巫行089 海鼠
「は、はい。確かに私は水術師です」
ミクマリは首が痛くなる程に見上げた。
「ちゅー事は憑ルベノ水が使えるんかに?」
蟹神が訊ねる。
「はい、憑ルベノ水の水は私の得手です。何か御困りでしょうか?」
「うんにゃ。うちは巫女も村の衆も、俺も確りやっとるからな。唯、お前さん程の霊気を持った水術師が珍しかったから、聞いただけだに」
「そうですか。あの、屋根を御貸し頂けるそうで。御厚意に感謝致します」
ミクマリは頭を下げる。
「おう。そっちの守護霊だけ気になるが、まあ若い親子が連れ添って旅をしているのやから、男としては助けるのが当然だに」
『親子だとさ』
ゲキが愉し気に言った。
「蟹神様、うちは姉様の妹やにー」
アズサが訂正をする。
「おお、そうか。それは失礼したかにー」
「かにー」
アズサが二本指を立てて真似をする。
「無邪気な童やにー」
蟹神も愉し気にアズサの訛りを真似た。
「お、そうだ。思い付いた! 水術師よ。せっかくやから、お前の腕前をちょきんとばかり見せてくれんかに?」
蟹は巨大な腕をこちらにずいと突き出し言った。
「えっと……」
対決の申し出だろうか。ミクマリは戸惑った。感じられる気配としては自分の勝てない相手ではなさそうだ。
だが、やっ付けて彼の威厳を削ぐ事も出来ない。手を抜いて接待がばれて、気を悪くされても困る。こういう好戦的な手合いが一番面倒だ。
「何も腕相撲をしようと言っている訳やない。水術の腕前が知りたいだけやに。うちの巫女は、どうも余り水術が得意やないらしくて、指南を頼めるかどうか確かめたいかに」
「成程、畏まりました。早速、お目に掛けますね」
何だそんな事か。ミクマリは胸を撫で下ろす。
「よおし、そんじゃあ、村の者に言い付けて川から水を汲んで……」
遠方、海から大きな水音。水分の巫女は、既に海に向かって袖を振り上げていた。
『また無闇に張り切りおって』
師が溜め息を吐く。
宙に持ち上がった大量の海水は、次第に何かの形を成してゆく。
瞬く間に海上に巨大な蟹の水像が出来上がった。
「……凄え!」
元々丸い目玉を更に丸くする蟹。
「面白い奴だに! 俺の水をあんなに沢山、それもあんなに器用に操るなんて!」
ミクマリは驚く蟹神へと笑顔を向けた。
「やが……魚達が迷惑するし、海底の流れも乱れるから、もう治めてくれんかに?」
「あっ、はい。ごめんなさい……」
張り切り水術師は頬染め下を向くと、水をゆっくりと元に戻した。
さて、宿と引き換えにミクマリが頼まれたのは水術の指南。
余り得意でないという事は、才無しという訳ではない。為らば助けに為れるやも知れぬと、先の失態を取り繕う様に捲し立てて、一連のやり取りを眺めていた村民に巫女の居場所へと案内して貰った。
この村の小屋は、重そうな丸太の壁で作られ、その長さも均等で、端は綺麗に切り揃えられていた。屋根にも木材がふんだんに使われている。風で屋根に仕込んだ藁が落ちない様に、重しに石が乗せてある丁寧な建築だ。
浜辺の漁場に設けられた臨時の小屋に比べて、圧倒的に良い作りをしている。木に事欠かない山村でもここまでの凝った作りは珍しい。通年で暮らす為に頑丈にするのは当然かと思われるが、村の位置は森や山からかなり距離がある。
村の小屋の殆どがこの作りなのだが、人の手でこれを拵えようと思えば、どれだけの手間と時間が掛かるか。普通ならば特別な建物にだけ用いる様な業である。ミクマリ達は感心をした。
すると、村民は笑いながら種明かしをした。
実はこれは全て、蟹神が作ったらしい。あの挟み込む腕で木を切り倒し、砂煙上げて材料を運び、彼の腕には砂粒に等しい石を一つ一つ丁寧に乗せて仕上げる。何とも器用な話である。
その話を聞いた守護神は、『神の癖に頑張り過ぎだろう』と突っ込みを入れた。
「すいませーん。蟹神様からの御使いで来た水分の巫女ですけどおー」
ミクマリはこの村の巫女が住むという小屋を覗き込んだ。中は薄暗く、何かを磨り潰す音が聞こえてくる。
「……どうぞ」
女の低い声。
「失礼します」
中に入ると、部屋の奥に何かが“ある”のが分かった。黒い毛の様なものの塊。それはミクマリの頭よりも高い位置まで盛り上がると、こちらへとゆらゆらと近付いて来た。
ミクマリは思わず小さな悲鳴を上げた。
「……驚かせてごめんなさい」
黒い塊が呟いた。
『鹿尾菜が口を利いたぞ!』
