巫行088 迂回
地蜘蛛の巣穴からの出立。
水分の巫女達は、恩着せ、力見せ、憐れな神への慈愛を共にした相手から感じる僅かな親しみの視線を掻い潜り、礼儀と平静を装いながら、次なる旅へと向かった。
村を離れて最初の野宿の際、守護神と巫女のどちらともなく切り出される欺瞞の話題。
ミクマリとゲキは互いに己の嘘を白状した。
確かに怨みの根源は豺狼の王へ遡れる。しかし、瞼に炎焼き付き、耳に悲鳴の残響こびり付く里の惨忍事に手を下したのは紛れもなく黒衣の集団。
あれは、仇の地では心が募る憎悪に打ち勝てぬのを感じて、その抑えの為に並べた御託であった。
もしも、本当に原因を追究するのであれば、オクリ達や王だけでなく、天津の神々すらも復讐の相手に加えなければならないだろう。
被害者は赦すというのならば、贈りの流派もまた神々の戯れの犠牲者。その贈りの品すらも同じく。
理屈に依る切り分けと、感情に依る審判が入り乱れ、復讐者達は頭を悩ませる。憎しみは禍根の輪を広げ、優しさは迷いの呼び水となり、復讐そのものへの疑念も生んだ。
最早、誰かを断罪する事では彼女達の心は救われぬ。だが、里の者の魂は救ってやりたい。
『考えれば考える程に、訳が分からなくなるな』
「知れば知る程、どうすれば良いのか分からなくなります」
それでも、妹巫女の夢の導きを信じて、御使いを祀る里へと進路を取る。
答えへの迂回、復讐への迂回。それらをなぞる様に、旅路も迂回が始まった。霧の里へ最短で直行するには、童女を連れては余りにも険しい山々を越えねばならない。これ迄の道筋をさかしまに辿るには、時が掛かり過ぎる。
見聞を広めれば答えも見つかるやも知れぬと後押しし、一行は別の道筋を探して海沿いを進む事にした。
言い訳は多く並べ立てられたが、彼女達の心には峻山よりも、凪の海原の方が優しく見えただけだったのかも知れない。
さて、復仇ばかりが旅に非ず。悩みは同時に歩調も下げ、それに合わせて彼女達の足取りは幾分か気楽になってゆく。
「海は変わった“かざ”がするなー」
『潮の香り、磯の香りというやつだな』
河口の岩場で、アズサが腰掛け釣り糸を垂らす。鍛錬を兼ねた食事の調達。ゲキはのんびりと潮風を受けて漂っている。
対岸ではミクマリが汽水を相手に手を翳して霊性の鍛錬を行っている。
「この辺りは海と川が半々ね……」
海からの潮と、川からの流れがぶつかる汽水域。性質の違う水の混ざり合う地点は霊気の通り方がまちまちで扱い辛く、霊性の鍛錬には持ってこいである。
水は、清ければ清い程、霊的に“軽くなる”。汚れていたり、穢れていたり、中に精霊や生物が潜んで居たり、他者の気が籠っていたりすれば“重くなる”。
もっとも、普通程度の水術師では、海水を持ち上げる事は叶わないのだが。
「あの時は殆ど持ち上がらなかったのに」
細い指で沖の景色をなぞると、次々に大海原から水球が生まれ浮き上がる。
ミクマリは初めて海を見た時の事を思い出していた。
山で遭遇した覗き魔……ではなく盗人を捕え、その窃盗の被害に遭っていた村へと突き出した日の事。
「アカシリさん、ちゃんとやってるかしら」
当時のミクマリは、どんな悪人でも改心を信じて疑っておらず、その男も凡そ赦し、村へも奉仕を行う事で罪を帳消しにする様に頼んだのであった。
アカシリは、結局はミクマリの出立の直前に逃走を図り、浜の村の昆布巫女達の呪術によって取り押さえられてしまったのだが。
彼が真っ当に村に根付いて居れば、そろそろ舟仕事を覚えた頃合いだと思うが、今のミクマリが思い浮かべたのは山に戻っている姿だ。
それでも彼は、性根は真面と信じている。ミクマリは「惨忍事は避けて、人を困らせる程度で御願いしますね」と心の中で呟いた。
回想を止めて修行に戻ろうとすると、沓に何かが当たった。
赤いそれはミクマリの足を迂回すると、横向きに歩いて水の中へと入って行った。
――蟹だ。
蜘蛛の様な脚に、大きな腕。全身は甲虫の様な殻で護られている。
ふと、疑問に思う。
――蟹って、蟲の仲間なのかしら?
