代わりにお前の肉体を滝壺から脱してやる』
「……実を言うと、余り身体の調子の良い時期でないので遠慮したいです」
娘は下腹部を摩る。
『“穢れ時”か? とは言え滝の絶壁が示す様に、山越えは悪路を行く事になるのには変らんぞ。長い距離を歩くよりも、近道をして確りと休息を取る方が身体にも良くないか?』
「為らば先に休憩すれば宜しいのでは……。ゲキ様は何だかんだと理由を付けては修行させたいだけでしょう?」
弟子は溜め息を吐く。
『否定はせんが、今のはそんな心算は無かったぞ。お前の身を案じての事だ。水分の巫女よ。空を見よ』
ミクマリは霊声に従い空を見上げた。
天霧る空。遠方から霹靂の音。
「嵐が……」
『そうだ。水分の巫女でならば、雨乞の儀式や舞を行う事もある。普段から天候に関しても気を配るべきであろう。ここは下流で瀑布の膝元だ。沛雨に見舞われれば、水場がどうなるかは理解できるな?』
滝壺は縁一杯に水を貯え、その周りだけ生えている植物の種類が違う。実を余りつけない頑丈な雑草が中心であった。
「ごめんなさい。疑って」
ミクマリは頭を下げる。提髪も萎れたように肩から前へ垂れた。
『気に病むな。若しも滑落した場合は、宣言通り身体を借りるからな。巫女であろうとも気味の好い話でないと考えてるのだろうが、許せよ』
「はい! では、験してみます」
娘は師への信頼を漲らせ、足場に得た心持になった。
それから気魄で不調を吹き飛ばし、霊気を練り始めた。
『沓を脱いでしまっておけ。今のお前はまだ素足の方が水に触れるのに都合が良い』
師の霊声に従い、裸足になり土に足裏を着ける。
研いだ霊気を張り巡らせた身体を堂々と前へ進め、波立つ滝の根へと足を踏み込んだ。
「おお……?」
ミクマリはふと自身の身体が軽くなった気がした。
爪先を差し入れるように水面に近づけると、本来あるべき僅かな抵抗は、まるで冷えた床板を踏むかの様に確かに返された。
『そうだ。その気になれば水面を歩く事も可能だ。滝すらも梯子の様に登る事が出来るだろう』
巫女は滝壺の上を渡り、叩き衝く水の柱へと進む。
飛沫の乱れ飛ぶ中、彼女の麻の衣は肌に張り付く事も重くなる事もない。
滝に手を差し入れると、手足を順に動かして上へ上へと身体を運んで行く。
傍目には危うげな処は無かったが、それは彼女にとって楽な仕事ではなかった。
だが、登頂を完了し汗拭き見下ろした緑の森の続く景色はまた、格別であった。
『お前はここで一息入れて居ろ。降り出す前に雨避けを出来る場所を俺が探して来てやる』
「ありがとうございます。でも、雨も滝と同じ様に避けてしまえるんじゃないかしら」
ミクマリは微笑を浮かべてゲキの霊魂を見上げた。滝登りを達成して自信が膨れ上がるのとは裏腹に、師に傍を離れられるのが寂しく思えた。
『天候を読めと言った筈だぞ。長雨になる。ずっと集中して居られるならそれも鍛錬になるだろうが』
「では、お願いします」
悄然として依頼するミクマリ。
守護霊が遠ざかって行く。
滝を登ったとは言え、振り返れば景色は下流と大して変わり映えのしない森である。
この分であれば崖肌を辿り洞でも探した方が良かったかも知れない。
ともあれ、師との幾許かの絆のやり取りに機嫌を良くしていたミクマリは暢気にも遊び始めた。
今朝方に腹に納めたのと同族の獣を懐かせ撫でたり、巣で首を伸ばす小鳥の雛達を眺めたり、木々の種類を言い当てたりした。
「あら、桑の木」
“桑の木”は粒を纏めた様な赤や黒の実を結ぶものだ。
果実は甘酸っぱく、葉の香りも良く湯に入れても良し、薬効も有り、形こそ湾曲してはいるが、木材としても十分な強度を持ち合わせている。
毛虫や毒虫の類も付き易く、恵みを受ける者に牙を剥くこともあったが、虫は虫で呪術師の道具となったり小鳥を育むものでもある。