「ゲキ様、失礼ですよ! ……貴女がこの村の巫女ですか?」
「はい。私は蟹神様にお仕えする、“海鼠の巫女”です」
ナマコはそう言うと、痩せた手で長く垂れた前髪を退かした。黒目がちな瞳の下には濃い隈、対称的に顔は白く痩せている。老婆ではない様だが、年齢は不詳だ。
『その姿では、ナマコというよりは鹿尾菜だろうが。それでなければ揃毛だ』
「ゲキ様!」
祖霊を振り返り怒鳴るミクマリ。
「……ひひひ。子供に良く言われます。生まれ付き髪が良く伸びる体質で、潮風や海藻にやられやすい質みたいでして」
平坦に笑うナマコ。彼女の髪の毛はミクマリよりも遥かに長く、腰処か足元迄に達している。提髪結うミクマリとは違って髪は自由にしており、言った通り痛んでいるのか、曲がりくねっている。その上、彼女は妙に背が高かった。
「なーなー、ナマコ様。海鼠って何ぞ?」
アズサは怖じもせずに彼女に近付くと訊ねた。
「あ、海鼠知りません?」
ナマコはアズサを腰を曲げて覗き込んだ。髪が垂れてアズサが呑み込まれた。
「この子、海を見たのは最近で」
「……そう。じゃあ、私がどうして海鼠の巫女って呼ばれるか、教えて上げるわね」
そう言うと海鼠は、隅に置いてある水壺を持ち出した。
「何か入っとーな?」
アズサは壺を覗き込む。……が、すぐさま身を引いた。
「……きっしょ!」
目を丸くし、白い歯を見せるアズサ。
「うふふ、気持ち悪いでしょう? これが海鼠。海に棲む、何だか分からない生き物よ」
またも平坦に笑うナマコ。彼女は壺に手を突っ込むと、中身を引き摺り出した。
「きゃあ!!」
今度はミクマリが悲鳴を上げた。
ナマコの手に握られているのは、疣の付いた巨大な蛞蝓の様な滑った物体だ。
「私はね、これを使って卜占をするの。巫女に就いて最初に覚えたのが海鼠卜いだから、ナマコって名前になったの。貴女達、何か卜って欲しい事、ある?」
「な、無いわ」
ミクマリが首を振る。
「……そう、残念。海鼠って、種類に依っては身体の中身を吐き出すのよ。その様子から成否や吉兆を知るの。見る? 中身」
「け、結構です!」
ミクマリは身震いした。
『卜いは良いから、一つ頼みを訊いて貰って良いか?』
ゲキが言った。
「……あら、性悪そうな霊魂。気が合いそうね。何でも言って」
ナマコが不敵な笑みを向けた。
ゲキは一体何の頼みがあるのだろうか? ミクマリは首を傾げる。
『その海鼠を、こいつの懐に突っ込んでくれ』
「何でよ!?」
叫ぶミクマリ。
「……任せて」
髪の狭間から白い笑顔を見せて、ナマコ巫女が迫る。
彼女はミクマリの衣の袷を引っ張り、手に握った蠢き潮水吐き出す物体を押し込もうとする。
悲鳴を上げて押し退けようとするミクマリ。祖霊が爆笑している。
「……あっ」
ナマコはミクマリの衣の中を覗き込むと声を上げた。海鼠を押し込もうとする手も止まる。
「えっ? 何?」
「貴女、胸が無いわね」
ひひひと笑うナマコ。
「何なのもう!」
ミクマリは自身を掻き抱くとしゃがみ込み、隙の無い守りを披露した。
『そうなのだ。此奴は残念なのだ』
哀し気に揺らめく守護霊。巫女は殺意を込めて下から睨んでいる。邪気だ。
「……海鼠、二つ入れた方が良いかしら?」
再び壺へ手を突っ込む海鼠。
「要りません!!」
怒鳴るミクマリ。
「じゃあ……“おっきく実るお薬”を煎じて差し上げましょうか?」
ミクマリの耳がぴくりと動いた。
「……私、術よりも薬や呪いの方が得意で……うふふ。色々験している内に、おっきく実るのが出来ちゃったの」
そう言うとナマコは垂れた髪を後ろへ除け、ミクマリの前へしゃがみ込むと自身の衣の胸の部分を引っ張った。
「わあ……」
ミクマリの瞳に、険しくも豊かな谷が映る。守護霊も唸った。
「……他にも、毛の生える薬や、植物が良く育つ薬も作ったわ。さっきも、隣の村に頼まれて、豆の育成に良い薬を煎じていた処なの」
薄暗い小屋の奥を指差すナマコ。
「ふ、ふうん。薬だったら、私の妹も得意なの。ね、アズサ。ちょっとこの方とお薬の調合の交換でもしたらどうかしら?」
ミクマリは卑しい笑いを浮かべながら、アズサを振り返った。
「あ、あら? アズサ?」
しかし、そこに居たのは、目を回して泡を吹いた童女の姿であった。
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