蟲嫌いのミクマリ。芋虫、蜘蛛、蛇は大の苦手。子供が喜ぶ様な甲虫もいけない。夏場の山の木々でけたたましく啼く蝉は最低だ。蜥蜴の類は手足さえ見えていれば見逃せる。蝶は遠目で眺めるのみ良し。吸血の類は誰か残らず鏖殺して下さい。
だが、蟹の剽軽玉な動きには愛嬌すら感じるし、山の隠れ里では沢で食事の為に自ら捕らえた事もある。
蟹は水に入ったり出たりを繰り返して忙しい。何をしているのだろう。
験しに指を近付けてみる。
「痛いっ!」
挟まれた。これは矢張り蟲だろうか。
ミクマリは、巫女とは別の天性の能力として“甘手”を持っている。動物が警戒を解き、懐く力だ。
最近は、霊気や神気に恐れを為して別の態度を見せる獣も増えたが、相変わらず獣や鳥……毛虫と人間以外の毛のある生物は、彼女の手招きに抗う事が出来ない。
大雑把な認識として、甘手の利かない生き物は蟲と魚だ。水辺に暮らすからと言っても、よもやこれが魚という事は無いだろう。
とは言え、蟲とも何だか違う気がする。
ミクマリは砂の上で両腕を振り上げる赤い生き物に対抗し、両の大袖振り上げ威嚇を返した。
蟹は逃げない。赤腕の蟹と白袖の娘の睨み合い。
「……そうだ、蟲と言えば」
ミクマリは、はたと思い付くと口に両手を添えた。
その視線のずっと先には、目を閉じて釣り糸を垂らす童女が岩場に腰掛けている。
「アーーズーーサーー!!」
アズサは小さな肩を跳ねさせ、得物を落としそうになった。
それから慌てて岩場を下り、川の浅い処を探して頭をあっちこっちへ向け、水をばしゃばしゃやりながらこちらへ駆けて来た。
「姉様! 何ぞ!? 何かありましたか!?」
息切らせる童女。
「蟹って蟲の仲間かしら?」
ミクマリは、足元で未だに両腕を振り上げる物体を指差して訊ねた。
「は? それで呼んだんけ?」
目を丸くするアズサ。
「うん」
返事をすると妹は肩を落とした。
『詰まらぬ事でアズサを呼びおって。もう少しで真鯒が釣れる処だったというのに』
「へへ、気になっちゃって、つい。ねえアズサ、“苦手”なら蟲かどうか分かる?」
僅かに頬熱くして訊ねるミクマリ。
呼んでから気付いたが、音術の修行も兼ねての釣りだ。雑音なら修行の足しになるが、姉の呼ぶ声ではそうはいかぬだろう。
「姉様。“苦手”は姉様の甘手の様に懐かせる技ではありません。蟲の毒に強く、捕らえる骨を天性で身に着けている者の事です」
アズサはやや他人行儀に言った。
彼女は蘊蓄を垂れる時、目上の者と話す時に邦の訛りが消える。馴れた後はミクマリに向けられる事は滅多にない。
「ふうん。じゃあ、蟹が蟲かどうかは分からない?」
「どうでも良い事です。蟲だったらどうするんですか?」
「どうもしないけれど……」
蟲だと分かったからといって、逃げたり恐がったりする心算はない。ミクマリは単純に気になっただけだった。
アズサは蟹を掴むと、その辺の石の天辺に裏返しで置き、それから大股でのしのしと釣り場へと引き返し始めた。
「怒らせちゃった」
頬を掻くミクマリ。
『そりゃな。そんな詰まらん事で呼ぶからだ。お前にでかい魚を喰わせてやろうと息巻いて、苦労の末に漸く砂に隠れる真鯒を誘き出せた処だったのだがなあ』
ゲキが呆れる。