ミクマリの里で見掛けられたものよりも小さな品種であったが、ここでも桑の木は変わらず恵みを与えている様であった。
手頃な実を幾つか頂戴し、一摘み口へ放り込むと残りは綺麗な葉に包んで麻の袋にしまい込んだ。
久しぶりの甘味に頬へ嬉しい痛みが走る。
『ミクマリよ。雨風の凌げそうな場所を見つけた』
ゲキが戻って来た。
「良かった。ありがとうございます」
丁度、頬に空からの雫が掛かった。
『だが、少々“気に障る場所”かもしれん。どうあれ山を越えるには避けて通れん位置にあるから、我慢して貰わねば為らぬが』
気後れした様に言うゲキ。
「そうなのですか? ともあれ、行きましょう」
――彼が申し訳なさそうにするのは珍しいな。
ミクマリは首を傾げた。
雨足が強まり、彼女は多少の術を行使して走った。
後から術で乾かした方が楽ではあるが、普段厳しい師が自ら名乗りを上げ屋根を探してくれたのだ。始めから濡れずに済ませたい。
こう殊勝な事を考えながら娘は走った。
しかし、その“雨風を凌げる場所”に到着した時、彼女は滝壺に突き落とされた心持になった。
焼け落ちた家屋群。その半数は土まで含めて黒く煤けている。
煙こそ出ては居らぬものの、霊感の強い巫女はそこに多くの元住人達が燻ぶっているのを見つけた。
「これは……」
『廃れて消えた村では無い様だ。何者かに泯ぼされたか……』
数多の光が蠢き尾を引く。
焼けた地には霊魂の声無き呻きが木霊していた。
ミクマリには霊達が何を訴えているかまでは理解できなかった。
だが、その霊気は悲しみの青を通り越し、夜黒へと足を踏み入れ様としているのを悟った。
「このまま放って置けないわ」
『何やら惨忍事を浴びて覡國に魂が残留している様だ。ここに居ながらにして黄泉に引かれておる。清めねば近い内に悪霊や鬼へと変貌するやも知れん』
「祓って差し上げましょう」
『そうだな、どの道黄泉行きとしても、夜黒を浄化してからのが気持ちが良かろう。俺も手伝う。ミクマリは西側から当たれ』
そう言ってゲキはミクマリから離れて行った。
彼も肉体こそは失っても、男覡であり、また里の長を務めたであろう男である。
村は然程大きなものではなかったが、村民の殆どが念を残していたらしく、祓わねば為らない霊魂の数は厖大であった。
常人よりも巫女の才覚にも師にも恵まれたミクマリも、神経に草臥れを感じざるを得ず、次第に髪と衣を重くしていった。
泯滅されしの民の悲しみの代弁は長く降り続き、祓えは辺りを闇の帳が呑み込んでからも続いた。
「貴女で最後です」
ミクマリが対峙したのは、一際濃い夜黒ノ気を纏った魂。既に悪霊と化している。
村の巫女の御霊。本来祀る民さえ居れば、ゲキと身分を同じく出来たかも知れない。
『ミクマリよ、寿いでやってくれ』
雨上がりの空気か、峻厳なる師の命は震えて聞こえた。
「高天に還りし命を寿ぎます」
清浄なる光と共に穢れた霊気が霧散し、村巫女の魂が高天國へと還って行く。
祖霊が天に昇り叢雲を退け、後には霽月を拝んだ。
「……終わりました」
汗を拭い息を吐く。
『御苦労だった。後はもう休め。滅亡の元が再度現れるとも限らん、俺が上から村を見張っておく』
「ありがとうございます」
礼を言いながら、偶に過ぎる疑問を反芻する。
ゲキ様や霊魂は肉体が無いから、眠ることは無いのだろうか。夢は見ないのだろうか。夜は独りでどうしているのだろう。
『それと本来望むべき形ではないが、村は俺達に恩を着た。何か使える品があれば拝借すると良いだろう。彼らもお前の役に立つ事を望む筈だ』
霊声はそう言い残すと月に重なる様に陣取った。
ミクマリには霊魂の冷えた炎の様な揺らめきが、何処か慟哭している様に見えた。
翌朝、主を失った焦げ臭い寝床から目覚めたミクマリは、村の中を探索した。