「ああん、アズサ御免ー」
ミクマリは藻掻く蟹を助けてやると、妹の後を追って駆けた。
『そもそも、アズサも態々ここへ駆けずとも、音術でミクマリに声を届ければ良かったではないか。その気に為れば、あの位置から普段の話し声でやり取りが出来たのではないか?』
「釣りに一生懸命やったからなー! 思い付かんかったやん! 大きな声で呼ぶもんやし、姉様が何ぞ困ったかと思うて急いだんやん!」
アズサは振り返らずに、衣が濡れるのも構わず水を蹴飛ばした。
ミクマリは、その日はアズサに口を利いて貰えなかった。
潮風と山背の風に流されて、海辺を行ったり来たりの漂泊の旅。
旅慣れたゲキが言うには、海岸線が長く北上し始めた位置から海を離れ、険しい山を目指せば、霧の里のある地方へと戻れるとの事。
離れずそのまま、海岸線を行き続ければ、ミクマリが初めて海を目にした地に辿り着くと云う。そこから北に山一つ越えた位置にあるのが彼女の故郷だ。
各地を行脚し、様々な村や集落の文化に触れて来たミクマリは、次に出逢う村がどの様なものなのかを知るのが、愉しみになっていた。
海沿いには比較的人の姿が多い。季節や月の満ち欠けで環境が変わる為か、通年で居を構えている事は少ないが、期間限定で海の幸の為に人が集まる集落には何度か遭遇している。
妙な衣を着た姉妹と翡翠の霊魂。幸い、奇妙な一行は警戒よりも好奇の目に晒される事が多かった。
海の民達との交流。ちょっとした巫行や水術に依る助けと交換で可食の海の幸を習ったり、地理に関しての追加の情報を得た。
「この先の浜辺に、大きな村があるそうです」
『ほう。浜に大きな村は珍しいな。いつぞやの海神が司る地とは、まだ離れておるしな』
「そこにも別の海神様がいらっしゃるのかしら?」
『海神かは分からぬが、人が根付けば神や強い精霊が現れるものだからな。何かしら稜威なる者に護られておるだろう』
狩りや採集用の集落は長く無人になる場合が多い。そういった地では神が産まれ難い。産まれても祀られずに居れば弱って消えてしまう。その為、神の元である精霊も精霊のままでいる事を選ぶ。
「いかつい神様やなかったらええなー」
アズサは今日も食事の支度をしている。砂地に掘った穴に海水と貝と蟹を入れ、そこへ焼けた石を枝で挟んで放り込んだ。
『今更、ミクマリが恐れる必要のある国津神はおらんと思うがな』
「そうですね」
ミクマリは水の蒸発音と共に口を開く憐れな捕虜達を眺めながら言った。
――茹でよりも、炙りが好きかなあ。
国津神は天津神より関わりが楽だ。神とはいえ、術や霊気の力は今のミクマリを下回るのが殆どだろう。彼女は手前勝手な神であれば平気で叱るし、真心の強い相手であれば親身になる。描かれなかった旅路でも、繰り返しそれを貫いて来た。
食事を終えて浜を進んでいると、確かな神気を感じた。
「成程、ここからが神さんの力が“たらう”土地なんやなー」
アズサも神気を察知する。
見回すも、まだ家々は見えない。更に先に進むと次第に神気が濃く為った。悪霊や喧しい呪術師を不安がる必要のない気配の強さだ。
『思いの外に力の強い神だな。霧の里の川神以上、湖の水神以下と見た』
ゲキがこれ迄の旅で出会った神と比べて力を計る。
だが、進めば進む程に神気は強く為り、漸く家々が見えて来た頃には一行から余裕が消えていた。
部外者の気を察知してか、神気は肩に重く圧し掛かって来ている。ミクマリにとっては肩凝りも呼ばないものであったが、その表情は引き締められており、アズサは脚を引き摺り、その手を姉に引かれるに任せていた。
「珍しい。巫女様かあ」
来訪に気付いた村民が近付いて来た。
「はい。私達は旅の水分の巫女です。宜しければ、この村に屋根をお借りしたく思いまして。交換に巫行や水の難事を引き受けます」
「ん~。まあ、俺達は気にしねえけどよ。空き家もあるし……」
村民は頭を掻いて村の方を振り返った。彼はミクマリ達の様に身体を重くする素振りは無く、村では子供が蟹同士を対決させて遊ぶ姿や、女達の談笑する姿も見受けられる。
『当てが外れそうだな』
ゲキがぼやいた。
村民は豊かで平和に暮らしている様に見える。
女の衣装は腰蓑。子供までも釣り竿を持っており、飼い犬の姿も見られた。
大きな村である為、屋根や器を借りるだけでなく、里作りに役立つ話や面白い風習も聴けそうだ。
だが、神も確りと仕事をしている。今も部外者だけを選りすぐって圧を掛けている。残念だが、ここは大人しく神威の域から外れて野宿を選んだ方が良さそうだ。
「ま、神様に聞いて来てやんよ。ちょっと待ってな」
村民はそう言うと村の方へと駆けて行った。
「うう、しんどいなー」
アズサは気怠そうに言った。
暫く待っていると、圧し掛かっていた神気が軽くなった。
「楽になったわー!」
アズサが表情を明るくする。
「良かった。神様から御許しが出たんだわ」
『俺も含めて警戒を解かれた辺り、何も心配しなくて良さそうだな』
胸を撫で下ろし笑顔を交換する一行。
「神様、村に居ても良いってよ。強い水術師は珍しいから会いたいって仰っとる」
村民が駆けて戻って来た。
「そうですか。ありがとう御座います」
ミクマリは微笑み、村民へと丁寧に頭を下げる。
「では、早速神様に御挨拶に……」
処が、急に地響きが聞こえ始めた。
「な、なっとな!?」
アズサが姉の茜袴にしがみ付く。
「お客さんに御足労願うのもなんだからって。神様、来るってよ」
『肉ありか。生き物の精霊出身だな』
「ね、姉様。あれ見やりー!」
アズサが大声と共に村の方を指差した。
村の向こうから現れた砂煙。それは浜から大きく離れると、一旦停止、少し後退してからこちらへと進路を取った。
「えっ……」
ミクマリは目を丸くする。
沢山の足が激しく砂地を掻き、日光に照らされた赤い甲羅は眩しく光る。同色の巨大な腕も逞しい。
砂煙は猛然とこちらへ疾り、ミクマリ達の前をちょっと通り過ぎてから戻り、静止した。
「ほーぅ。お前が、旅の水術師かにー?」
空気震わす人語。太陽を背にした黒く丸い瞳がこちらを向いた……気がした。
村から現れた神は何と、見上げる程に巨大な蟹であった。
******
かざ……臭い。
汽水……余り濃くない塩水。海水と淡水の混ざったもの。
たらう……足りる、届く。
※おさらい 蟲……昔は凡その小さな生き物を一緒くたに虫、蟲と呼んでいました。蜘蛛や昆虫は勿論、蛇や蛙も虫の扱いです。漢字の成り立ちを見る辺り、蟹も虫だったのでしょうか?