焼け残った衣類や器、珍品である“鉄の小刀”や“陽燧”等が発見された。
「これ、どう云う材質なのかしら? 黒曜とは違う様だけれど」
煤けた刃を磨き、破れた屋根から月光に翳す。
『鉄製だな。鉄器は海の果てにあると言われている国から運ばれた品で、従来の材質よりも遥かに優れたものだ』
「豊かな村だったのかしら? そんな遠方とやり取りが?」
『どうだかな。その刃は切れ味の割に血や脂の臭いをさせていない。陽燧にしても鍋の傍に火打石が置かれていた。恐らくは普段は村の種火はそれで蘇らせていた筈だ。態々着火具を複数持つとは考え難い』
「陽燧……」
銅鏡を覗き込むミクマリ。
『そうか、里には鏡が無かったからな。それは自身の顔を映す道具ではないが、似た用途の品で自身の姿を水鏡の様に拝める道具があるのだ』
「前髪を切るのに便利そう」
『まあ、流派に依っては姿を映すのは忌み事とする向きもあるから捨て置け。偸まれて呪術の代にされるやも知れん。火を点けるなら火打石の方が嵩張らんし、そっちにしろ』
ミクマリは少し惜し気に鏡を籠へと戻す。
「どう云う経路で手に入れたのでしょうか?」
ここは大きな屋敷だ。恐らく巫女や長の住まいだったのだろう。村全体としても貧しそうな気配はないし、あの村想いの霊魂の持ち主達が他所から押し盗って来たとも考え難い。
『何かの印に受け取った品かも知れんな』
考え深い揺らめきを見せる守護霊。
「あら、こっちの籠は焼け残っているわ」
ミクマリは枝編みの籠を見つけ、蓋を開いて中身を検めた。
「凄い、真っ赤だわ。まるで夕焼けの様……」
『俺には血の様に見えるがな』
籠の中に収められていたのは、緋色の袴と純白の衣だった。
加えて珍しい模様入りの輝く白布も見つかった。
「ゲキ様、これはどう云った衣装なのですか?」
『見覚えがある。それはとある大きな流派の巫女の衣装だ。“緋袴”と儀式用に羽織る“千早”と呼ばれるものだ。穢れ無き白い衣に、下半身は穢れの赤か。面白い冗談だ』
「緋袴……」
『特に霊気や呪力は籠っていないな。呪いの品でも無ければ、日常の巫行で使っていた品でもないらしい』
またも考え深げに揺らめくゲキ。
「綺麗……」
衣を広げて眺める娘の瞳には憧憬の色が浮かんだ。
『着て見たいのか? 流派違いだぞ』
「べ、別に……」
口籠る娘の瞳は巫女装束に確と結び付けられている。
『荷物に為っても構わぬのなら拝借して行くと良い。その袴の流派は、各地に社を構え、大きな国でも受け入れられている。着て歩けば村々の態度も変わるやも知れんぞ』
「社の巫女を騙れと仰るのですか!?」
ミクマリは声を荒げた。
『俺は案を出したまでだ。お前が着たがるから態々それらしい理由を付けてやったと言うのに……』
「ですから、別に着たくなんて……」
『そうか? では、そろそろ発つか。陽のある内に下山したかろう』
ゲキは率先して屋敷の出口へ向かう。
「あ、あー……。でも、これまで来ていた衣も随分と汚れてしまった気が……」
後ろ髪引かれるミクマリ。
彼女の衣は麻の布を折り穴を開け、腰を帯布で縛った簡素なものである。長旅には耐えず、巫女らしい威厳も無い。
里長であり、今や巫女であったが、他の村娘と変わらぬ服装であった。
『俺は一足先に村の辺りを見て来るから、早う着替えろ』
呆れた霊声が遠ざかる。
「へへ……」
少女は乾いた笑いを浮かべて守護霊を見送ると、欣々と使い古した衣を脱ぎ始めた。
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霹靂……へきれき。落雷。
陽燧……太陽光を集めて着火する鏡。主に銅、青銅製。
緋袴……御存知、巫女の履いている赤い袴。
千早……巫女の白衣の上にケープの様に纏う儀式用の薄い装飾布。刺繍や紐に依る細工が施してある事が多い。